« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

2009.01.07. 新年初歩き〜双六、七草、そして東海道ウォーカーにオススメランチ!

2009.01.07.

東海道五十三次 十七日目 新年初歩き 前半 二川〜飯村

朝5時半に家を出て、青春18きっぷで出掛けました。

年末、12月30日と同じ、静岡行き、静岡乗り換え浜松行き、浜松乗り換え豊橋行き、と進みました。

年末よりすいていました。学校も新学期が始まったらしく、高校生もたくさん見掛けました。

朝の内は、雲は多いけれど晴れていて、富士駅からは、雪肌の陰影が濃くて、周りの雲のせいか、ずいぶん近くに富士山が見えて、美しいというより、鳥肌がたつような怖さがありました。神の山、といった印象でした。

二川駅着は10時35分。トイレ、身支度を整え、いつものように家でパン1個を食べてきましたが、車内ですでにおなかがペコペコで、二川駅のキオスクで栗あんの大きなあんパンを買って、パクつきました。

歩き始めたのは10時55分。

この前歩いてきた道を10分ほど戻り、前回は年末で休館していた、豊橋市二川本陣資料館に行きました。

入館料は大人400円。

まず、東海道資料室を見ました。

一里塚、見付、高札場など、東海道に関する豆知識はすでに知っているし、旅の持ち物は岡部宿の大旅籠柏屋でも見たし、大名行列は箱根関所で見たし、由比のおもしろ館や、新居関所でも展示は見たし、飛ばして見てました。ワークシートがNo.1〜No.8まであちこちに置いてあり、後でゆっくり読もうと思ってもらってきました。

由比の広重美術館にもあった、版画の体験グッズも置いてありました。

企画展の、双六の展示が面白かった。たいてい何らかの付録らしいのですが、ほとんどがMO氏という方のコレクションみたいです。

新聞を広げたぐらいの大きさのものが多く、東海道の旅、日本早めぐりなど、旅ものが多いけれど、湘南めぐりや、ご近所買い物めぐり、なんていうのもありました。

古いものが多かったけれど、エビスビールが出した、2000年、いよいよ21世紀、という双六や、2005年のエコの取り組み関連の双六もありました。

双六って夢があるなあ。

入り口入ってすぐに、今日だけの特別展示なのか、暫くは展示されているのかは分かりませんが、「1月7日は人日(じんじつ)の節句。また、七草粥を食べる日である」と書かれていて、春の七草をそれぞれ別々の植木鉢に入れたものを展示してありました。

今まで、七草がひとつの籠に詰め込まれているのしか見たことがなかったから、どれがどれやらわからなかったのですが。それにしても、「ごぎょう」と「ほとけのざ」が分からない。何なんだろう。

「ほとけのざ」は、紫の花が咲いていて、観音様が合掌しているように見えるありがたい草ですが、食べられるの?これ。毒っぽいんですけど。

気になって、後で「ごぎょう」と「ほとけのざ」を調べてみたら、「ごぎょう」は黄色い小さい花が沢山咲く母子草で、昔は草餅の材料にしたそうです。今は草餅は蓬を使いますが。

「ほとけのざ」は調べてよかった。私が見た「ほとけのざ」は食べられません。食べられる「ほとけのざ」は、田平子(たびらこ)という名の黄色い花が咲く草で、丸い葉が仏様が座る円座に見えることから「ほとけのざ」と呼ぶそうです。しかし、一般的には、私が見た紫の花のものを「ほとけのざ」と呼ぶそうで、別名三界草(さんがいそう)。

田平子はキク科。三界草はシソ科。食べられる「ほとけのざ」は田平子です。間違って紫の花を食べないでくださいね。

旅籠清明館と本陣の内部も公開されていました。本陣では、たくさん部屋があるのを利用して、盆栽展をやっていました。

靴を脱いで自由に見学していいのですが、本陣には、シルバーボランティアさんのおじいさんが二人、文机の前で待っていて、「記帳をお願いします」と言われました。筆ペンしかなかったけれど、なかなかきれいに書けました。

奥の方に、記念記帳ノートが別に置いてあったので、書いてきました。

「1月7日 人日の節句 七草粥

朝5時半に家を出て、神奈川県〇〇市からやって来ました。

東海道を少しずつ歩いています。

白須賀でおばあちゃんから草鞋をもらいました。

いつになるか分からないけれど、京都を目指しています。

 東海道歩きびと ☆紗」

今まで何回か記念記帳してきましたが、ずっと本名を書いていました。

東海道ブログを立ち上げたからかな。自然と、「東海道歩きびと ☆紗」と署名していました。

本陣見学は興味は尽きないのですが、足から冷えてきたので、切り上げて、出発したのが正午少し前。

歩いていたら、美容院のチャイム時計が正午を告げて、「乙女の祈り」を奏でていました。

昔ながらの格子戸の民家の前を、ピンクのジャケットの小学生の女の子が歩いているな、と思ったら、女の子は「ただいま」と格子戸の家に入っていきました。誰かが住んでいるのは分かっていますが、学校帰りの小学生が普通に「ただいま」と入っていったのは、ちょっと驚きました。立派な神社やお寺のお子さんと同じような、畏敬の念を感じました。

今日は始業式だけだったのかな。小学生たちがどんどん帰ってきました。

二川宿の旧町には、これといった飲食店はなく、この前、和菓子を買った中原と、揚げ物の匂いが漂ってくる食料品店ぐらいしか見掛けませんでしたが、町外れになると、新しい家も増えて、飲食店も結構見掛けました。鰻屋、寿司屋、そば屋など。

この時点では、さっき食べた大きなあんパンが効いていて、お昼は吉田に着いてからでいいや、と思っていました。

二川宿から続く道が右にカーブし、大きな車道を横切ると、火打坂の上りが始まります。

400メートル先、右にコンビニがある、という看板を見付け、そこで非常食のパンと、虫抑えのお菓子(饅頭とかマドレーヌなどを何かひとつ)でも買おう、と思ったら、そのコンビニは1月22日オープンだそうで、まだやっていませんでした。がっかり。

左前方に岩屋観音の山が見えてきました。

旧東海道は、岩屋観音の山を回り込むように左に曲がります。交差点名もついていませんでしたが、目印としては、「ガーデンガーデン」という園芸店に沿って左に回ると、裏に「ガーデンガーデン」の駐車場があるし、暫く行くと、右側に「東海道」の道標があるので確認できます。

もう暫く行くと岩屋観音の入り口なのか、公園のようになっていて、上っていく山道風の階段が見え、下にはトイレもありました。

この辺りでは、近くに小学校があるらしく、下校の小学生が列をなして歩いていました。

東海道の松並木保存会が昔の松の切り株を記念に残し、新しい若い松も育てています。

久しぶりに風船唐綿に会いましたが、秋の終わりに弾けて中から綿と種が出てくるはずなのに、今日見た風船唐綿はまだ花も咲いていたり、実も小さいものもありました。

暫く歩くと、大きな道に合流。国道1号線と並行する道です。

少し前からトイレに行きたくなり、コンビニか公園か何かないかと探していましたが、なかなかない。

右側に小さな食堂が見えてきて…こういう小さい食堂は当たり外れがあり、以前、豚カツ屋で油が悪くて気分が悪くなったことがあったので…あまり、こういう店は…と敬遠したかったのですが、もうそんなことは言ってられない、と思い、入ることにしました。しかし、店前に貼り出されているランチメニューがかわいくて、案外期待できるかも、とちょっと思いました。

入るとき、食べ終わって帰るファミリーとすれ違いました。子どもたちの笑顔を見て、やはり期待できるかも、と思い始めました。

大きなテーブルばかりなので、どうしても相席になってしまうのですが、この店は相席は普通のことみたいで、でも、後から来た人が「失礼します、すみません」とちょっと挨拶することによってちょっとしたコミュニケーションがあって、均衡が保たれていくというか…

ランチはたくさん書いてあるので、オムライスかラーメンを選ぶのかと思って聞いてみたら、全部セットだそうで、そりゃもう、ランチを選ぶしかない!

安くて美味しくてボリュームたっぷり。

東京だったら、行列ができちゃうだろうなあ。

後半に続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.01.07. オススメランチと歴史探訪の日

2009.01.07.

東海道五十三次 十七日目  新年初歩き 後半 飯村〜吉田〜菟足神社(小坂井)

ふわふわオムレツ、みそごまポタージュラーメン、サラダ、小鉢(シェル型パスタのサラダ)、香の物、ご飯、デザート(みかんひとかけら、小さなパンケーキにバタークリームと小倉あん)…これだけあって、700円!

