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2008年12月

2008.12.01. ど真ん中を過ぎ、遠州路へ。ふれ合いもあった一日。

2008.12.01.

東海道五十三次十四日目 前半 袋井〜見付〜

朝5:35に家を出て、11月5日に歩き終えた場所、袋井へと向かいます。

普通電車を乗り継いで行きますが、熱海だ、沼津だ、と何回も乗り換えなければならない時間帯は避け、なるべく乗り換えが少ない時間帯で、最初に乗った東海道線が静岡行き、を選んで行きました。

普通電車ですが、特急車両を使っていて、富士山が見える側の窓際に座れました。

おかげで、三島〜富士〜富士川の富士山が最高でした。昨日から、富士山はずいぶん白くなりました。

9:49袋井着。駅前公衆トイレの壁には、袋井のマスコット鳥のフーフー君がいました。

袋井の駅前では、クリスマスイルミネーションの配線をするために、何人かが集まって作業準備をしていました。

私はまず「あるく助け」という足袋型サポートソックスを履き、コンビニでお赤飯おにぎりと温かいお茶を買って、二度目の朝御飯。朝5時過ぎにパン1個食べたきりじゃ、もたないからね。

身支度を整え、歩き始めたのは10:05。

駅前に、レトロな銀行がありました。

和橋を渡って、この前見つからなかった斜めの道を探しにいきました。

この前、どまん中茶屋のおじさんに勧められた木製の常夜灯をまず見ました。

常夜灯の写真を撮った後は、今来た道をさらに進んで、国道からどう分岐したのかを確かめました。迷った分岐に出たのが10:28。これは明るいときでなければ分からないし、暗いと危険かも、この道は。

どまん中茶屋再訪は10:34。

この前はおじさんが一人しかいませんでしたが、今日は3人いて、さらに後から二人来ました。後からの一人は、この前のおじさんでした。

お茶と、袋井のパンフレットをいただき、エビセンを食べていたら、「紅葉を見に身延へ行ってきた」というおばさんが来て、みのぶ饅頭をいただきました。

記念記帳をしていたら、「今朝は夕べ袋井に泊まったという女性3人が来た」とのことで、私の前の書き込みを見たら、我が家とは比較的近くの市の方達なので、会ってみたかったなあ、と思いました。

お茶をもう一杯飲みたかったけれど、出そうもないので出発しました。

前回は暗くて見えなかったけれど、どまん中茶屋は「日本一小さな歩く道の駅」という看板が出ていました。

少し行くと、東海道からはほんのちょっと外れる白髭神社の看板を見付け、見に行きました。

東海道に戻り、この前、真っ暗な中で見た袋井東本陣跡を改めてじっくり見ました。その先、この前はライトアップされていた白壁を道からしか見なかった袋井宿場公園にも行きました。トイレに「東司」と書いてありました。

どまん中茶屋も袋井宿場公園も、前回真っ暗な中に灯りが灯ってとても素敵な所に見え、次回は明るい時にじっくり見ようと思っていたら、今日はこの前ほど「いとをかし」に感じられなくて、ちょっと残念。夜目は何でも美しく見える?灯りに惹き付けられるマジックだったのかな。

袋井の町には、所々に案内板が設置され、広重だけでなく、なんとか版、といういろいろな袋井の版画が展示されていました。

暫く行くと丸凧工房がありましたが、今日は閉館日。月曜はあちこち閉館だらけでした。

さっき見た、某版の袋井の絵に、袋井の丸凧が上がっている絵がありました。

御幸橋の公園には、高札と西見附の杭がありました。ここのトイレには、雪隠と書いてありました。私は雪隠に入りましたが、タバコ臭い。外で吸ってほしい。

左側にレトロな洋館があり、映画「たみおのしあわせ」のロケ地、と書かれていました。「たみおのしあわせ」って映画、知らなかったんだけど、オダギリジョー主演らしい。まだどこかでやっているかなあ。

寺澤屋長屋門という、立派な門を見て、その先、木原一里塚は、土が盛られた塚に木が一本。

矢印が右方向に「木原古戦場」となっているので、右側に探しに行ったのですが、400mのはずが、かなり行ったのにない。

本を取り出して調べたら、木原古戦場は東海道沿いにあり、こんなに外れたところにはないので戻りました。大分無駄をした、と思いましたが、おかげで刈り入れ後の広々した田んぼを見ることが出来ました。遠州は空が広い。

東海道に戻り、もう少し先に進んだ所にある許禰(こね)神社に、「木原畷」(きはらなわて=古戦場)の札がありました。

磐田市に入ったのは11:50。

今日は、飛ばし気味です。どまん中茶屋で聞いた3人の女性に追い付きたい、と思って。時間差はかなりあるみたいだけれど、3人だから、きっとゆっくり、あちこち見て歩いているのでは?と思えるんですよね。

旅は道連れ、とまではいかなくても、挨拶だけでもしたい…やっぱり、一人旅は寂しいのかなあ。

飛ばし気味のせいか、やや左膝が痛い。なにもそんなに急がなくても…でも、追い付きたい。

太田川を渡った先で、道は静かな左の道へと別れます。

三ヶ野の松並木を過ぎると、大正の道と明治の道に分かれます。

私は明治の道、緑のトンネルを選びました。

この道が、昼なお鬱蒼と暗く、小夜の中山なんて目じゃなく怖い、と思いました。

やっと明治の道を抜けて、人家の多いところまで来ると、左手に車井戸の碑。ちょうどここで、三人の女性と邂逅。私は「袋井からいらっしゃいましたか?どまん中茶屋に寄りましたか?」と聞きました。

思った通り、今朝、どまん中茶屋のおじさんに教えてもらった三人の方でした。

「あちこち寄り道してるから、進まなくて」と言っていました。

明治の道も出ている優れ物の地図を持った方たち。

その地図欲しい…どうやって手に入れたんだろう。

三人は「では」と、行ってしまいました。

私は自分なりに道に当たりをつけたら、三人が行った方向。ついついガムシャラに歩いて三人を追い越し、さらに差をつけて…

どまん中茶屋で三人の女性と聞いた時、私はもう少し若い方を想像していました。でも、会ってみたら、60代前半ってところかな。

あちこち迷いながらの珍道中みたいなので、同行したら大変そう、私はもう少し速めに歩きたいし…という訳で、必要以上には絡まないことに決めました。

道は松並木の上り坂になり、かなり三人を引き離しました。

国道と合流したところで紅葉の写真を撮っていたら、手押し車(掴まりタイプのカート)を押しながらやって来たおばあさんに、「雨が降りだしそうね」と声をかけられました。「そうですね」と、どこかで聞いた返事をしました。

今日は晴れのはずなのに、思っていたより雲が多く、それも、グレーの重そうな、雨が落ちてきそうな雲。

国道を歩道橋で渡って、右側を少し行くと、小高いところに「遠州鈴ヶ森」の看板。本に「急な階段を上る」とあったけれど、実際その急傾斜、半端じゃない。段の幅が狭くて足が乗りにくい上、手摺に掴まらないと危険。