トイレにも駆け込めたし、安くて美味しかったし、大満足。

帰るとき、会計しながら「美味しかったです」と言ったら、「暖まりましたか?」と聞かれました。

「はい、暖まりました」と答えましたが…私は寒かったわけではなく、トイレに行きたかったんです。でも、お店の方には、顔色も悪く、寒そうで、冷えてトイレに駆け込んだように見えたんでしょうね。

とはいえ、暖まったのは本当です。

この店、やまに食堂は飯村付近。東海道五十三次ウォーカーの皆さんにお勧めしたいので、名前を出します。

その先、ファミレスが何軒かあったので、もしあのとき、トイレに行きたくなかったら、小さな店は通りすぎていたことでしょう。

やまに食堂は飯村にありましたが、その先は二軒茶屋。

殿田橋の先で国道1号と合流します。

合流してすぐに、右側に飯村一里塚跡がありました。

今日使っている本のおかげで現在地がわかりやすい。国土地理院二万五千分の一地図を用いているので。講談社「歴史街道ガイド 東海道五十三次を歩く」全五巻の第四巻「白須賀〜桑名」

旧東海道が通る町は伝馬町、瓦町、など昔ながらの町名。昔を偲ばせる建物などはない、と本にあったけれど、昔風の家はたまにありました。

瓦町にりっぱな寺がありました。壽泉禪寺という寺で、三重の塔がありました。

西新町の交差点の先に分岐の標識。旧東海道は東八丁交差点を左折するのですが、すぐ右折するので、東八丁の交差点は歩道橋で向こう側に渡っておくとよいです。

歩道橋から下りたところに東惣門跡がありました。

すぐに右折ですが、「東海道」の道標が指し示してくれています。

小さな道も数に入れて、二つ目の十字路を左折。不安になるけれど、行く手右側に造立稲荷が見えるので道が正しいことを確認できました。二万五千分の一地図はすごい。

造立稲荷の先を右折して暫く行くと、「東海道」の道標があったので、ホッと安心。

二つ目の十字路は大きな道を信号で渡りますが、その大きな道の真ん中の中央分離帯のような公園のようなところに曲尺手(かねんて)門史跡の碑がありました。

その先、最初の角、そば屋のところを左折。すぐ先を右折して広い通りに出ますが、そこにも「東海道」の道標がありました。

豊橋の町を歩いていて思ったことは、書道の文房具(筆、硯、紙など)を売っている店が多いこと。書の盛んな町なのかな。

その先は大手町。

豊橋市電(路面電車)が通る国道259号線を渡る時、すぐ左に市電の札木駅が見えます。

道を渡った先の右に、先日鰻丼を食べた「丸よ」。水曜が定休日らしく、シャッターが下りていて、店の前にある本陣跡の写真、前回とは違うものが撮れました。

その辺りからまたトイレに行きたくなり、左に渡って脇本陣跡の写真を撮ってからは、とにかくトイレを探して右往左往。

花園という商店街があったので、マックかドトールでもないかと行ってみたら、全店水曜が定休日なのか、まだ新年で営業していないのか、シャッター街で、その一列の通りは全滅。ゴーストタウンみたいで怖かった。豊橋は水曜定休の店が多いみたい。

こうなったら、駅の近くの丸栄(たぶんデパート)にでも行こうかと歩いていたら、市電の通る道の中央分離帯にトイレがあるのを発見。しかし、信号が全然変わらない。数分のことと思いますが、何時間にも感じられました。

やっと無事に用をすませ、ありがたい恩のあるこの場所の名を見たら、神明公園でした。

落ち着いたので、チクワの山サ本店にちくわを1本だけ買いに行きました。特選ちくわ1本252円を1本だけ買いました。太くて食べでがありそうです。

12月30日に来た時は、お節の買い物客でごった返して車も列を作っていましたが、今日は客は私一人でした。あの日は紅白の幕も張ってあり、今日とはずいぶんイメージが違いました。

暫く行くと左に菜飯田楽の「きく宗」があり、この店も水曜定休ですが、貼り紙によると、丸栄店は営業しているそうです。

きく宗の日本先、松葉公園交差点を右折すると、二つ目の十字路が国道23号線。渡った右側に西惣門がありました。

さらに進んで二つ目の十字路を左折して少し行くと、右側に神明社。天照大御神を祀る神社で、境内の池の中の築島神社に芭蕉句碑がありました。「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」という句で、「旅寝塚」と呼ばれているそうです。

道に戻って右折すると豊橋(とよばし)が見えてきます。

今、豊橋と呼ばれている町は、鎌倉時代、この豊川に今橋がかけられ、町の名も今橋となりましたが、戦国時代には今橋は「忌まわしい」を連想させ、演技が悪いということで、縁起のいい「吉」に因んで「吉田」と改名。明治になってから、豊川にかかる豊橋の名をとって、三度改名したのだそうです。

さて、豊橋を渡ると、すぐに左折。暫くは川沿いを歩きます。

右に郵便局があり、その先に幼稚園を併設した大きなお寺があり、聖眼寺という寺で、ここにも芭蕉句碑がありました。

「こを焼て手拭あぶる寒さかな」

「松葉塚」と呼ばれていますが、注意書がしてありました。「昭和二十年戦災にあい、句碑がいたんだので、拓本をとることを禁じます」

歴史的な価値のあるものから拓本をとったりする人がいたんでしょうか。

そこから暫く歩くと、横須賀という町名になりました。先日、藤枝駅前でも横須賀行きのバスがあったので、横須賀という地名は多いのかな。下北半島に横浜があったけど。

その先、旧東海道からは120メートル離れますが、右奥に瓜郷遺跡がありました。弥生式竪穴式住居が復元されていました。公園の隅に、高床式倉庫のミニチュアのようなものがあると思ったら、その中に瓜郷遺跡の説明書が入っていました。

その先、鹿菅橋を渡り、さらに進むと道が上っていき、橋に至るのですが、上り始めるところから歩道がなくなり、その坂と豊川放水路にかかる高橋を渡るのがとても怖かった。暫くの間は、高橋さんという人に会ったらトラウマかも。

高橋を渡る手前に小坂井(こざかい)町の境がありました。

その先右に、「子だが橋」跡の碑と説明がありました。人身御供の慣わしがあった頃、人身御供に奉仕していた世話役が人身御供に決まった女性が我が娘であったのを見て戸惑うけれど、慣わしには逆らえず、「子だが仕方ない」と言ったことからついた名だそうです。

現在の菟足(うたり)神社の祭りでは、十二羽の雀を生け贄として、執り行われているそうです。

国道151号線を渡った先の右側に菟足神社がありますが、大きな神社でした。神社やその辺り一帯が貝塚だったそうで、貝はほとんどアサリかシジミだったそうです。

菟足神社は、仕掛け花火発祥の地だそうで、4月の風まつりには、手筒花火、打ち上げ花火(二尺玉)、建物花火(仕掛け花火)などをやりますが、手筒花火が日本一なんだそうです。

また、菟足神社の宝物館には、国の重要文化財の大般若経585巻が保存されています。

菟足神社のすぐ左先にJR飯田線、小坂井駅があり、16時34分発豊橋行きに乗りました。一両編成で、駅が無人なので、車掌さんが降りる人から切符を集札したり、切符を持っていない人のために車内を巡回していました。私は青春18きっぷなので気楽です。

豊橋で掛川行きに乗り、浜松で熱海行きに乗り換え、今宵の宿泊地、清水に着いたのは19時5分頃。駅前のイルミネーションがきれいでした。

ホテルクエスト清水に泊まるのは二回目。前回は長女と一緒でしたが。あの時は長女と清水駅前に繰り出しましたが、今夜はホテルのレストランで、蝦夷麦酒「ひぐま濃い麦酒」という真っ黒だけど美味いビールで美味いものを食べました。

本日の総歩数は29626歩、歩いた距離は21.2km、時速4.93km。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.01.08. 人生観が変わる橋

2009.01.08.

東海道番外編Ⅲ 興津再探訪と島田の蓬莱橋

♪チャラチャッチャチャッチャ、チャーン

ホテルクエストでの目覚め。朝の7時20分頃。

熱いお茶で、昨日買った豊橋の山サ本店の特選ちくわを食べました。

身支度をしながら、コーヒーも飲みたいと思い、また湯を沸かしてコーヒーを飲んでから出発。チェックアウトをして、駅前のマック辺りで朝食を、と思っていたのですが、ちくわとお茶とコーヒーでもうおなかがいっぱいなので、マックには入らず、コンビニでおむすびを2個買いました。

清水9:03の電車で隣駅、興津へ。

興津には昨年10月28日にも来ているのですが、もう暗い時間に通ったため何も見えなかったので、今日はもう一度きちんと興津を見るために、やって来ました。

興津駅に降り立ったのは9:09。

興津駅から出て、東海道を左(由比方面)へ少し戻って、一里塚を見ました。

再び駅の方へ戻り、駅前を通過して江尻方向へ進み、少し行くと、左に立派な米屋がありました。高山仙吉商店…この店、この前通った時、素敵だと思って写真を撮った店だ。夜の明かりも素敵だったけど、昼間見ても立派な店。今日は逆光なので撮りませんでした。

その少し先、右に東本陣跡。今日は暖かいなあ。

道を左側に渡り、水口屋(みなくちや)前の、脇本陣跡の写真を撮っていたら、「おはようございます」と声をかけられました。

水口屋は、旅館業を昭和60年に廃業し、今は企業の研修センターになっていますが、平成11年に敷地内にオープンした「水口屋ギャラリー」に水口屋の資料が展示されています。

水口屋ギャラリーの受付の女性が声をかけてくれて、「10時オープンなんですけど、よかったらどうぞ」…まだ9:25分なのに招き入れてくれました。掃除の最中でした。水口屋ギャラリーは入場無料。靴を脱いで上がり、入り口で記帳して、応接間のソファーに荷物を置かせていただき、資料もいただきました。

昔の、興津に別荘が沢山あった頃の写真が並んでいて、私はここの展示の中でも、古い写真に一番興味をもちました。

私がちょうど眺めていた写真の場所は、今はマックスバリューになっている、と、教えてもらいました。また、西園寺公望の別荘、坐漁荘(ざぎょそう)は、明治村に移転、保存されていますが、二代目坐漁荘が忠実に復元され、公開されているそうです。

旅館だった頃、泊まった有名人の名が連ねられていました。夏目漱石、志賀直哉、伊藤左千夫、有島生馬…一番最後に、昭和天皇皇后両陛下が書かれていました。

展示物の中にも、両陛下が使われた青磁の食器、出された料理の写真もありました。

15分ほど滞在し、お礼を言って出ようとしたら、受付の方が、すぐ二、三軒戻ったところに売っている宮様まんじゅうと揚げまんじゅうが美味しい、朝早くから店を開けていますよ、と教えてくれて、また、少し先に坐漁荘があり、そこは9時半から開いている、と教えてくれました。

水口屋を出て少し先右側に西本陣跡があり、暫く行くと、右の小高い所に清見寺。これは帰りに見ることにして、先に坐漁荘に行きました。

昨年10月28日に通った時は、閉まっていたけれど、門が明かりに照らし出されているのがきれいでした。

受付には誰もいませんでしたが、声をかけたら出てきてくれて、パンフレットをもらいました。ここも入場無料です。

靴を脱いで上がり、受付の方が奥に声をかけてくれて、奥にいるボランティアガイドさんが説明してくれるとのことでした。

最初に記帳をして、説明を聞きましたが、ガイドさんは新人なのか、あまりよく知らないので、ご自由にどうぞ、と言われ、えっ、と思いましたが、少しだけ、説明してくれました。

縁側から見える庭の先、数段低い場所にグラウンドがありますが、昔はグラウンドの所まで海だったそうです。今はグラウンドのさらに先に道路が通り、その向こうに海が見えましたが、埋め立てられてしまったのだそうです。

すぐそこまで海だった頃は、さぞかしこの庭が美しかっただろうなあ。

庭の向こうは防波堤の石垣になっていて、庭に座って長い釣竿で魚釣りができたことから坐漁荘という名がついたそうです。

二階からの景色がよいこと、一階の縁側の先にサンルームがあること、隣の部屋の棚に並べられている資料は好きなものを自由に取っていいこと、それだけ説明されました。写真は撮っていいそうです。入り口に館内飲食禁止と書いてあったので、本当は持参のおにぎりを食べたかったけれど、我慢しました。

サンルームの隣は洋風応接間。

そういえば、さっきの水口屋で、西園寺公望はしょっちゅう興津に来ては水口屋に泊まっていて、やがて自らの別荘を建てて、興津の人になった、と書いてありました。

逆にここで聞いた話から、海が埋め立てられて景観が悪くなったことが、水口屋が旅館を廃業するに至った原因のひとつではないかと推察されます。

風呂場は、床も壁も湯船も白木で出来ていて、すごい贅沢、と思いました。

二階に行くと、上がった所の廊下が鶯張りになっていました。それぐらい説明しておいてほしかった。キイキイ言うからドギマギしちゃいました。

鶯張りは、防犯のために用いられたようで、廊下の床が二重構造で、下側の木材が厚め、上が薄めになっていて、上下の木材をつなぐくさびに遊びをもたせることによってきしむそうです。

二階からは確かに景色はよいけれど、海側の景観は道路に遮られているから、庭が見える一階からの眺めの方が、私は好きです。

外壁に檜皮を使ったり、一見質素に見えますが、贅沢な建物だと思いました。

庭も見学して、坐漁荘を出ました。20分ほど見学していました。

道を渡り、興津駅方面へ少しだけ戻ると、高山樗牛の仮寓跡の碑があり、その後ろに高札がありました。

そのすぐ隣に清見寺。まず山門があり、山門と境内は東海道線で分断されているので、右側の興津案内板の方から回って、東海道の踏切を渡って上りました。

下から見えた立派な鐘楼がまず見えます。境内からの海の眺め、道路ができる前、さらに埋め立てられる前はどんなに美しかったでしょう。

「見学ご希望の方は受付を入って鐘を鳴らしてください」と書いてありましたが、境内を見るだけなら自由に見ていいんだろう、と、見ていました。

家康手植えの臥龍梅(がりゅうばい)、芭蕉句碑、与謝野晶子歌碑もありました。

また、山下清の「清見寺スケッチの思い出」よりという文章が立て札になっていて、これが面白い。

山下清「清見寺という名だな この寺は 古っぽしいけど上等に見えるな お寺の前庭のところに汽車の東海道線が走ってるのはどうゆうわけなんだろう お寺より汽車のほうが大事なので お寺の人はそんしたな お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいだと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

お寺の境内の古ぼけたベンチに座って、今朝清水のコンビニで買ってきたおにぎりを食べました。

この寺、好きだな、と思いながら階段を降りましたが、この寺を好きな理由は、山下清の文章のおかげかも。

帰りがけに、水口屋の受付さんに勧められた宮様まんじゅうを買いました。

水口屋から駅側数軒先にある潮屋という店で、宮様まんじゅうはとっても小さくて(1〜2口でパクリッのサイズ)、20個入り525円、宮様まんじゅうを揚げた揚げまんじゅうが9個入りで200いくら、両方で、千円でおつりが来ました。

興津発10時56分の島田行きに乗り、終点の島田で降りました。

島田に来た目的は、東海道からは外れた寄り道になるのですが、蓬莱橋という「世界一の木造歩道橋」としてギネスに認定された橋、全長897.4メートル、通行幅2.7メートル、大井川にかかる橋で、島田駅の南東、徒歩15分ぐらいのところにある橋にどうしても行ってみたくて。

島田駅の南口はロータリー工事をしていて、舗装前の整地をしているところで、立ち入り禁止。どうやって町まで出るのか、うろうろしちゃいました。

結局裏の方から線路沿いの細い道をたどって行きました。

後から知ったのですが、3月に静岡空港が出来るので、それに向けて整備していたみたい。

私が蓬莱橋のたもとに着いたのは正午頃。大人は100円の往復渡り賃を払います。

長い、木の温もりもある橋。

すれ違った女性二人が、かなり込み入った話をしていました。私ももし友人と来ていたら、一生話さないつもりでいた秘密などを、この橋の上でなら話せてしまうかも。人生観が変わってしまいそうな…そんな橋でした。

片道、10分ぐらい、かかりました。

残念だったのは、晴れてはいたけれど遠くが霞んでいて、いつもなら見える伊豆半島も見えないし、富士山が「あそこにありますよ」と言われないと分からないほどボーッと空に溶け込んで、ほとんど見えなかったこと。

富士山を目を凝らして見てみると、かなり大きく見えるし、橋の上からの富士山は、遮るものがなく、くっきり見える日なら、最高の富士山ヴューポイントになるなあ、と思いました。

また来たいな。できれば3月に、この山の上に空港が出来てしまう前に。

駅まで戻るのに、さっき来た島田駅南口からの道ではなく、どうせなら橋からまっすぐ北上して旧東海道にぶつかったら、そこから(既に一度通った道ではあるけれど)旧東海道をたどって島田駅まで行こう、と思い立ちました。

蓬莱橋からまっすぐ北上すると、その辺りの町は、宝来町ということが分かりました。同音で違う字を書く、どちらも「ほうらい」。そもそも、蓬莱橋は、時の藩主(1870年、徳川亀千代、後の家達いえさと)が牧之原開拓をしている幕臣を激励し、「ここは宝の山だ」と言ったことが名のいわれと伝えられているそうで、町の名が宝来、橋が蓬莱橋と分かれたらしい。