急な階段を上ると、歌舞伎でお馴染みの大盗賊、日本駄右衛門の墓がありました。

道は国道を離れて右へ。

三本松の常夜灯の写真を撮っていたら、近所の人に「頑張るねえ」と声をかけられました。

「坂を下ると階段を上った上に一里塚と常夜灯がある」と教えてくれました。

坂を下ると、右に遠州見付木戸跡の看板。

左側には急な階段があり、最初のひとかたまりの段を上ると右に常夜灯。

さらに次のひとかたまりの段を上ると、愛宕神社の本殿の改築工事をしていて、その工事のせいか、一里塚はどれか分かりませんでした。

境内から見付宿の町並みがよく見えました。

遠州を歩いてきて、ここで初めて富士山が見えるので、見付という名がついたそうです。

階段の下で、先ほどの三人の女性とまた会いました。お互いの無事の挨拶を交わして別れました。その後は、その三人にはもう会うことはありませんでした。

問屋場跡、朱印屋敷冷酒清兵衛邸などを見て歩きました。

随分晴れてきて、青空も広がってきたし、上着が暑い。

見付学校は松本の開智学校を彷彿とさせる、白い洋館。今日は休館日で、外からしか見られませんでした。

見付学校を意識した、白いきれいなトイレに入りました。

脇本陣三河屋門、木戸型モニュメントを見て、遠江国分寺跡へ。

国分寺自体は、もう跡地や礎石しか残っていませんが、焔魔堂がありました。その横の浄水石は、当時のままのものが残っているそうです。

国分寺跡はだだっ広い起伏のある、きれいに刈られた草地で、礎石や階段が残っています。

国分寺跡の斜向かいに府八幡宮があり、立派な鳥居と社域が道のこちら側からよく見えましたが、道を渡らず、こちら側から見るに留めました。

お腹がすいて、昼食にありつきたかったので。

磐田駅まで行けば、何か店があるだろうと思っていたら、そこまでは行かずに蕎麦屋を見つけ、天ぷらせいろ蕎麦を食べました。13時半頃でした。

食後はジャケットを脱いで、リュックに着せて歩きました。

駅までの歩道には、ジュビロ磐田のマスコットキャラクターが立っていたり、ジュビロ磐田の選手の足形のタイルがいくつも貼ってありました。手形の人もいました。

さて、磐田駅の北側、3本ぐらい北側の道を右折し、いかにも旧東海道らしい道を歩いて暫く行くと(途中でタイムスリップしたかのような駄菓子屋がありました)やがて国道とぶつかり、広い道の歩道を歩き…

貼付右下の恐竜に出くわしました。もうびっくりです。私の調査によると、この恐竜はジュラ紀のブラキオサウルスだと思うのですが、恐竜に詳しい方、ご意見を。

後半に続く

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2008.12.01. 敵ながら…天晴れ武士の心意気〜今日も夕日の橋を渡る

2008.12.01.

東海道五十三次 十四日目 後半 一言〜熊野の里〜天龍川〜浜松

その先で、小さな建物に一言〇〇荘と書いてあり、〇〇というのは私の旧姓なのでびっくり。小さいから一言なのかなあ、と思っていたら、バス停の名称からして、この辺りは一言という地名らしい。

一言主神と関係あるのかな、と思っていたら、一言坂古戦場が近くにありました。

一言坂の戦いは、徳川家康と武田信玄の三方ヶ原の戦いの前哨戦で、袋井の三箇野川の戦いで破れた家康軍は、浜松に向けて敗走していましたが、磐田郡にある一言坂で追い付かれ、再び戦いとなったのが、一言坂の戦いです。

この時、徳川軍を救ったのが、家康の重臣、本多平八郎忠勝。本多は徳川軍を逃がすため、とんぼぎりと呼ばれる槍を振り回して孤軍奮闘し、枯れ草に火をつけて敵軍を蹴散らしました。

しかし、本多が無事に逃げおおせたのは、敵ながらアッパレ、と感じ入った、武田側の小杉左近のはからいだったとも伝えられているそうです。

本多が逃げた後、こんな落書きが散らばっていた、或いは立て札が立てられた、と言われています。

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(兜)に本多平八」

宮之一色一里塚を見て、また木製の常夜灯を見て…

その先には松並木。

長森立場では、当時は長森かうやく(膏薬)を売っていたそうです。あかぎれや擦り傷によく効くので、土産物として旅人によく売れたそうです。

いよいよ天龍川が近づいてきました。

昔は船で渡し、明治時代には木の橋が作られましたが、天龍川橋が出来てから、天龍橋と池田橋は廃止されました。

天龍橋跡、天龍川渡船場跡、池田橋跡、と訪ねて行きました。池田橋跡近くには資料館もありましたが、月曜で休館でした。天龍川橋付近から池田橋跡方面に川沿いに北上する道は、堤防の車道と平行していたり、堤防から離れたりもします。新天龍川橋へ上っていく車道の下を潜っていくのですが、地図では直進なのに直進の道がなく、簡単なようでわかりづらいので、ちょっと迷いましたが、常に堤防を視野に入れていたおかげでなんとか着けました。

また、池田橋跡の近くの資料館の前の道を川とは反対に歩いていくと、行興寺があります。能の「熊野」(ゆや)ゆかりの寺で、この辺りを走るバス「ゆや号」には、お姫さまと藤の花が描かれています。行興寺は房が長い藤で有名だそうで、花が咲いていない今頃行ってもつまらないだろう、と思ったのですが、周りが紅葉していたり、赤い橋があってきれいでした。

天龍川橋へと戻る道で、下校時の中学生に「こんにちは」と挨拶されました。嬉しいものです。そういえば、木原古戦場を探してうろうろしている時にも、車イスのおばあちゃんに一生懸命話しかけているヘルパーさんの女性に挨拶されました。挨拶はやっぱり気持ちいいよね。

私は新天龍川橋は歩行者は渡れないものと思い込んでいたので、古い方の天龍川橋を渡るのだと思っていました。しかし、天龍川橋には歩道がなく、危険。

行ってみたら、新天龍川橋には立派な歩道がありました。

今日も夕日を見ながら橋を渡ります。ザ、マジックアワー。橋を渡るのに、15分かかりました。

橋を渡ったところで、マフラーを巻いてジャケットを着ました。

ちょうど日没の真っ赤な夕日が上半分になっていました。

本には、橋を渡ったらすぐに左に行くように書いてありましたが、堤防は危険だし、橋の下の住宅地に降りていく付近が工事中で迂回を強いられ、矢印に振り回されているうちに、土地勘のない者は方向を見失いそうですが、日没の残照と、天龍川方向は分かるので、とりあえず川に戻りました。六所神社の前で行く道を考えていたら、車を運転しているおばさんが最徐行しながら「どこから来たの?」と声をかけてくれて、浜松へは目の前に見えている道を(西へ)まっすぐ、と教えてくれました。

薄暗くなった道を歩きながら、薬屋と電気屋またはコンビニを探しました。左膝にサポーターを買いたい。懐中電灯は持ってきたけれど、家に常備しているもので電池が古くてかなり薄ぼんやりした明かりなので、電池を買いたい。

歩く分には、まだ懐中電灯は要りませんが、例えば、何か案内らしき物がある、と立ち止まってみたら、「かやんば高札場跡」と書いてあり、懐中電灯で照らすと写真が撮れる。

もう暫く行くと、右側に立派な家があり、すごい、と思っていたら、本にも乗っていた金原明善の生家でした。金原明善は、明治大正の植林と治水に功績のあった人だそうです。

先日、川崎の池上新田開拓のお芝居を見ましたが、村の名主が人々を説得し、私財をなげうち、お上の許可を取り付け、やっと工事に漕ぎ着けるのです。つまり、名主であり、資産家でなければ、名を残す大事業はできなかったのです。だから、金原明善の生家が立派なわけです。

明るかったら、写真をバチバチ撮りたい素晴らしい門構えと塀ですが、時刻は17時。歩くにはまだ懐中電灯は必要ないけれど、黄昏時はすれ違う人の顔も識別しづらい。黒い塀は写真には撮れません。

リュックから使い捨てカメラを出せばいいんだけど、今日はやめておきます。

暫く行くと、セブンイレブンがあったので、電池を買って取り換えました。

懐中電灯を手に持っては歩きましたが、結局つけませんでした。今まで、興津や金谷など、暗くて懐中電灯を持ってくるべきだった、とよく思ったものですが、郊外とはいえ、さすが浜松市。街頭や店の明かりで懐中電灯いらずでした。