まっすぐ進んで東海道線の踏切を渡ってその先で旧東海道と出会った左角に、見覚えある店…あっ、疲れて休みたかった時に、ショーウィンドゥを覗いていたら、自動扉が開いてしまい、結局島田名物、酒小饅頭のバラ売りをしてもらえるか聞いたところ、3個で105円で、お茶も出してくれて、休憩できた、あの中村屋。でも、ガイド本で紹介されていた清水屋ではなかったので、今日せっかく島田を再訪したのだから、清水屋の酒小饅頭を食べてみよう、と入ったのですが…なんだか、想像していたのと違う…商売慣れしていないようなおじさんとおばさん、酒小饅頭は1個単位でいくつでも買える、というので、前回の例に倣って3個買いました。95円でした。すぐ食べたい、と言ったのに、白い小さな紙袋に入れてくれて…でも、緋毛氈を敷いた長椅子に座らせてもらってすぐに食べました。お茶のサービスはなかった。

なので、食べ終わって店を出てから、持参のペットボトルのお茶を飲みました。

この店の酒小饅頭は、どうやらなんだか、ガイド本お勧めのものとは違うと思い、ガイド本を開けて確かめたら、清水屋違いだったみたいで、本で紹介されていたのは元祖清水屋。本通り2丁目、駅のそば、というので、探しながら行きました。

この前は道の左側を歩きましたが、今日は右を歩いたら、二ヶ所に本陣後がありました。

駅前へと曲がる角に、芭蕉句碑がありました。

曲がってすぐに元祖清水屋があり、ここでもバラ売りができるとのことで、3個で126円。ここもお茶は出ませんでした。元祖清水屋の酒小饅頭はいかにも酒まんらしい風味で美味しかったのですが、歩く旅人としては、お茶を出してくれた、中村屋がよかったかなあ。

島田駅に着いたら、熱海行きが出るまで時間があったので、売店でおにぎりと温かいお茶を買い、椅子に座ってお握りと元祖清水屋の酒小饅頭を食べました。

実はもう一ヶ所今日行きたい場所があったのですが、夜、ダンスレッスンがあるので、もう一ヶ所は諦めて、明るい内に帰りました。

本日の旅の(夕方、自宅に帰るまでの)総歩数17074歩。歩いた距離は12.26km。時速は4.94km。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

55枚の絵を描こうプロジェクト

東海道ブログには、広重の五十三次の絵も載せよう、なんて思ってました。

でも、それって、たくさんの人がやっていますよね。

なので、とりあえず、広重はやめたのですが…090114_193401

赤坂宿の大橋屋旅館に泊まった時、泊まった人たちが名前や所感を綴っているノートを眺めて、共感したり、感動したり。

私もノートにたくさん書いちゃいました。

ついでに下手くそな絵も添えました。

下手だけど、なんだかページが楽しい。下手くそなりに、味わいがある。

そうだ、私も現代版広重をやろう。(※注;広重になろう、ではありません)

090114_193403

下手でも、日本橋から1枚ずつ、見聞きしたことやイメージや…何かを描いてブログに貼ろう。

色はつけよう。絵の題材は広重と かぶらないようにしよう。

ここに決意を描いたのは、公表したからには実行しないと、というカセを自分に課すためです。

紙とクレヨンと、サインペンを買ってこよう。色鉛筆だと薄いよね。

描きやすいところから始めよう。順番に拘らずに。

待てよ、番外編もあるから、55枚じゃすまないかな…

090115_213901

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.01.13. イレギュラーフライング

2009.01.13.

東海道五十三次 十八日目 加佐登、能褒野

東海道を順番に歩くなら、新春初歩きの1月7日の続きで、吉田宿の先、菟足神社付近の飯田線の小坂井駅からスタートするべきなのですが、本日の☆紗は神出鬼没、イレギュラーフライングして三重県鈴鹿市まで飛んでいっちゃいました。なぜ?順番を無視して?、の理由をまず書きますと…

話は巻き巻き巻き巻き、巻き戻しまして…

宇津ノ谷峠で怖い思いをし、私が楽しく歩いた小夜の中山は、実は夕方行くと怖いと聞いた私は、急にこの先、鈴鹿峠越えが怖くなっちゃいまして…

何とか長女にもう一回一緒に行ってほしい、と頼んでいました。

11月に、晴れた日にゆっくり歩くと楽しいよ、キャンペーンをしたおかげか、長女も行ってもいいかなあ、となんとなく思い始めていた、今日この頃…

正月に次女と里見八犬伝のゆかりの地を歩いた時、そんな話をしたら、「その時は、私も行こうかな」と次女が言い始めました。

それで、長女も一緒に行くことが必然的に決定していました。

三人のスケジュール調整、難航しました。

でもやっと折り合い、日にちが決まり、宿の予約もしました。

ここでひとつ問題が…次女のスケジュールに合わせたため、私は1日目、仕事を終えてから、新幹線で駆け付けることになり、娘たちは早い時間に関宿入りしますが、私は夜遅くたどり着くことになり、それでは関宿を何も見ないで鈴鹿峠へ向かうことになってしまう。

関宿は昔ながらの町並みが残っている素晴らしい町なんだそうで、その関町の資料館を見なかったら、そんな遠くて行きにくい町に、二度とは行けないかもしれない。ここは青春18きっぷを使って行けるうちに、ひとあし先に関宿を見ておこう、と思いました。


そこで調べてみたら、関宿の少し手前の庄野辺りには、ヤマトタケル関係の遺跡などが多い、と知り、これは行かねば、と思いました。

私の卒業論文は「『古事記』倭建命物語の文学性」というタイトルでした。

先日、長男に、「よく当時のただの学部生が、古事記が文学だって気付いたねえ」と言われましたが…

私は子どもの時、ヤマトタケル(オウスノミコト)のクマソ退治を読んで、非常に感動したんです。これが文学でないはずがない。しちめんどくさい知識ではなく、直感というか感性ですね。

青春18きっぷで、三重県鈴鹿市の加佐登(かさど)にある加佐登神社&白鳥陵と、三重県亀山市の能褒野(のぼの)神社&日本武尊(やまとたける)の墓に行ってきました。日本武尊の墓には、「能褒野墓」と書いてありました…「のぼのぼ」…?

前者の白鳥陵も、本居宣長や平田篤胤らにヤマトタケルノミコト(倭建命)の墓であると言われた円墳です。

と、簡単に書きましたが、歩きました歩きました歩きました。東海道ウォーカーなんだから、歩くのは当たり前、なんですけどね。街道を外れた寄り道に時間をたっぷり使って、一日の行程が第一目的の東海道五十三次歩きよりも、寄り道がメインになっちゃったわけです。

特に「のぼのぼ」は諦めかけましたが、今、行かなかったら一生行かないだろうと思い、頑張りました。

「のぼのぼ」を諦めかけた時、私を奮い立たせた?のは、道を聞いた二人のおばあちゃんたちに、「あんた、いい体してはるねえ、羨ましい」「背が高いのになあ」と言われ、なんだか気をよくしてしまった…豚もおだてりゃ木に登るってヤツですかねえ。

でも…私、普段よく、スラッとしている、とか、スタイルがいい、と言われることが多いので、そんな感じでほめられたのかと思ったんです。しかし、しかしですよ。今日の三重県鈴鹿地方は超超寒くて、私は着ぶくれて、いつもの1.5倍ぐらいの横幅肩幅あったわけで…おばあちゃんは、私のこと、ムキムキウーマン、筋肉ウーマンと思ったんですね、きっと。いえ、絶対。

今日の美味しいところを先に書いちゃいましたが、行程をじっくり書きますと…

普通電車を乗り継いで、神奈川県の我が町から、一気に三重県鈴鹿市加佐登まで行くには、朝5時台に出ても待ち時間ばかりになるらしく、「駅すぱあと」の案内通りに、家を6時過ぎに出ました。

東海道線には、大船から6:30発沼津行きに乗りましたが、家を5時台に出た時と比べて当然ながら混んでいて、平塚まで座れませんでした。

大磯あたりで明るくなってきました。

沼津で浜松行きに乗り換えました。8:09発。暫くは立っていました。原で座れました。富士山は前回より白くなっていましたが、案外上の方だけで、雪のない部分が多いと思いました。7合目ぐらいが境かなあ。富士山の右肩辺りに白い雲が少しモワモワッとしていて、きれいでした。

田子の浦、吉原、富士からの富士山が最高でした。

浜松で豊橋行きに乗り換えたら、みんなが座席の背もたれを動かして進行方向に直すさぎょうであちこちからパタンパタン音がしていました。

浜松10:28発。朝、6時前にパンを1個食べましたが、おなかがすいたので、今またパンを1個食べました。

車内でトイレに行きましたが、私の席は4両編成の一番後ろ、トイレは一番前。移動が大変で、トイレをすませて出てきたら、次の駅、高塚に着くところで、降りるお客様の一団が降りてしまうまで、後ろへの移動ができませんでした。

豊橋は案外すぐに着いてしまいました。

大垣行きを待っていたら、非常に寒く、大垣行きは今度到着する豊橋止まりが折り返し運転するのですが、雪の影響で遅れているとのことで、寒いのでセーターを着たり、マフラーを巻いて待ちました。

今朝、起きた時、三重県の天気を調べたら、雪の予報が出ていたので、アンダーシャツ代わりの半袖Tシャツの上に、急遽長袖の黒いハイネックシャツ(去年のダンス公演の衣装)を着てきたのですが、大正解でした。

折り返し電車の到着は7分遅れでしたが、豊橋発は2分遅れですみ、11:09発となりました。

名古屋着は予定より3分遅れで、12時ちょうど着。

関西本線亀山行きに乗り換え、12:08発。

最初、ボックス席の、進行方向に対して後ろ向きの席に座りましたが、2駅先で正面の席の女性が降りたので私は向かい側に移動して、進行方向を見る席に座れました。疲労感が違うんですよね。

持参のおにぎりを2個食べました。

弥富駅で結構みんな降りたので、私は窓際に座りました。

車窓から見ると、雨が降った形跡はありましたが、地面がぬれているだけで、今はやんでいて、心配していた雪は大丈夫みたいでした。雪がすごいのは岐阜方面なんでしょうね、きっと。

13:08加佐登(かさど)着。車内放送によると、加佐登は係員のいる駅なのに、降りたら誰もいませんでした。私は青春18きっぷだから、いいけどね。

加佐登駅から、白鳥陵のある加佐登神社までは駅の案内板によると徒歩15分とのこと。

私が持っているガイド本「東海道五十三次を歩く5 四日市〜鈴鹿峠 琵琶湖〜三条大橋」(講談社)には、国土地理院2万5千分の1地図の一部(※必要箇所だけ切り取られたもの)が載っているので、国道を避けて裏道、民家の間を抜けるとき、非常に便利です。

ただし、この「※必要箇所だけ切り取られたもの」のおかげで、あとで大変な目に遇うのですが…

民家の間の道をうねうね行くと、手作りの飛び出し坊やが小さな交差点ごとに立って今した。クレヨンしんちゃんに似ている…

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009.01.13.の2 遠い寄り道

2009.01.13.の2

車が走る道に出ると、歩道がないので、車が来ると避けながら歩きましたが、車はそれほどは通りませんでした。

日はさしているのに雲が低く多く、独特の凄まじい空模様。

左側に貯水池があるようなので、わざわざ土手の小さな階段を上ってみたら、枯れ草の広がる広場(一部駐車場になっている)で、貯水池はさらに広場の先の土手の向こうらしく、案外遠いので、覗くのはやめて、道路に戻りました。

白鳥橋を渡ると、左に加佐登神社。鳥居を入ってすぐの左側に高宮資料館がありましたが、閉まっているみたいでした。

参道の階段をどんどん上っていくと、りっぱな境内に出ました。

駅にトイレがなかったので、これだけりっぱな神社なら、と思い、探してみましたが、見当たらない。

加佐登神社の祭神は、日本武尊と天照大御神で、ヤマトタケルが亡くなる直前まで持っていた笠と杖が奉納されているとか。

ヤマトタケルが能褒野で亡くなり、白鳥になって飛んでいった、という伝説から、白鳥陵は、琴弾原(御所市)、旧市邑(羽曳野市)など諸説ある中、この加佐登の白鳥陵がヤマトタケルの墓である、と定説になっていたのが、明治になって、能褒野神社の丁子塚がヤマトタケルの墓である、と宮内庁が認定したそうです。

私は、この加佐登の白鳥陵(しらとりのみささぎ)、好きなんだけどなあ。

天皇ではなく、皇子の墓を陵と呼ぶのは、例外的にヤマトタケルの墓だけなんだそうです。

神社の裏手から、白鳥陵への道があり、少し歩きます。

「白鳥陵」の石碑の脇から階段を上ると、1メートルぐらいの石柱が等間隔に並んでぐるりを囲んでいる円墳があり、正面の二本の大きな柱には、しめ縄と紙幣が張られていました。

白鳥陵は、東西78メートル、南北59メートル、高さ13メートル、という規模の円墳。三重県内最大の円墳だそうで、小山という感じです。

神社の由来書から抜粋すると…

ヤマトタケルは東征の帰り、伊吹山の戦いで傷つき病んで、動かぬ体を引きずって能褒野にたどり着き、遥かに大和を望んで、短い生涯を終えたと伝えられている。

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和しうるはし

来るときは神社の右脇奥から回ってきましたが、下りるときは、陵のまっすぐ下の鳥居をくぐって、参道をそのまま下りてみました。

すると、公園のようなところに出て、金網塀の向こうに車が結構通る道路があり、その向こうに貯水池が逆光で光っていました。

再び加佐登神社の境内に戻った時、今度はトイレを見つけました。助かった。

加佐登駅方面に戻り、民家の間の道を歩いているとき、地図で見ると、実線の細い道を行くと、かなり駅への近道があることがわかり、白鳥中学の脇の道へ行ってみました。細い道だと、民家で行き止まりにならないかと不安になりますが、道は急勾配に下っていき、幼稚園で行き止まりかと思いきや、グルッと折れ曲がって駅方面への道まで下りられました。

下りた地点から、目の前の踏切を渡って工場の脇をまっすぐ進むと、次の交差点が庄野宿の入り口です。庄野宿の入り口には14:35着。(白鳥陵への寄り道は1時間15分もかかったわけです)

宿場の入り口に、連子格子の家が何軒かありました。まだ玄関に正月の飾りをつけている家が多く、この辺りは小正月までつけている風習なのかな。

空は晴れているのに、頬に雪が当たるので、狐の嫁入りなのか、風花なのか…

庄野宿資料館が小林家跡に作られていて、公開されているようですが、今日は休館のようでした。

右に本陣跡。暫く行くと、高札場跡の古い看板。他の案内や碑が、東海道制定400年記念に平成16年に作られた中で、この高札場跡の看板だけが字が読みにくくなるほど古いものでした。

庄野には三つの式内川俣神社がありす。ひとつめの川俣神社には、県指定天然木のスダジイがありました。樹齢300年。立派です。

宿外れまで、15分で来てしまいました。

その先で国道に出て、前を横切る車道の橋への上り坂の下をくぐり、すぐ右に曲がります。しかし、JUSCOの看板の立つ小さな空き地を巻くようにした、冗談みたいなカーブで国道に戻るみたいで、本当に「何の冗談?」と思いきや、国道をくぐるトンネルに入って、国道の向こう側に出る、という寸法。

風が冷たいので、帽子を被りました。

宿外れから14、5分歩くと、左に「従是東神戸領」(これよりひがしかんべりょう)の碑と女人堤防の碑。

もうしばらく歩くと二つ目の川俣神社と中富一里塚跡。

もう12分ほど歩くと三つ目の川俣神社で、その先すぐに安楽川に突き当たり、左へ行くと、右に和泉橋が見えてきて、それを渡るのですが、川風が強くて寒い。

和泉橋を渡るとすぐに右に曲がります。

静かな民家の間の道。大分降ってきたので傘をさしましたが、すぐにやんでしまいました。

旧国道に出て、踏切を渡り、道は左にカーブ。右に並行している国道1号線が見えたので、そっちに曲がってまっすぐ行けば能褒野神社だと思い、寄り道をしたのですが…これが遠い寄り道になりました。

国道を歩道橋で渡り、さらにまっすぐ進み…私はその先1kmぐらいだと思って行ったのですが、この辺りの筈、と思った辺りにはない。

更に進むと国道にぶつかり、来すぎてしまったので戻りましたが…

地図によると、中学のある道の反対側辺りなので、とりあえず曲がって見ました。

その先にバス停があり、バス停の路線図を見ると、多分この先らしい。川崎という地名発見。先日は横須賀がありましたが。

こっちの方、と当たりはつけたものの不安だったため、道端で話し込んでいた二人のおばあさんに、「この近くに能褒野神社はありますか」と聞いてみました。

「能褒野神社なら、真っ直ぐ行って、橋を渡ったら左にあるよ。すぐ分かる」…この時に前述の筋肉ウーマン事件?がありました。

こうして道はわかったものの、何故にこんなに遠かったのか…

分かりました。能褒野神社は本の地図からはみ出たずっと先だったんです。本の地図には、よく見ると「能褒野神社」の字の横に△マーク。地図からはみ出た△の先にあるよ、という印だったんですね。地図からどれくらいはみ出ていたのか、よく分からないけれど、1キロぐらいと思っていたのに、2倍以上、遠い遠い寄り道になってしまいました。