空に、三日月よりはやや細いかな?上弦の月と、その左上に一等星。まるで月星シューズのマークだな、と見ていたら、もっと暗くなると、一番星の右上に二等星が現れ、さらに目を凝らすと、一番星の右下に三等星。三つの星と月で菱形が出来ています。

今日は午前中は雲量が多かったけれど、遅くなるにつれ晴れ間が広がって、冬の透明度の高い空だから、月の側に三等星が見えるという幸運に出会えたんだな。

それも三日月より細い月だから、眩しさもそこそこだから、三等星まで見えたんだな。

しかし、道が国道と合流してしまうと明るくなってしまい、三等星は見えなくなりました。

馬込一里塚を探しながら歩きましたが、とうとう見つかりませんでした。

バス停の地名や、店々をウォッチングしながら歩きました。

馬込川を渡ったので、馬込一里塚は通りすぎてしまったことが分かりました。

暗くなると、疲れも手伝っているのでしょうが、道が遠く感じます。全然進まない。随分歩いたはずなのに。

でも、歩いた時間は実はたいしたことがない。歩いた時間から考えると、実はかなり距離を稼いでいるのに、進まない、遠いと感じる。

道に迷った人が暗くなって彷徨する心理状態って、分かりますねえ。人間の体や脳が、暗くなったら休むようにできているんだね。きっと。

大きなビルが見えてきたので、浜松駅は近いはず。

バス停を見て、あと停留所5個分、4個分、3個分…と楽しみにして歩きました。

左に浜松楽器博物館がある、という看板。そうか、浜松は楽器の町だった。なので、アクトシティという、ホールが沢山ある巨大な建物が近づいてきました。

浜松駅は、東海道線、新幹線、遠州鉄道があるので、複雑な作りで、うろうろ。

電気で色が変わる巨大ツリーの写真を撮り、さて、どうしたものか。

浜松駅周辺は、街角のあちこちに周辺地図が設置されていて助かりました。

今日の宿、ホテルルモンドにたどり着いたのは、18時50分。

私の部屋は803号室。

左膝も痛いし疲れているので、ホテル内のレストランで食べたかったのですが、今日は休み。

仕方なく、駅方面へ、食べるところを求めて戻りました。

焼き鳥屋に入り、美味しかったので、バクバク食べて、生ビール→大吟醸→にごり酒。

締めは大学芋とソフトクリーム。

帰ったらすぐにも寝たかったけど、寝る前に風呂に入らないと、足の疲れが癒されない。

風呂に入って、出てからは熱いお茶を飲みながら、日記の下書きをしました。

撮った写真を見ながらメモるのですが、安いビジネスホテルにはメモ用紙がない。今度からは旅の必需品に雑記帳を加えよう。

靴磨き用の不織布?にメモをとりました。

今日は番外編を覗いて東海道五十三次14日目。長男は14日で京都三条大橋に着きましたが、私はまだやっと半分を過ぎたところ。

そういえば、箱根を過ぎて静岡県に入ってからずっとお世話になっていた、「夢舞台 東海道」の道しるべ、磐田市中泉を最後に見なくなりました。静岡文化圏と浜松文化圏の差というものでしょうね、きっと。あの道しるべで、五十三次以外の間の宿の名前も分かったんだけど、間の宿の名が分からないと、高札場などで推理するしかありません。

今日の宿を予約するとき、シングルとセミダブルの選択ができたのだけれど、安い方がよいと思い、シングルにしましたが、部屋があまりにも狭い。風呂は静岡のビジネスホテルよりはましだったけど。次回、もしそういう選択が出来て、差額が500円ぐらいなら、セミダブルの部屋にしよう。

本日の総歩数は48,578歩。歩いた距離は34.9km。今日は多少のアップダウンはあったものの、ほぼ平地だったため、速かったみたいで、時速5.04km。今までは平均4.3km〜4.8kmぐらいだったので、かなり速かったようです。

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2008.12.02. 風の遠州路〜現存レア物が多い日

2008.12.02.

東海道五十三次 十五日目 前半 浜松〜舞阪

7時起床。7時半に、昨日チェックインの時に予約した朝食を食べに行きました。鮭、卵焼き、ひじき、納豆、ご飯、味噌汁。うーん、これだったら、隣の軽食コーナーで無料セルフのパン、コーヒー、ジュースにして、浮いた500円でセミダブルの部屋にすればよかったな。

出発前に足のストレッチ。

8:25にホテルを出発。

浜松は駅前通りの歩道脇に彫刻が点在しています。

東海道に戻り、右側の歩道を行くと、バイオリンを弾く女性像がありました。楽器の町浜松らしいなあ。

連尺交差点で、東海道は左折しますが、私は浜松城を見るために、右へ行きました。

浜松は地下に潜る横断歩道が多く、歩く旅の者は辛いし、ここで生活しているお年寄り、妊娠中の方、心臓などの病気のある方や足腰を痛めている方、足の不自由な方、また元気であっても荷物が重かったり、疲れていたり急いでいたり…人間に優しくない構造で、せっかく文化水準が高い?と思いかけていたのに撤回ですね。日々の人々の生活や訪問者に優しくない町は、文化的町ではない、と私は思います。

連尺交差点を地下から渡って、出て右折してすぐに、大手門跡。

市役所前を通り矢印に従って左折すると緩い上り坂、大きなプランターにパンジーが植えられ、水やり後で、歩道に水の流れた後が残っていました。爽やかな朝の風景です。

日差しは強く、ジャケットが暑いのですが、日陰はとても寒いので、着たままでいました。

坂道は石垣にぶつかり、浜松城へは左から回り込んでいきます。

急な階段を上り、公園を抜けて、さらに上がっていくと、天守閣が見えました。公園入り口から天守閣を見上げるまでに5分かかりました。

昔の石積みがあちこち残っていて、よくある石垣とは違うな、と思っていたら、野面(のづら)積みという積み方で、自然石を生かして積んであり、あちこち空いていて崩れそうに思うのですが、きちんと組まれていて、奥の方には小石が詰め込まれて堅牢にしてあり、水捌けもよかったそうです。

野面積みの間の階段を上っていくと少し広くなっていて(曲輪というらしい)銀明水という井戸がありました。

天守閣は復元されたもので、三層になっています。一階は黒い壁、二、三階は白壁です。

浜松城は徳川家康が青年期に住んでいた城で、家康が駿府城に入ってからは、徳川家ゆかりの大名などが次々と居城とし、水野忠邦をはじめ、出世した人が多く、出世城と呼ばれたそうです。

シルバーボランティアさんがたくさんいて、清掃や受付をしていました。

天守閣内は入館料が150円。鎧、鉄砲、馬具、歴代城主の紋所などが展示されていました。

地下の井戸は木の床や井戸も木で縁取られ、風呂場みたいできれいでした。

家康の散歩道(周辺の歴史的見所)、正妻や嫡男の悲話なども展示されていました。

三階展望台からは、紅葉の森、浜松の町がよく見え、浜名湖も遠望できました。私が想像していたより、浜名湖と浜松市市街地は遠いんですね。天守閣から見える足元の紅葉の森も、昔は城の建物がいろいろあった跡のようです。

天守閣を下りて、家康青年像を見に行きました。周りを紅葉に囲まれていました。右手に持っている金の楕円の物…上が切れている。あれは何かな?布団を干すときの布団挟みに似た形。家康の兜印の羊歯(しだ)印なんだそうです。