能褒野神社は昼なお鬱蒼と暗い境内なのに、着いたのは16:27。薄暗くなってきました。

せっかく来たんだから、ヤマトタケルの墓を見なくては。

「日本武尊墓参道」という石柱の先にあるのだろうと当たりをつけて曲がってみましたが、森の外に出てしまいました。

森に沿って農道を歩いていたら、上っていく階段があったので、案内もないけれど、とにかく上ってみたら、階段の突き当たりの鉄柵の塀の向こうに白い鳥居があり、その奥の森がヤマトタケルの墓でした。神社に書かれていた名称は「能褒野王塚古墳(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)」でした。

階段を下りて見渡すと、さっき渡ってきた橋に戻る近道を見つけたので、少し時間を稼げました。

橋からは、来た道をひたすら戻りましたが、駅すぱあとで調べたら、井田川駅17:09の次は17:30になってしまう。

今夜の宿には17時頃行きます、と言ってあるから、出来れば17:09に乗りたい。

頑張って歩きました。本はバッグにしまって、腕を肘から少し曲げていっぱい前後に動かして、競歩体勢で頑張りました。

井田川駅には、17:06に着きました。よかった。17:09に乗れました。5分で亀山着。

今夜の宿、坂本旅館は、駅の真ん前でした。

本日の総歩数は25,695歩。歩いた距離は18.5km。時速5.34km。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009.01.14. 連子格子の宿場にて

2009.01.14.

東海道五十三次 十九日目 前半 井田川〜亀山〜関 

今日の午前中は、東海道五十三次の亀山〜関を歩き、午後は愛知県に戻って、吉田宿の先、菟足神社付近から前回の続きを歩きました。

亀山駅前の坂本旅館で朝7時半に朝食を食べ、大急ぎで仕度して、亀山駅を7:56に出る電車に乗りました。

昨日までは青春18きっぷがありましたが、今日からは切符を買いながらの旅。

井田川まで180円は高い!驚き。

井田川着8:00。

道や歩道橋に霜が降りていて、滑らないか心配でした。寧ろ、朝より、少し溶け出した頃が一番滑ったかも。

井田川駅前からは、線路を左に見て、線路沿いを歩いている内に、道が自然に右にカーブし、その先、国道に出るので、歩道橋を渡ります。

渡ってそのまままっすぐ行くと、左に折れる方向に、「法悦供養塔」の道標。

川を渡り、国道1号をくぐり、少し歩くと右に法悦供養塔。

暫く歩くと暑くなってきて、セーターを脱ごうかな、と思ったけれど、日陰はかなり寒いので、結局セーターは着たままでいました。

畑には霜柱が立っているのか、キラキラしていました。

民家の植木鉢に、みずみずしい赤いベリーが成っていたり、岩壁から生えている木があったり。

坂を上り始めてすぐに和田一里塚跡。

大きい道を渡って少し行くと、亀山ロウソクという会社がありました。亀山は全国でも屈指の蝋燭をつくっている町です。

その先右側に、能褒野神社の一の鳥居がありました。

そのすぐ先に露心庵跡の標柱。

だんだん宿場町らしくなってきて、家々の軒先に屋号札がかけられていました。それぞれの町名も書かれていて、それを見ていると、町の名は、茶屋町、鍋町、東新町、東町…と移っていきます。

江戸口門跡を右折したのが8:56。現在の商店街の中に入ります。

そのかなり前からトイレに行きたくて困っていたら、左側に立派なトイレがある公園が見えたので、助かった!と思いました。

その公園は高台にあり、亀山駅は、低いところにあるようです。

この公園は、旧佐川邸跡でした。

その先に、「宿場にぎわいプロジェクト」と書いた看板があり、町起こし的な企画として、各家に屋号札をかけているそうです。町の名は、横町、万町、西町と移っていきます。

左に曲がるように道標が出ていて、角に山形屋という酒屋のあるところで曲がると、その先は道が黄色くなっていて、旧東海道はこの黄色の道をたどっていくみたいでした。升形の道がくねくねと通っていました。

左側に遍照寺という寺があり、山門よりも境内が低いのが珍しいと思いました。

電動車イスの方が、私がかなり速く歩いているのに、悠々と追い越していきました。

家々のすぐ後ろがお堀になっている箇所があり、そこに黒っぽい大きな水鳥がいました。

西町問屋場跡からは、さっきの遍照寺の屋根が見えました。

京口見付跡から一旦、旧東海道と並行する道を戻る形で歩きました。その道には、加藤内膳家の長屋門と蔵がありました。

少し寄り道で歩きました、亀山城址の方に坂を上っていくと、右に石井兄弟仇討ち碑がありました。

亀山城址は、多聞櫓と石垣ぐらいしか残っていません。

その先にある亀山神社では、明日のどんと焼きの準備をしていました。境内には、大久保神官邸の門(県指定文化財)と宝篋印塔(ほうきょういんとう)土台部がありました。

神社から坂を下り、京口門跡に戻り、再び旧東海道を進むと、バス停が京口坂だったり、橋が京口坂橋だったり。9:56だったので、ちょうど1時間亀山に滞在したことになります。

その少し先に、野村一里塚跡。鳩がたくさんいました。

道標に従って右折したのは10:18。その先、左側に布気皇舘(ふけこうたち)大神社。

その先、7分ぐらいで、右に古い蔵があり、写真に撮ろうとその蔵のちょうど前辺りの坂を少し上って、写真を撮った後、坂を下りて国道に出たら、歩道橋で向こう側に渡らねばならず、かなり階段を上っていったら、さっき私が写真を撮るために上りかけていた坂から直に歩道橋に行けたことが判明し、無駄な下りと上りをやってしまってショックでした。

線路を渡り、鈴鹿川が見えてきて、暫くは堤防の道を歩きます。広重の描いた東海道みたい。今、遠くに見えている山々の、どれが鈴鹿峠だろう、と想像しながら歩きました。

この堤防の道には、何故か警備員さんが多い。

大岡寺畷(だいこうじなわて)を過ぎると、鈴鹿川を渡る国道の橋の手前下に、小さな歩道橋が見えて、心惹かれて何枚も写真を撮りました。

右の方を関西本線が一両編成で走っているのが見えました。

道は右にカーブし、線路を渡るとすぐに国道に出ます。

歩道橋で右側に渡るか左の歩道を進むか一瞬迷いましたが、旧東海道はすぐに国道から右に入るので、国道に出た地点で反対側に渡っておかないと大変です。

国道に出て反対側に渡ってから国道を左方向に歩いていくと、小野川橋を渡り、そのすぐ先で道は右斜めに入り、入ってすぐの左側に小万のもたれ松があります。

関宿東追分には11:02着。

関は、昔ながらの町並みが残っている、東海道ウォーカーにはこたえられない素晴らしい町です。町に入ってすぐに、連子格子の家が続きます。

江戸時代にタイムスリップしたような町ですが、車は結構通ります。

右側に御馳走場跡、その先5分ほどで左側に関まちなみ資料館。

その先にある旅籠玉屋と共通の入館券を買い、中へ。民家を公開したもの。蔵や二階も見ました。足裏から冷えてきて、寒い。10分ほど見て、先へ進むと、右側に問屋場跡と祭の山車の倉。

その先に川北本陣跡。

町中にいくつかお食事処があり、寒いから暖も取りたいし、入りたかったのですが、時間がないので諦めました。

左側に百六里庭があり、その中に眺観亭という市民手作りの展望台があります。上ってみると、関の町の屋根…甍の波と、これから越える鈴鹿峠が見えます。

高い山々には結構雪が積もっていますが、鈴鹿峠は比較的雪は少ないものの、私たちが三人で鈴鹿峠を越えるのは、この先、雪が多い時期になるので、心配です。

その先左側に伊藤本陣跡。

またその先右側に関宿旅籠玉屋歴史資料館。

一番奥に、260年前の蔵。明治時代の自転車の展示もありました。

旅籠のタタキの入り口には足洗い桶があり、その上に帳場と宿の主人?の人形。急な階段を上って二階に行くと、江戸時代の布団やお膳が展示してあり、また、旅人の蚤の防ぎ方の知恵が書いてありました。

玉屋にも10分ちょっといましたが、足裏から冷えて…今度から旅の必需品に靴下カバーを用意しよう。

その先に高札場跡。

関宿はまだ尽きませんが、正午になったので、関駅へ引き返しました。

暫く道を戻り、適当に曲がったら、ちょうど関駅に着きました。

まだ時間があったので、道の駅関宿におにぎりを買いに行ってきました。

関駅発12:29

関から豊橋は2310円でした。

亀山で名古屋行きに乗り換え、名古屋から豊橋に行き、豊橋から小坂井は180円。

後半へ続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.01.14.の2 東海道ウォーカー憧れの…

2009.01.14. 東海道十九日目 後半 小坂井〜小田渕(吉田)

三重県亀山市の関宿を昼過ぎに出て、愛知県へ移動。

飯田線小坂井(こざかい)駅に降り立ち、前回まで歩いていた東海道の続きを歩きました。

鈴鹿や亀山は雪をまとった高い山が見えていましたが、ここいらの山は低くて、空の感じが全然違います。

小坂井駅着が15:18。駅前で少し迷い、親切な地元の方が声をかけてくれて教えてくれたのに、渡る踏切を間違えて、また少しうろうろしてしまいましたが、なんとか旧東海道に出ました。

左側に伊奈村立場茶屋跡、15:40。

右に太郎太鼓店、15:44。

豊川市に入ったのは15:52。

川を渡り、少し行くと右側に冷泉為村卿の歌碑がありました。

その先で左に曲がり、名鉄の小田渕駅へ。

体力的には、あまり歩いていなくて、まだ明るいし(日が大分伸びてきました)、もう少し先まで歩きたかったのですが、予約してある宿に「17時までに入ってください」と言われていたので、歩いていたら間に合わないため、やむなく小田渕駅から電車に乗りました。小田渕から名電赤坂まで220円。

小田渕駅16:17発に乗り、名電赤坂駅に降り立ったのは、16:25。赤坂宿の大橋屋旅館を目指しました。

大橋屋は芭蕉も泊まった、300年の歴史のある旅館。東海道ウォーカーの憧れの宿です。大橋屋着16:38。

大橋屋は一日に二組しか客をとらないそうで、今夜は私一人きりでした。

江戸時代そのままと聞いていたので、襖で仕切られた隣の部屋とのセキュリティは?…もしや女性同士なら相部屋もあり?…暖房は?…などの疑問がありましたが、襖で仕切られた隣の部屋が空いていても、隣には泊めない、だから一日二組まで、ということなのです。

また、私はトイレが近くにあり、エアコン付きの新館(と言っても十分に古いです)に泊まりましたが、江戸時代からの古い客室は、文化財だからエアコンを取り付けてはいけないそうで、なので、旧館には、夏と冬には客を泊めないそうです。トイレも下まで行かないといけないし。

宿のご主人に、江戸時代からの二階に案内してもらいました。

今は3部屋ですが、昔は向こうにもう4部屋あったそうで、近所の火事の貰い火で4部屋を失いましたが、奇跡的にこちらの3部屋が無事だったそうです。

ここの特徴は、二階の格子が、よくある千本格子或いは連子格子のような細かいものでなく、荒いこと。普通、格子を細かくするのは、外から中が見えないように、なのですが、大橋屋の格子が荒いのは、工夫があるのです。

ひとつは、格子と部屋の障子の間に一段高い幅30センチぐらいの欅材の縁側があり、そのために、外から中が見えにくい。

街道沿いの旅籠は二階がなかったり、一階建てに見せかけた二階屋が多かったそうで、それは外を大名行列が通った時に、上から見下ろすのは失礼なので、二階を作らないところが多かったそうで…大橋屋は、一段高い縁側で奥まった分、外から中が見えない、また、縁側近くの天井が急傾斜で低くなっていて、それは外の軒に繋がっているのですが、軒が急傾斜で深いため、外から中が見えにくい。だから、二階にいて仕事をしたままでも、大名行列をやりすごせたそうです。本来は下に下りて、土下座しなくてはならなかったのに。

その一段高い縁側ですが、実はこれは床の間代わりのもので、そのため、障子が両縁になっています。普通の障子は、片面縁(桟)で、もう片面は障子紙ですが…。外側の縁は取り外せます。そうじゃなければ、障子紙を貼れませんよね。

また、床の間らしい洒落で柱も太く、上がわざと切ってあって、柱と天井の間に柱のない壁の部分があります。でも、それでは柱としての役目を果たしていなくて、天井を支えられないのでは?と思うけれど、実は見えない内側に、三部屋通しの丸太が通っているそうです。

また、部屋が七畳間(縁側の方の二枚の畳が縦半分の半畳のため)という作りだし、その他にも面白いところが何点か。

玄関入ってすぐが二階までの吹き抜けになっていて、横に渡してある大きな木が、わざと曲がりくねった木を渡してある。それがおしゃれで格が高かったらしい。ところが、その変則的な横木のせいで、ひずみが建物の端に現れる。二階の部屋の障子の幅が、狭かったり広かったり、それぞれの障子で大きさが違うのです。

先程の横木から、昔は鎖を吊るして、大きな囲炉裏があったそうで、囲炉裏の煤で、二階の天井もきれいに真っ黒になっています。

二階上がってすぐの天井が低いので、頭を打たないように言われましたが、いくら江戸時代の人は背が低かったとしても、これはあまりに低いのでは?なんだってこんなに低いのか?と質問してみました。

すると、階段上がって正面に、今は物置にしているけれど実は水屋があって、ここでお茶を点ててお客様にお出ししたそうで、茶室の「にじり」の作りで天井が低いのだそうです。

客室の一番奥の部屋も茶室仕立てで、奥行きの狭い床の間、壁障子、欄間の三点を備えています。

廊下は三部屋にしては広く、これは昔は七部屋あったからで、今の一番奥の部屋の壁側辺りが昔は中央で、今は屏風で隠してある壁に扉があって、今で言うリフトで料理を二階に上げて、ここから両方の部屋に料理を運んだため、廊下が広いのだそうです。

一階に下りて見上げると、壁の上の方に二台の籠が壁の棚に嵌め込まれていて、その横に食べ物リフトの箱がありました。

説明のお礼を言って、来た時はまだ宿に明かりが点っていなかったので、明かりがついた大橋屋はきれいだろうと思い、外に撮影に行きました。案の定、すごくきれい。

来たとき、古い大きな提灯に何が書いてあるのか分かりませんでしたが、「御宿所」と書いてありました。

お風呂は檜の丸い桶の風呂で感激。

夕食はとても美味しく、とくに山芋の味噌かけと、ムカゴをふかしたものが美味しかった。

部屋の床の間には、芭蕉の句の掛け軸が掛かっていました。
「夏の月御油より出でて赤坂や 芭蕉」

亀山に比べて、愛知県東部は暖かい。と思ったのは夕方だけ、夜は冷え込みました。

部屋に宿に泊まった人たちが名前や所感を書き記したノートがあり、読んでいたら、共感したり、感動しました。私も長い文章を書いてしまいました。イラストを二枚も入れて。

ついでに下手くそな俳句も書きました。
「唯一の客もてなしを受け寒の宿 ☆紗」

宿泊客、わたし一人、の大橋屋の一夜は静かに更けて行きました…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.01.15. タイムスリップ松並木と大蘇鉄

2009.01.15.

東海道五十三次 二十日目 小田渕〜御油〜赤坂

今日は、昨日の続きで、小田渕から歩き始めました。

大橋屋の朝食は、一番早くても7時半。

寒かったので、温かい味噌汁と、温かい玉子豆腐に温かい甘味噌かけが美味しかった。

おかみさんに見送られて、8時過ぎに出ました。

朝の白い月が山の上に見えました。

名電赤坂駅は、名古屋方面行きと豊橋方面行きに別れていて、豊橋方面に行くには、踏切を渡らねばなりません。

名電赤坂から小田渕は220円。名電赤坂駅8:22発に乗り、小田渕着は8:30。

駅にはトイレがなかったので、稲荷神社後ろの公園のトイレでコンタクトレンズを入れました。

昨日の夕方歩いてきた旧東海道に戻って、続きを歩き始めました。

川を二つ渡り、その先、モノレール?と思う、高い位置の橋のようなもので東海道は分断され、右側の少し離れた国道まで迂回して歩行者用信号を渡って、また旧東海道に戻ります。

モノレール?と思った橋のようなものは道路(国道を越える立体交差道)を建設中のようでした。

暫く進むと、さっき右を走っていた国道にぶつかります。信号待ちして国道を渡り、地図では斜め左に道が進んでいるのですが、斜めの道は存在しないので、畑の中の農道をとりあえずまっすぐ進み、ひとつめを左に折れてみました。その先で、国道から右へ折れてくる車の流れから道の関係を推測すると、今の私の道の選び方は合っていたようです。