公園を出て、鎧掛の松を見に行きました。家康は三方ヶ原の戦いの敗走の後、この松に鎧を掛けて休んだのだそうです。今の松は三代目。

家康は三方ヶ原からの敗走で傷つきひどい形相になっていた顔を敢えて画家に描かせ、生涯自分への戒めとして、その顔の絵を折りあらば見ていたそうです。

そういう家康が好き、という人と、嫌い、という人に分かれそうなエピソードですね。

浜松城見学は、公園が広いせいもあって、30分を費やしました。

地下横断歩道を通って、連尺交差点から東海道に戻りました。

暑いのでジャケットは脱ぎ、マフラーは巻いておきました。風が強いので、マフラーはいい対策グッズとなりました。

すぐに高札場跡。暫く歩くと川口本陣跡。

伝馬町、旅籠町と、昔の宿場の中心地を歩きました。

成子交差点の少し手前に、名物浜納豆を売る店がありました。

成子交差点で右折し、雄踏(ゆうとう)街道を西へ。

少し行くと左にファミレスがあり、そのすぐ脇に子育て地蔵がありました。

子育て地蔵を目印に、左斜めに入っていくのが旧東海道ですが、第二の寄り道のために直進。直進した道は入野街道というそうです。

随分遠く感じたけれど、実際には7分で賀茂神社着。

賀茂真淵の出生地です。

私は学生時代、「古事記」で論文二本を書いていて、直接ではなくとも、回り回ってお世話になっているので、挨拶に行きました。

ここへ来て、初めて気付きました。神社の生まれだから、たくさんの文献に触れることもできたし、他所の文献を見せてもらうことも可能だったのでしょう。だから、国学者になった。

金原明善や、池上幸豊が名主だからこそ、地域のための開発や工事が出来たように、昔の人々は生まれ育った環境以外のことはなかなか出来なかったに違いない。

現代は、出自に関係なく、様々な学問に触れることもできる。様々な職業に就くことも出来る。そのありがたさを、旅に出て、改めて知りました。

賀茂真淵記念館はパスしました。記念館は縣居(あがたい)神社の側にありますが、この辺りの地名を県居というんだな。

子育て地蔵まで戻り、斜めに入る旧東海道へ進みました。

暫くは静かな道を進みますが、東海道線の高架が見えてきて、斜め左に少し折れるようにして、東海道線を潜ると、国道257線に会い、合流して右の歩道を進みました。

すぐに新幹線も潜りました。

雲ひとつない快晴。遠州は風が強い。

紳士服の大型郊外店が二軒並んでいたり、この辺りは駐車場の広い大型店舗が多い。

暫く行くと、右に巨大な店舗が見え、MEGAドンキホーテでした。

でかいなあ、と思っていたら、長崎屋とサンドラッグが併設されていたので、寄ることにしました。

この店の手前には可美小学校があったので、可美という地名だと思ったのですが、店名は長崎屋浜松可美店なのに、住所は浜松市東若林でした。

入ってびっくり!閉店セール?と思うぐらいフロアがガランとしていて、あちこち布で覆われていて…

しかし、そうではなくて、大幅改装中で、12月12日に新装オープンするそうで、その前の二日間は全館休むそうです。

サンドラッグで膝用サポーターLを1枚買い、トイレで左膝に着けました。大分楽になりました。保温効果が一番かな。Lだと少し大きめでしたが、Mだと多分きついので、やはりLでよかったと思います。

店内のロッテリアでバニラシェイキを飲んで休憩。

これで多少昼食が遅くても大丈夫。

長崎屋を出たのが10時50分頃。

若林一里塚跡を探して歩きましたが、一里塚は見つかりませんでした。

その先、R257が少し右へ曲がり気味なところの角の手前に、二つ御堂の片割れと、高札場跡と馬頭観音が並んでいました。二つ御堂は道のこちら側と反対側に相対して二堂建っています。藤原秀衡とその愛妾を弔うためのものだそうです。

この辺りで11時過ぎ。ここからが長い旅でした。国道を延々まっすぐ歩くのは遠く感じます。青い空、強い風。

途中コンビニでドリンク剤を飲み、出たところで信号待ちしていたら、すれ違った自転車を押しているおばさんが、「この辺、鉄粉臭くて嫌あねえ」と声をかけてきたので、「何か変な臭いがしますね」と答えました。鉄粉臭いというよりは…焦げたゴムの臭い、だと私は思いました。

諏訪神社、常夜灯、と写真を撮りながら歩き、11時半頃に通った熊の神社は、境内に大ダコの滑り台があり、神社前には高札場跡がありました。

その先に堀江領界石。

そのすぐ先、右奥に、高塚駅があったようですが、知らない間に通りすぎてしまいました。

また暫く行くと神明宮。その先、篠原一里塚跡を通ったのは12時10分。また5分ほど先に高札場跡。

12時21分、愛宕神社。こんなにちょくちょく神社の写真を撮ったのは、それだけまっすぐな道で、何か目標物がないと飽きてしまうから。

小夜の中山みたいな丘陵の尾根筋の緩いアップダウンと茶畑の中の道は気持ちよくて、歩くの大好き!と、ひとりタイタニックしたり、歌ったりしてましたが、国道沿いまっすぐは惰性で足を動かしている感じです。

でも、実は昨日も今日も、歩きながら探しているものがあります。昨日、袋井で、茶色に枯れた風船カズラを見たので、秋の終わりに弾けて綿が出てくるという風船唐綿が今、どうなっているか見たい!と探していました。でも、二日間、とうとう風船唐綿にはお目にかかれませんでした。

12時55分。春日神社。大きな神社で、本来は水が張られていると思われる丸い大きな穴があったり、狛犬の代わりに鹿がいてびっくりしたり。向かって右側が牡鹿。左側が牝鹿。

春日神社はいろいろ見学していて、6分滞在しました。

13:05に舞阪の松並木に入りました。約700メートルに亘る、立派な松並木です。西へ向かう人は、左側歩道がお勧めです。日本橋から京都三条大橋までの五十三次の銅版画が並んでいて、今まで歩いてきた道のりを思い浮かべて、涙が出ました。反対側歩道には、十二支の石像があるらしいです。

松並木ももうすぐ終わりそうな辺りに、舞阪橋跡がありました。

松並木を抜けた所に小公園があり、大きな浪小僧の像がありました。漁師の網に引っ掛かってきた気味の悪い真っ黒な小僧が、命を助けてもらったお礼に、嵐や高波の前に、海の底から太鼓を叩いて知らせてくれたので、村の漁師は難から逃れることが出来たそうです。案内板を眺めてトイレを借りてから、国道を渡って舞坂宿に入りました。駅名は舞阪、宿場名は舞坂と書くようです。

史蹟見附石垣まで来たのが13時半。町中の海苔屋さんは、ほとんどが堀江商店。堀内商店もありましたが。そこで、多分屋号で呼び合っているんでしょうね。堀江商店の前に、丸半、丸吉など、〇の中に一文字漢字を入れて店の看板に書いてありました。

常夜灯、一里塚跡など見て歩き、本陣跡の斜め向かいに脇本陣茗荷屋。ここは書院などが残っていたため、史蹟として指定され、昔の柱などを何パーセントか残すことによって文化財指定を受けて、残りの部分は復元されました。

中は無料で公開され、説明もしてくれました。名古屋からオートバイで来たという青年と一緒に話を聞きました。

脇本陣は本来、平屋建てなのですが、茗荷屋は旅籠も兼ねていたので、二階がありました。脇本陣を廃業してからは、役場に使われ、その後は医院として使われていたこともあったようです。

間口はあまり広くなく、鰻の寝床のように縦長な構造です。

ここの風呂は五右衛門風呂ではなく、桶式の風呂です。奥の方に殿様用の塗りの風呂桶がありましたが、塗りの桶は見本で、実際には殿様は自分用の風呂桶を持ってきたそうです。他人が入ったものを嫌ったり、毒をもられないように、ということもあったし、当時の大名行列は、家財道具一揃え持ち歩いていたそうです。

当時は東海道五十三次を十二泊十三日で旅し、一日40km歩いたそうで、大きな宿場、浜松から近い舞坂の宿に泊まる人は少なかったそうですが、高波などで渡し船が出ないと、舞坂に泊まったそうです。

明応7(1498)年、大地震で浜名湖と海とを隔てていた陸地が切れてしまって出来た渡しなので、最近出来た渡しという意味で、今切れの渡しと呼ばれました。

今切れの渡しを渡った先の新居には新居関所があり、入り鉄砲に出女の詮議が厳しく、女性はまず通してもらえないため、女性は見付の分岐から御油まで姫街道を通る場合が多かったそうです。

また、今切れのせいで新居と舞坂の交流がなくなり、新居と舞坂は近いのに、文化や言葉が違うそうです。

14時頃脇本陣を出て、西町常夜灯を見てから…ショックなことがありました…

後半に続く

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2008.12.01. 浜名湖の鰻と新居関所

2008.12.02.

東海道五十三次 十五日目 後半 舞阪〜新居

14時頃脇本陣を出て、西町常夜灯を見てから、今日の昼食場所と決めていた魚あらに行ったところ、車はたくさん停まっているのに、準備中の札が出ていて、「えっ!」…慌てて時計を見ると、14:04…しまった!

脇本陣に入る前に、まず魚あらに来るべきだった。多分、14時までに入ればOKだったんだろうな。もしかしたら、舞坂に入る前に電話しておけば、入れてもらえたかもしれない。すごいショック!

本によるとこの先の弁天島に行けば、うなぎ、海鮮物、冬には牡蠣も食べられるとのこと。それを楽しみに、先に進むしかありません。

気を取り直して、北雁木を見に行きました。

雁木(がんげ)は渡し場で、斜面部分が石畳になっています。

北雁木から見る浜名湖は、家の近くの港に似ていました。白い小さな漁船がたくさん停まっていて、カモメが群れ飛んでいて。

大きく違うのは、左奥にアーチ型の浜名大橋が見え、右の沖には、弁天島の鳥居が見えること。

赤い弁天橋を渡り、弁天島へ。

昼食場所を探しましたが、閉まっているか、さっきまで開いていたらしいのに、本日は終了しました、の札が出ていたり。

日帰り湯に入れば何か食べられるでしょうが、風呂に入ったら、もう歩けないだろうから入りたくないし。

国道側を歩いて弁天島海浜公園の出口まで来て、今度は公園側を戻ってみましたが、店は開いていませんでした。白いホテルにヤシの木の景色は、家の近くのマリーナに似ていました。

ここは、春の潮干狩りや夏の海水浴の期間は賑わうようですが、今はシーンとしていました。冬でも店がたくさん開いている湘南から来た私にとって、弁天島の寂しさはびっくりでした。

車はたくさん停まっていましたが、温泉客と釣り船客の車でしょう。

宴会の幟旗を出しているホテルに聞きに入ってみましたが、昼食だけの利用はやっていませんでした。

なんだか泣きたい気持ちでトボトボ歩き、コンビニでお握りを2個買いました。

すぐに食べるつもりでしたが、お握りが手に入ると安心して、もう少し食べられる場所を探してみよう、と思いました。

コンビニの先の橋は左側には歩道がないので、右側を歩きます。新居まで、その先にももう一本大きな橋がありますが、そこも右側にしか歩道がありません。

ここの判断を誤ると大変です。また、歩行者用信号のためにスイッチを押しても、なかなか信号が変わりません。

実際には時間を計ってはいませんが、5分ぐらい待たされた気がしました。

とにかく右に渡り、長い橋の歩道を歩き、新弁天島辺りで営業中のお食事処を発見!やった!お握りは夜食べればいいや。とにかくこの店に入ろう。

「はませい」という店で、かなり広いフロアが個室お座敷風に分かれていて、私は一番奥の浜名湖側の、四卓ある部屋に通されました。隣の部屋に先客のカップルがいました。部屋と部屋の境の襖は開いているので、隣のカップルの女性の後ろ姿が見えました。

私の席は日が当たって眩しいので、障子を閉めに行きました。私の部屋には幸い他の客はいなかったので。障子の向こうには、青い浜名湖が広がってきれいでしたが、眩しいのは嫌だし、さんざん浜名湖を見ながら歩いてきたので、障子を締めました。

牡蠣は鍋しかないので、うなぎを食べることにしました。

うなぎ定食とうな重が同じ値段なので、多分うな重はうなぎが沢山入っているのでしょう。実は静岡に住んでいた頃に、浜松の方にお勧めの店に連れていっていただいたのですが、美味しくなかった、のです。

だから、いくら名物でも、鰻ばかりいっぱい食べて美味しくなかったら嫌なので、店ご自慢のお造りが付いているうなぎ定食にしました。

「今日は浜名湖の天然の鰻が入っていますがいかがなさいますか?」と聞かれましたが、天然物は6,300円だそうです。

車でわざわざ浜名湖にうなぎを食べに来た人なら、是非天然物を食べるべきですが、私は歩く旅の者ですから、昼食に6,300円は払えません。夕べのホテル代と同じ値段だ…

上ではなくヒラの定食と言っても、3,675円、昼食代としては高いお値段です。

だから、普通なら、私は豪華な昼食を食べているのに、隣の部屋のカップルが天然物を頼んで、横長い木製器からはみ出て蓋ができない、凄い!と言っているのを聞いてしまうと、ちょっぴり…いえ、後悔はしてません。やはり6,300円は高すぎる!でも…たまたますぐ隣に天然物を頼んだカップルがいたのは運が悪かった。はみ出た鰻の話が羨ましかった。けれど、3,675円は十分高い、贅沢昼食です。

それに、私が食べたうなぎは、浜名湖産の養殖うなぎで、天然物が入らなかった日なら、この店は、養殖でも、我が店のうなぎは美味しいですよ、と自信をもって勧めるはず。

惑わされるな。自分の舌を信じろ!

刺身、美味しい。もずく酢、合格。茶碗蒸し、美味しい。ご飯&やたら大きな歯応えある大根の漬け物、美味しい。肝吸い、幸せ。そして…うなぎ…美味しい!浜名湖のうなぎは美味くない、と、この20年間思ってきた、私の中の常識は覆されました。店と値段にもよると思いますが、少なくとも、今日食べた浜名湖養殖うなぎの「はませい」のうなぎ定食は美味しかった!

さて…新弁天島辺りは、江戸時代は今切れの渡しを通っていた訳で、今、私が歩いている国道は歩いていなかったはずなのですが、何故か松並木がありました。

そして、目を転じると、少し先には弁天島の名残のヤシの林もあります。

新居(広重の絵には荒井とあり、両方使うそうです)が近づいてきて、浜名橋を渡ると橋に六枚の荒井を題材とした版画が展示されていました。六枚の共通項は、必ず海と帆船が描かれていること。

浜名橋を渡り終えたのが16:20。

東海道線の線路の向こうに、ベイブリッジみたいな、今風吊り橋が見えて、きれいだなあ、と思いましたが、たぶんあの橋は、浜名湖競艇場の橋でしょう。

新居町駅を過ぎ、新居関所前まで来たのが16:27。入り口に、入場受け付け16:30まで、とあったので、ヤバい、あと3分だ、と急いで入場券300円を買いました。

係の方たちも早く帰りたいだろうなあ、と思い、さささっと見学しました。

どこまでが現存でどこまでが復元か分かりませんが、箱根関所は埋もれていたのを発掘して全面的に復元したのに対し、新居関所は唯一現存する関所ということで、感動しました。

今日は、現存するものに幾つか出会えたこと、遠州は風が強いことが印象的でした。

面番所の役人の人形を眺め、離れた部屋のあらため女の人形を見ました。箱根では、人見女と呼んでいたなあ。本当は、面番所と繋がった部屋ではなく、別棟の女改長屋があったようですが、それは今後復元するようです。版画によると、あらため女が調べている女性は、少年のようななりをしていました。

時代劇で女性の旅人は女性らしい格好をしていますが、実際には少年風の格好をしていたのかなあ。

資料館はそそくさと飛ばして見て、関所を出ました。入り口近くにある、池のようなお堀のようなものは、渡船場の復元だそうです。渡船場から直に関所に入るということは、それは女性は姫街道を行きたいだろうなあ。版画によると、あらため女の前で、女性の旅人は、着物をまくしあげて、下まで見せていましたからねえ。それはつらいです。

関所を出て、この先、旅籠跡や本陣跡など、見所がたくさんありますが、もうすぐ17時で暗くなってきたので、今日の見学はここまで。

帰るか泊まるか、両方の線で調べてみて、泊まれたら泊まりたい(家からの往復距離がかなり遠くなったので、来ている内に少しでも距離を稼ぎたい)と思って…まず、新居で安く泊まれるところを調べたら、歩くとかなり遠い。駅前にタクシーがいるかどうかを確認。タクシーがいたので、宿に電話してみました。17時をちょうど回ったところで、宿は夕飯の支度で忙しい時間だったのでしょうね。11回コールしたけれど出なかったので、これは今日は無理ということだな、と諦めて帰ることに決め、切符を買いました。切符を買っているときに、マナーモードにしてある携帯がビリビリ鳴りましたが、きっとメールだと思っていました。

改札を入り、跨線橋を渡って上りホームに立った時、もうかなり暗くなったけれど、地平線近くの赤がきれいだったので写真を撮ろうと携帯を出したら、着信あり、で、伝言が入っていました。

私が電話した宿からで、「お電話いただいたようですが、切れてしまったので、かけてみました」…なんていい人なんだろう…でも、今夜泊まれるかどうか分からないし、もう切符も買って、改札も入ってしまったし。

このタイミングの悪さは、今夜は帰るべきである、という天の意思だろう、と思い、そのまま帰ることにしました。

17:11分発の掛川行きに乗り、掛川で熱海行きに乗り換え、熱海で東京行きに乗り、ボックス席に座れたので、コンビニで買ったお握りを食べ、21:40頃、地元駅に帰りつきました。

楽しかった。自分で自分に、お疲れさま!

本日の総歩数41,924歩、歩いた距離30.07km、平均時速は4.88kmでした。

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私が歩き始めた訳

2008年夏・・・

私がちょくちょくお邪魔(訪問)しているブログ、所謂「お気に入り登録」っていうのかな、そんなブログの中で、夏休みに息子さんと甲州街道を歩かれた方がいらっしゃいます。

暑いさ中のこと、さぞ大変だったと思いますが、とても楽しそうでした。

読んでいるうちに、私もどこか、歩きに行きたくなりました。

学生時代は、歩く旅のサークルに入っていました。テントと炊事用具を背負ってビンビン歩き回り、のんびり逍遥するというよりは、普段から体も鍛えて、体育会系のノリのクラブでした。

学生時代みたいに、1日30キロも40キロもは歩けませんが、今でも結構歩いているほうだと思っています。

仕事帰りには、バスには乗らずに歩いてみたり、終電がなくなると、3時間歩いて帰ったり(それは趣味ではなくて、自分が悪いって?)・・・

普段はジャズダンスを趣味としているので、体も鍛えているほうだと思います。

歩いて旅してみたいなあ。

9月に専門学校を卒業して暇になる予定の長女に、「どこか、歩く旅をしに行かない?2泊3日ぐらいで」と、誘ってみたところ、長女は、「おお、いいねえ。どうせなら、東海道を歩こうよ。」と。

長女のリクエストは、箱根峠越えをして三島まで行ってみたい。それと、長女誕生の地、静岡に行きたい。

その2箇所を繋げての2泊3日は無理ですが、箱根峠越えを最初の2日でやって、三島か沼津からワープして(電車を使って)清水辺りから静岡、できれば丸子でとろろ汁を食べて・・・なんていいのではないか、と計画を立て、10月の初めに決行する運びとなりました。

そのときは、その2泊3日だけのつもりでした。

9月・・・

9月のある日、急に仕事が休みになりました。

それなら、今度長女と歩きに行く東海道の事始、初めの一歩を経験しに行ってみようか。

そんな軽い気持ちで一人で東京駅に降り立った私・・・。

それがすべての始まりでした。080912_082101 でも、そのときは、ちょっとそこまで、のつもりだったんです。

いつからだろう、「そうだ、京都まで行こう!」と決心したのは。長女との2泊3日の旅までの繋ぎだけ、のつもりが、いつからか、何年かかってもいい、京都まで歩いてやるぞ、と思うようになっり、しっかり東海道ウォーカーの一員となっていたのでした。

私は2005年1月から、cgiboyで「星☆砂☆夢」というブログを書いています。日々の出来事などを主に書いているのですが、ここに今までは東海道五十三次歩きのことも書いていました。しかし、だんだん煩雑になってきたので、東海道のことだけを独立して新しくブログを立ち上げることにしました。

今、この冒頭文を書いているのは2008年12月17日。これから少しずつ、今まで「星☆砂☆夢」で書き溜めてきた文章をこちらに移してきます。

暫くは読みにくいと思います。

日常の出来事と一緒くたにはなっていますが、今現在は「星☆砂☆夢」のほうがまだ分かりやすいと思いますので、興味のある方、そちらもご訪問ください。

http://diary5.cgiboy.com/5/asiandream/

追記:只今、2009.01.04.    既存のマイブログ、「星☆砂☆夢」から、一番最近の東海道五十三次ウォーキング十六日目、2009.12.30.の旅、新居から二川までの文章だけ、すべて移動してきました。まだ、小見出しをつけたり、写真を貼ったり、整備はこれからなので、まだまだ読みにくいと思います。順次整備していきます。よろしくお願いします。

                   東海道五十三次歩きびと  ☆紗

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2008.12.30. 非日常の旅人と、草鞋とおばあちゃん

2008.12.30. 快晴 風強し

東海道五十三次 十六日目 午前の部 新居〜白須賀

今日は青春18きっぷ5回分の内、第1回目を使って、2008年東海道五十三次歩き納めの旅に出ました。

12月中旬、ウィルス性胃腸炎で体調を崩し、治ってからもいまだに体力的不安が残り、東海道五十三次ウォーキングにまた出られるかどうか、とても不安でした。

なので、今日はリハビリのつもりで、距離を20キロぐらいに押さえて歩く予定です。

朝、5時半にパンを1個食べて、5:47発の電車に乗りました。

東海道線静岡行きに乗ったら、大きな荷物を持った人ばかりで席が埋め尽くされていて、さらに立っている人もいる。いつもの通勤客なら、乗り降りの入れ換えが激しいけれど、客層からして、遠くまで行く人ばかり。まずい。ずっと座れないかも。

しかし、運よく、茅ヶ崎で座れました。

冬至は過ぎたとは言え、前回の12月初頭の旅の時より、明るくなるのが遅いみたい。

国府津あたりでやっとやや明るくなり始めました。

今日は快晴。沼津から富士川を渡るまでの車窓の富士山が最高でした。特に富士駅近辺からの富士山が素晴らしい。

静岡で浜松行きに乗り換え、これも混んでいましたが、藤枝で座れました。

浜松から乗った豊橋行きでは、とうとう立ちっぱなしでした。

東海道をずっと歩いてきたので、駅名を聞くといろいろ思い出され、4時間半強の旅も思ったほど退屈ではありませんでした。

新居町に降り立ったのは10時25分。新居町で降りたほとんどの人は、競艇場口に向かって歩いていきました。

お腹がペコペコなので、キオスクであんまん115円を買って食べました。

身支度をしたとき、いつもなら「歩くたすけ」(サポートソックス)を履くのですが、今日は敢えてガンガン歩かず、のんびり楽しく歩くように、普通の靴下で歩くことにしました。

出発したのは10時37分。

駅前に琵琶湖の絵地図がありましたが、私が前回歩いた舞阪〜弁天島〜新居は琵琶湖のほんの南端に過ぎないんだな、と思いました。

駅前公園のような細長いところに、山頭火の句碑がありました。
「水のまんなかの道がまっすぐ 山頭火」

新居関所は12月2日に既に見学してあるので、表の塀の外からしか見ませんでしたが、年末だから、もうたぶん中には入れないんじゃないかな。

今日は年末だから、休館しているところが多く…新居の旅籠紀伊国屋、おんやど白須賀(無料休憩所)、二川宿本陣資料館など…残念でしたが、今だからこそ松飾りをしてあるのを見られたので、それはそれで貴重な体験です。松飾りは地方によっていろいろあるので、結構おもしろいです。

新居関所の少し先、左側に、旅籠紀伊国屋がありました。休館中で、立派な門松一対が立っていました。東京などでは、竹は太いものを使いますが、ここは下に松の茂み、後ろ側にひょいっと細長い葉が付いた竹が差し込まれていました。

道の突き当たりに飯田武兵衛本陣跡、そこを道は左に折れて、少し先の右側に、もう見られないのかと思っていた、「夢舞台 東海道」の道標がありました。箱根越えで静岡県に入ってからというもの、しょっちゅう見掛けていた道標でしたが、12月1〜2日の遠州路の旅の時、見付宿の先、磐田市中泉を最後に見なくなり、静岡文化圏と浜松文化圏の差かな、と思っていたのですが、今日また「夢舞台 東海道」に再会して、旧知の友に会ったように嬉しく思いました。

すぐ先右に、疋田八郎兵衛本陣跡。

その先に寄馬(よりうま)跡。

その先右に秋葉常夜灯。

さらにその先、左側に一里塚跡。

一里塚の先で右に曲がると、棒鼻跡。説明板によると…ここが新居宿の西境で、棒鼻は一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て桝形をなしていました。棒鼻とは、駕籠の棒先の意味ですが、大名行列が宿場に入るとき、この場所で先頭(棒鼻)を整えたので、棒鼻と呼ばれるようになったとも言われているそうです。

棒鼻跡の説明板が立っているすぐ脇にある民家の方が、一生懸命玄関回りの掃除をしていらっしゃいました。今日の私は、日常から一日だけワープしてきて、夜になれば家に帰る旅人で、旅を住み処としている訳ではないけれど…日常を自ら捨てて旅を人生としていた芭蕉が、行事の日に限っては悲哀を感じていた、というエピソードがあります。私もふと、明日は大晦日なのに旅の空の下にいることに、寂しいとか悲哀ではなく、日常に対してアウトサイダーである自分の存在と、地元に根を下ろしている人々との、見えない壁や溝を感じる瞬間とでもいいましょうか…

それは言い訳かも…大掃除など、やるべきことをすべてやり終えてからここに来たわけではなく、ある意味、エスケープしてきたようなもんだから…

棒鼻のところで左に曲がり、少しまっすぐ行くと、国道1号線に出るので、国道1号を右へ。

少し行くと、「夢舞台 東海道」の道標に「加宿 橋本」がありました。

国道の左側に風炉(ふうろ)の井。源頼朝が茶湯として使ったと言われているそうです。

風炉の井の、道を挟んで向かい側に教恩寺。楼門が立派でした。

教恩寺の角から、国道と別れて、右側に旧街道があります。こういう分かれ道の入り口に来ると、旧東海道らしい家々との出会いの予感に、いつもワクワクします。

宿場町らしい町並みのどこかから、ペッタンペッタンと餅つきの音が…すぐ右の家の土間で、昔ながらに餅つきをしていました。古き良き日本の伝統がまだ残っているのに出会うと、とても嬉しいです。

その先に、松並木。

右奥に紅葉寺跡。石段の上らしい。石段の左下の家では、ご夫婦で玄関マットなどを洗っていて、「こんにちは」と挨拶を交わしました。石段の手すりに布団が干してありました。

石段を上っていくと、昔の紅葉寺の名残の紅葉が散り残っていました。室町時代の将軍、足利義教が紅葉狩りをした場所だそうです。残っているお地蔵の回りに、大分変色してチリチリに丸まっている散り紅葉のカーペットが敷き詰められていました。

境内から、家々の屋根が「甍の波」状に見下ろせました。

その先、松並木が左側だけ、結構長く続いていました。

松並木の中に、石碑があり、歩道側だと石碑の裏側なので、前に回ってみたら、前大納言為家「風わたる濱名の松の夕しほにさされてのぼるあまの釣舟」、阿仏尼「わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の浪はやすまで」、二首の歌が書いてありました。

その少し先、左に立場跡。立場は、旅人、人足、駕籠かきが休憩する施設。ちょうどここは、新居宿と白須賀宿の間にあったようです。

新居から白須賀へと向かっていると、元町という地区があり、そこは昔の白須賀宿(元白須賀)があったところ。元白須賀は高波で壊滅してしまい、今の高台へ移ったのだそうです。

元町には、火鎮(ほづみ)神社があり、山の麓にはキャベツや白菜畑が広がり、山の向こうにある風力発電の風車の白い羽根が回っているのが見えました。

また暫く行くと、右側に一里塚跡と高札場跡がありました。

元白須賀と後の白須賀宿を分ける坂を潮見坂といい、元白須賀は潮見坂下ですが、潮見坂下にある蔵法寺の汐見観音のお告げにより、高波の難を逃れたというエピソードもあるそうです。

元白須賀辺りを歩いているとき、若い男性二人組の東海道ウォーカーとすれ違い、挨拶を交わし、その少し後に、かなり大きなアタックザックを背負った女性一人旅の人ともすれ違い、挨拶を交わしました。何だか元気づけられます。

白須賀 潮見坂下の「夢舞台 東海道」道標の写真を撮っていたら、「旅の人、旅の人」と呼び止められました。手に食べかけの林檎を持ったおばあさんが、「いい物あげるから」と…。まさかこんなおばあさんが人拐いな訳がないので、付いていってみると…

おばあさんが載った新聞記事(中日新聞地方版「Happy Days」)や、元サッカー日本代表の岩本輝雄さんがNHK衛星放送の企画番組で東海道五十三次を歩いた時に岩本さんとおばあちゃんが一緒に撮った写真とか、全国たくさんの人からおばあちゃんへ届いたお礼状(6000通!)を見せてくれました。

おばあちゃんは端切れと縄で作った小さな草鞋一組をくださいました。「リュックの見えるところに付けて歩くと、魔除けになるから」と。宇津ノ谷峠の鬼除け団子を思い出しました。あれは本当に効き目があった!

おばあちゃんは、小林末子さん、93歳。テレビや新聞に何回も出ているから、実名出しても問題ないよね。おばあちゃんの宝物は、全国から寄せられた6000通のお礼状。これがおばあちゃんの元気の源。

とってもおとなしい飼い犬君は、「ポチたま」の旅犬だいすけ君が来た時など、既に4回もテレビに出た犬です。

小さな草鞋一足をリュックにぶら下げ、おばあちゃんに見送られて、Happyな気分で潮見坂へ。なんだか嬉しくて嬉しくて、きつい坂も楽しく上れました。

午後の部に続く

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2008.12.30. Happy Day, Happy Road, Happy おばあちゃん

2008.12.30.

東海道五十三次 十六日目 午後の部 白須賀〜二川

道が何回かカーブし、道路際に「潮見坂」の看板があるところで振り返ったら、遠州灘がキラキラ見えました。逆光で写真には撮れませんでしたが。

潮見坂上左には「おんやど白須賀」という無料休憩所があり、おばあちゃんが「この草鞋を見せると、『おばあにもらってきたか』って言ってお茶を入れてくれるよ」と言ってましたが、残念ながら、12月19日から1月4日まで休館だという貼り紙がありました。

潮見坂公園跡には、石碑群があり、逆光で遠州灘が光っていました。

白須賀は昔ながらの町並みが残っています。

宿場町独特の、道が鍵型に折れている曲尺手(かねんて)がありました。

本陣跡を見たのは13時過ぎ。急にお腹がすいてきました。年末とあって、大掃除する人々が目につきましたが、煮しめや栗きんとんを作っていると思われるいい匂いがあちこちからしてくるんです…うう、たまらんっ…

白須賀は線路が近くを通らない山の中の集落で、コンビニも食堂もない。名物勝和(かちわ)もちを売っている、と本にありましたが、年末で店じまいしているのか、菓子舗も見当たらない。

湖西農協白須賀支店交差点の角に、「夏目甕麿(みかまろ)邸跡、加納諸平(もろひら)生誕の地」の碑が立っていました。

夏目甕麿は、白須賀の酒造の家に生まれ、国学を学び、「萩園」と称し、甕麿の子諸平は加納家に養子に行きましたが、諸平も国学を学び、「柿園」と称したそうです。

その先、格子戸の素敵な家がたくさん、ありました。

暫く行くと、大きな車がたくさん通る道に出ました。

本には、「暫く行くと、国道1号線に出る」とあったので、今、出た道がR1かと思っていたら、またもや大きな道と合流。今度こそR1で、今まで歩いてきた道は、県道173号線でした。

国道1号に出る手前300メートルぐらい前に、静岡県と愛知県の県境がありました。県境通過は13時31分。

10月7日に、長女との二人旅の箱根越えで「ようこそ静岡県へ」という看板を見てから今日まで、静岡県は大きく、延々静岡県でした。遂に、愛知県、三河の国の東端に足跡をつけました。

今日は、静かな旧道を歩くことが多く、東海道五十三次ウォーカーとしては、いい旅ができたのですが…国道に出た時、思いました。

国道歩きは殺風景だから、今日みたいな静かな旧街道歩きは楽しいけれど、コンビニに出会えない。国道歩きも悪くないな、と。

理想を言わせてもらえば、2時間ほど静かな趣きある道を歩いたら、1時間、コンビニや食堂のある国道を歩き、また静かな道を2時間…そんな都合のいいようには、道は通ってはいないのですよ。

いつも、非常食にカロリーメイトは入れてはあるんですけどね。

少し行くと、国道の左側にコンビニが見えたので、横断歩道を探したら、さっきの173号との合流点に戻った方が早いので、一旦戻りました。

コンビニでボロネーズハンバーガーを食べ、元気を取り戻し、また国道歩きに精を出します。

道の右側に一里山(細谷)一里塚跡があるはずなので、右側に戻りたかったのですが、なかなか横断歩道がない。天下の国道1号線は道幅が広く、上り車線と下り車線の間には中央分離帯もあるので、横断歩道がないところでは渡れません。

これじゃあ、一里塚はとっくに過ぎちゃっただろうなあ。

やっと信号が見えたので、よかった、と思ったら、まだ信号までたどり着かない内に、信号が変わってしまいました。国道優先の地方の道は、一度チャンスを逃すと大変なのは体験済みなので、絶対渡らなくちゃ、と走りました。「渡りたい、渡りたい、渡 哲也!」と呪文を唱えたおかげで、無事、渡れました。

結局、一里塚跡を見逃してしまいました…

その先に、右側にもコンビニが出現しましたが、白須賀宿でお腹ペコペコだったのだから、ここまではもたなかったなあ。

それから、2時間ほどひたすら国道歩き。

太陽は暖かいのですが、風が強くて、コンタクトレンズの目が痛い。

退屈な国道歩きですが、おばあちゃんに草鞋をもらって嬉しいので、「Oh Happy Day」を歌いながら歩きました。途中の難しいところはごまかしつつ、回りには車はビュンビュン通っているけれど、歩行者は私以外誰もいないので、結構大声で歌いながら歩きました。

最後の「Oh Happy Day」を繰り返すところは、手を胸より高い位置でクラッシュさせながら、ノリノリで何十回も繰り返し、さすがに飽きてきて、フィニッシュの「Oh Happy Day」を歌いきり、ああ、歌い終わった、という充実感。

サンプラザ中野が猿岩石のために作った「旅人よ〜The Longest Jurny」の♪強い風に今立ち向かって行く…というところだけ、今日の強風にピッタリなので、何回か歌い、また「Oh Happy Day」を歌い…

信号でオートバイが止まった時は、さすがに歌うのをやめました。手拍子しながら歩いているだけでも、かなり怪しい人だよね。

遠州は本当に風の国、と思ったら、境川を渡って三河の国に入っても風が強く、風力発電所がありました。

風力発電所の辺りで新幹線の線路がすぐ横の高いところを走っていて、頭の上をのぞみ号が飛んでいきました。

この近辺を歩いていた短い間に、上り下り合わせて、随分たくさん新幹線が通りました。

右折して新幹線の線路をくぐると、さっきから右の遠くに見えていた岩山が印象的に見えました。

小さな川を渡り、東海道線の踏切を渡り、すぐに左に曲がります。

三河の国に入って最初の宿場、二川(ふたがわ)宿は、昔ながらの道幅、格子戸の家々、素敵な宿場町。

往時の名残を留める、二ヶ所の桝形(曲尺手と同じ、道が折れ曲がったところ)、間口が狭く、奥行きが深い宅地割りの家々。

「二川宿」の文字が藍地に白く抜かれた暖簾をかけてある家がたくさんありましたが、その暖簾を売っている店がありました。あの暖簾は1100円らしい。

妙泉寺という寺があり、境内に紫陽花塚がありました。「芭蕉翁 あちさゐや葭を小池の別坐敷」

商家駒屋の遺構は立派な格子戸の家でした。

中原屋という菓子舗で、「半月」という半生のどら焼と、「宿場の月」という、仙台の「萩の月」に似た菓子をお土産に買いました。

立派な本陣が休館日で見られなかったけれど、この地方は松飾りに背の高い細長い竹を使うことが分かりました。

二川駅前着が15時半頃。次の吉田までは6.1kmです。

いつもなら吉田まで頑張っちゃうんですが、今日はリハビリ、リハビリ。20キロで打ち止めにしておきましょう。

しかし、二川駅で考えた…今日はせっかくの旅なのに、食いしん坊バンザイ!の私としては、かなり悲しい食生活…

朝5時半にパン1個

10時半にあんまん1個

13時半にボロネーズハンバーガー1個。

これで今から5時間かけて帰るのか?

よし、青春18きっぷの強みだ。食べに行くぞ!静岡時代に、浜松の鰻はイマイチだった、と言ったら、ある人が、「吉田の鰻が美味しい」と言っていたので私はズーッと憧れていたんです。遂に夢がかなう!

豊橋まで足を伸ばして、吉田のうなぎを食べに行きました。

吉田宿本陣跡の碑がある老舗、「丸よ」でうな丼を食べました。

丼の蓋を開けてびっくり!鰻が裏返しに載っている。

関西方式で蒸して作るからかなあ?関東の鰻みたいに表側がタレでテカテカしていないので、敢えて焦げ目を上に、ということで、腹側が上なのかな。

吉田の鰻だけ?それとも三河の鰻はみんな裏返しなの?西日本全体が鰻は裏返しなの?

食後は豊橋駅まで市電に乗りました。市電は一両で、ワンマンなので前から乗り、市内均一料金らしく、乗った時に150円支払いました。

帰りは、まず浜松行きに乗り、浜松で静岡行きに乗り換え、熱海行きに乗り換え、熱海で東京行きに乗り換え…約5時間の旅で、立っていた時もありますが、ほとんど座れました。

今日の日記の下書きを始めたのですが、携帯の電池が切れてしまったので、持参した漫画を読んでいる内に、漫画が面白かったので、退屈せずに帰れました。

今日の総歩数31393歩。歩いた距離22.5km、時速は4.92km/時。

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