冬枯れた畑のずっと向こうを名電(名鉄豊川線)が走っていたのに、いつの間にか線路が近づいてきて、踏切を渡りました。

踏切を渡ってすぐに左に折れるのですが、ガイド本の地図の旧東海道を示す赤線がその先、破線になってしまいます。昔の道は失われ、農道を適宜辿るしかないのだそうで…

右に森が迫ってきた辺りで、トイレに行きたくてたまらなくなりました。こういう田園地帯には、公園はないので、戸外のトイレは望めません。森の薮にうまい具合の隠れ場所がないかチラチラ探しながら行きましたが、ここは!と思った場所に大きい石があったのに気づき、ひょっとして昔の誰かの墓の可能性がある。としたら、そんな場所に入り込んだ上に、汚す(けがす)ような行為に及んだら、祟られそうで(学生時代、お地蔵様の脇で立ち〇〇〇した男子の大事な所が腫れたことがあるのです)、ここでの不謹慎は避けることにしました。

地図の線は破線なので、適当に左折した所にあった踏切を渡り、トイレに行きたい、ヤバい、と思いながら歩いていると再び国道に突き当たり、IHOという会社の横のしらとり地下道を通って国道を渡り、その先の道が旧東海道と信じて先に進んだのですが、これは間違いでした。

進んでいくと学校が右にあり、川に出てしまい、これは地図で確かめると明らかにおかしい。地図で見当をつけて、右折して川沿いを行き、次の橋のところを右折して、多分これが旧東海道ではないかと思われる道をあえて突っ切って、国道に出て、旧東海道は国道からこちら側に渡った左横に交番があるので、交番を求めながら、国道を戻りました。

交番を見付け、国道から斜め左に入る旧東海道に戻れました。交番があるその交差点名は、「国府町藪下」です。破線の道の後なのだから、そういう情報をガイド本に書いておいてほしいものだなあ。

国府町秋葉山常夜灯が説明板とともに右側にあり、その少し先に薬師堂。小さな境内で、一見トイレなどなさそうでしたが、右後ろに公会堂があったので、ひょっとしてトイレを借りられるかも、と奥まで行ってみると、公会堂の左前、薬師堂の裏に狭くて分かりにくいけれどトイレがあったので、ありがたく使わせていただきました。

30分ぐらいトイレを求めていて、もう絶対ヤバい、という時に巡り会えたので、これは元日に日向薬師に初詣したので、同じ薬師如来のご縁で助けられたのだろうと(この話をすると、何教だよ!と突っ込まれますが、私は天地神明、聖なるものは繋がっている宇宙の真理と思っています)
お礼に5円賽銭しました。初詣の梯子はいけない、と聞いていたので、1月中は日向薬師以来、訪れても手を合わせたり賽銭したりはしていなかったのですが、縁結びの日向薬師に御縁に因んで5円お賽銭したので、今日のトイレとの出会いで、5円の効果は切れたろうと思い、お礼に5円入れました。

10数分歩くと、大社神社という石垣が立派な神社があり、ちょうど保育園のお散歩の一団と出会いました。泣いてしまった子を保育士さんがだっこして、神社の境内に連れていっていました。

10時少し前に、御油(ごゆ)一里塚跡。日本橋から76番目の一里塚だそうで、順調なら、私は一里塚跡の写真を今までに76枚撮ったはずだけれど、見逃したり分からなかったりも結構あったし、一里塚跡の案内がいっぱい出ていて、一ヶ所に何枚も費やした一里塚跡もありました。

その先に、姫街道の分岐がありました。見付宿で別れて以来(新居関所を回避する道)、久々の再会です。

また数分後に、旧御油橋を渡りました。

ここから御油宿だそうです。

5分ほど行くと、ベルツ夫人所縁の地の案内板。ベルツ博士は明治初期、日本の内科医学発展に多大の功績を残したドイツ人。妻の花(はな)の実家が御油にあったそうです。

ベルツ夫人所縁の地の案内の斜め先に高札場跡。高札場跡の後ろの方に幼稚園が見えました。高札場跡の角を右に折れると郵便局の前に出て、旧東海道はここを左折するのですが、左折せずにまっすぐ行くと御油松並木資料館があるとのことで、入っていってみると、右に公民館があり、公民館に沿って右に曲がり、さらに右に曲がったところに御油松並木資料館がありました。

入り口脇に太い松の幹の一部が展示されていました。樹齢280年の切り株。慶長9(604)年に家康が東海道に松を植えた最初のものだそうです。松の木肌の亀甲型が、三河黒松の特徴だそうです。

資料館の中は無料で見学できます。入り口で記帳して入っていくと、先客が4名。私より5〜10歳上かな、と思いました。みんな熱心に東海道関連の展示を見ていましたが、私は東海道関連の展示は今までにたくさん見てきたので、適当に見て回りました。先を急ぎたい気持ちもあったし。

松並木資料館を出て、来た道を戻らずに、前方に見えている橋を目指すと、さっき渡った旧御油橋と並行してかかっている御油橋に出て、橋を渡らずに右に曲がると、さっきの郵便局に出て、旧東海道に戻ります。

10:21 本陣跡。

そしてその先、いよいよ憧れていた、御油の松並木。

とにかく素晴らしい松並木です。

ガイド本に載っていた写真の松並木とはイメージが違うのは、幸か不幸か舗装をやり直す工事中で、アスファルトがはがされ、砂利道になっていたこと。今なら暴れん坊将軍や、水戸黄門のロケ、録り放題!さらに工事車以外は通行止めなので、ひとりの世界を満喫。

しかし、問題点もありまして、埃っぽいこと、赤いカラーコーンや、場所によってはトラックやショベルカーもいるので、写真を撮るのに少しでも東海道らしい写真を撮ろうと苦心しました。

松並木を通り抜けるのに、6分ぐらいかかりました。

その数分後には赤坂宿の見附(これが本当の赤坂見附!)に着いたので、御油と赤坂はくっついているような印象を受けました。距離も短いのですが、多くの人が御油と赤坂をワンセットで話す理由が分かりました。

見附からまた数分後に、関川神社。芭蕉の句碑がありました。大橋屋にあった句です。

「夏の月御油より出て赤坂や 芭蕉」

そこからまた5、6分で、高札場(レプリカ)のある公園。ここは名電赤坂駅から来た道が旧東海道と合流する、赤坂紅里交差点の脇の公園です。

右側に、曲げ物と民芸品の尾崎屋、左奥に浄泉寺。

浄泉寺境内には、赤坂薬師、百観音、広重が描いた大蘇鉄がありました。

浄泉寺を出てきたところが、夕べの宿、大橋屋旅館。

少し先にお休み処があり、「よらまいかん」と書いてありました。

中に入ると、椅子とテーブルと自動販売機と洗面所と…でもトイレがない。壁に手作りの行灯がいくつかかけられ、屋号とあけびなどの絵が描いてありました。

外は整地された広場で、年輩の方たちがゲートボールをしていました。

また数分先に陣屋跡(代官所跡)。

11:03に杉森八幡宮。夫婦楠が立派でした。

今日はそろそろ時間切れ。ここで引き返して今日は帰ります。

戻って、尾崎屋で土産を買いました。娘たちに風車。自分には桜材の箸(咳、アレルギー防止の効果があるそうです)と耳掻き。

さっきからトイレに行きたかったのですが、駅へ向かっていくと国道があり、国道を左に行ったところにコンビニがあったので、トイレを借りて、おにぎりとお茶を買いました。

そうそう、赤坂は家康の出身地の岡崎に近く、赤坂宿は家康のお膝元として栄え、各大名も、赤坂宿で泊まるのを遠慮したとか。

家康は、赤坂という地名を江戸にもっていったそうです。

現在の東京の、あの赤坂は、実はこの赤坂宿からとったのだそうです。

名電赤坂11:42発。

帰りは普通電車を乗り継いで帰りました。5時間半の電車旅でした。

本日の総歩数、20,306歩。歩いた距離14.6km。時速5.13km。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009.01.20. 東海道番外編4 水の町、三島

職場のの慰安旅行があり、伊豆の大室山と稲取へ行った後、三嶋大社の参詣、御殿場アウトレットショッピングという行程でした。

私は三嶋大社で皆さんとはお別れして、一人旅に出ました。

三島駅へ向かう道で迷ってしまい、川の中の道を通ったり、面白い体験でした。三島は水の豊富な町で、水辺には三島の水辺に関する文学碑が並んでいました。

三島駅から豊橋へ向かいました。

稲取での豪華昼食が効いていたので、豊橋駅の地下でローストビーフサラダを買って、夜はそのサラダとビールで十分でした。

翌日は東海道五十三次ウォーキングの続きを歩きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »