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風の遠州路〜現存レア物が多い日

2008.12.02.

東海道五十三次 十五日目 前半 浜松〜舞阪

7時起床。7時半に、昨日チェックインの時に予約した朝食を食べに行きました。鮭、卵焼き、ひじき、納豆、ご飯、味噌汁。うーん、これだったら、隣の軽食コーナーで無料セルフのパン、コーヒー、ジュースにして、浮いた500円でセミダブルの部屋にすればよかったな。

出発前に足のストレッチ。

8:25にホテルを出発。

浜松は駅前通りの歩道脇に彫刻が点在しています。

東海道に戻り、右側の歩道を行くと、バイオリンを弾く女性像がありました。楽器の町浜松らしいなあ。

連尺交差点で、東海道は左折しますが、私は浜松城を見るために、右へ行きました。

浜松は地下に潜る横断歩道が多く、歩く旅の者は辛いし、ここで生活しているお年寄り、妊娠中の方、心臓などの病気のある方や足腰を痛めている方、足の不自由な方、また元気であっても荷物が重かったり、疲れていたり急いでいたり…人間に優しくない構造で、せっかく文化水準が高い?と思いかけていたのに撤回ですね。日々の人々の生活や訪問者に優しくない町は、文化的町ではない、と私は思います。

連尺交差点を地下から渡って、出て右折してすぐに、大手門跡。

市役所前を通り矢印に従って左折すると緩い上り坂、大きなプランターにパンジーが植えられ、水やり後で、歩道に水の流れた後が残っていました。爽やかな朝の風景です。

日差しは強く、ジャケットが暑いのですが、日陰はとても寒いので、着たままでいました。

坂道は石垣にぶつかり、浜松城へは左から回り込んでいきます。

急な階段を上り、公園を抜けて、さらに上がっていくと、天守閣が見えました。公園入り口から天守閣を見上げるまでに5分かかりました。

昔の石積みがあちこち残っていて、よくある石垣とは違うな、と思っていたら、野面(のづら)積みという積み方で、自然石を生かして積んであり、あちこち空いていて崩れそうに思うのですが、きちんと組まれていて、奥の方には小石が詰め込まれて堅牢にしてあり、水捌けもよかったそうです。

野面積みの間の階段を上っていくと少し広くなっていて(曲輪というらしい)銀明水という井戸がありました。

天守閣は復元されたもので、三層になっています。一階は黒い壁、二、三階は白壁です。

浜松城は徳川家康が青年期に住んでいた城で、家康が駿府城に入ってからは、徳川家ゆかりの大名などが次々と居城とし、水野忠邦をはじめ、出世した人が多く、出世城と呼ばれたそうです。

シルバーボランティアさんがたくさんいて、清掃や受付をしていました。

天守閣内は入館料が150円。鎧、鉄砲、馬具、歴代城主の紋所などが展示されていました。

地下の井戸は木の床や井戸も木で縁取られ、風呂場みたいできれいでした。

家康の散歩道(周辺の歴史的見所)、正妻や嫡男の悲話なども展示されていました。

三階展望台からは、紅葉の森、浜松の町がよく見え、浜名湖も遠望できました。私が想像していたより、浜名湖と浜松市市街地は遠いんですね。天守閣から見える足元の紅葉の森も、昔は城の建物がいろいろあった跡のようです。

天守閣を下りて、家康青年像を見に行きました。周りを紅葉に囲まれていました。右手に持っている金の楕円の物…上が切れている。あれは何かな?布団を干すときの布団挟みに似た形。家康の兜印の羊歯(しだ)印なんだそうです。

公園を出て、鎧掛の松を見に行きました。家康は三方ヶ原の戦いの敗走の後、この松に鎧を掛けて休んだのだそうです。今の松は三代目。

家康は三方ヶ原からの敗走で傷つきひどい形相になっていた顔を敢えて画家に描かせ、生涯自分への戒めとして、その顔の絵を折りあらば見ていたそうです。

そういう家康が好き、という人と、嫌い、という人に分かれそうなエピソードですね。

浜松城見学は、公園が広いせいもあって、30分を費やしました。

地下横断歩道を通って、連尺交差点から東海道に戻りました。

暑いのでジャケットは脱ぎ、マフラーは巻いておきました。風が強いので、マフラーはいい対策グッズとなりました。

すぐに高札場跡。暫く歩くと川口本陣跡。

伝馬町、旅籠町と、昔の宿場の中心地を歩きました。

成子交差点の少し手前に、名物浜納豆を売る店がありました。

成子交差点で右折し、雄踏(ゆうとう)街道を西へ。

少し行くと左にファミレスがあり、そのすぐ脇に子育て地蔵がありました。

子育て地蔵を目印に、左斜めに入っていくのが旧東海道ですが、第二の寄り道のために直進。直進した道は入野街道というそうです。

随分遠く感じたけれど、実際には7分で賀茂神社着。

賀茂真淵の出生地です。

私は学生時代、「古事記」で論文二本を書いていて、直接ではなくとも、回り回ってお世話になっているので、挨拶に行きました。

ここへ来て、初めて気付きました。神社の生まれだから、たくさんの文献に触れることもできたし、他所の文献を見せてもらうことも可能だったのでしょう。だから、国学者になった。

金原明善や、池上幸豊が名主だからこそ、地域のための開発や工事が出来たように、昔の人々は生まれ育った環境以外のことはなかなか出来なかったに違いない。

現代は、出自に関係なく、様々な学問に触れることもできる。様々な職業に就くことも出来る。そのありがたさを、旅に出て、改めて知りました。

賀茂真淵記念館はパスしました。記念館は縣居(あがたい)神社の側にありますが、この辺りの地名を県居というんだな。

子育て地蔵まで戻り、斜めに入る旧東海道へ進みました。

暫くは静かな道を進みますが、東海道線の高架が見えてきて、斜め左に少し折れるようにして、東海道線を潜ると、国道257線に会い、合流して右の歩道を進みました。

すぐに新幹線も潜りました。

雲ひとつない快晴。遠州は風が強い。

紳士服の大型郊外店が二軒並んでいたり、この辺りは駐車場の広い大型店舗が多い。

暫く行くと、右に巨大な店舗が見え、MEGAドンキホーテでした。

でかいなあ、と思っていたら、長崎屋とサンドラッグが併設されていたので、寄ることにしました。

この店の手前には可美小学校があったので、可美という地名だと思ったのですが、店名は長崎屋浜松可美店なのに、住所は浜松市東若林でした。

入ってびっくり!閉店セール?と思うぐらいフロアがガランとしていて、あちこち布で覆われていて…

しかし、そうではなくて、大幅改装中で、12月12日に新装オープンするそうで、その前の二日間は全館休むそうです。

サンドラッグで膝用サポーターLを1枚買い、トイレで左膝に着けました。大分楽になりました。保温効果が一番かな。Lだと少し大きめでしたが、Mだと多分きついので、やはりLでよかったと思います。

店内のロッテリアでバニラシェイキを飲んで休憩。

これで多少昼食が遅くても大丈夫。

長崎屋を出たのが10時50分頃。

若林一里塚跡を探して歩きましたが、一里塚は見つかりませんでした。

その先、R257が少し右へ曲がり気味なところの角の手前に、二つ御堂の片割れと、高札場跡と馬頭観音が並んでいました。二つ御堂は道のこちら側と反対側に相対して二堂建っています。藤原秀衡とその愛妾を弔うためのものだそうです。

この辺りで11時過ぎ。ここからが長い旅でした。国道を延々まっすぐ歩くのは遠く感じます。青い空、強い風。

途中コンビニでドリンク剤を飲み、出たところで信号待ちしていたら、すれ違った自転車を押しているおばさんが、「この辺、鉄粉臭くて嫌あねえ」と声をかけてきたので、「何か変な臭いがしますね」と答えました。鉄粉臭いというよりは…焦げたゴムの臭い、だと私は思いました。

諏訪神社、常夜灯、と写真を撮りながら歩き、11時半頃に通った熊の神社は、境内に大ダコの滑り台があり、神社前には高札場跡がありました。

その先に堀江領界石。

そのすぐ先、右奥に、高塚駅があったようですが、知らない間に通りすぎてしまいました。

また暫く行くと神明宮。その先、篠原一里塚跡を通ったのは12時10分。また5分ほど先に高札場跡。

12時21分、愛宕神社。こんなにちょくちょく神社の写真を撮ったのは、それだけまっすぐな道で、何か目標物がないと飽きてしまうから。

小夜の中山みたいな丘陵の尾根筋の緩いアップダウンと茶畑の中の道は気持ちよくて、歩くの大好き!と、ひとりタイタニックしたり、歌ったりしてましたが、国道沿いまっすぐは惰性で足を動かしている感じです。

でも、実は昨日も今日も、歩きながら探しているものがあります。昨日、袋井で、茶色に枯れた風船カズラを見たので、秋の終わりに弾けて綿が出てくるという風船唐綿が今、どうなっているか見たい!と探していました。でも、二日間、とうとう風船唐綿にはお目にかかれませんでした。

12時55分。春日神社。大きな神社で、本来は水が張られていると思われる丸い大きな穴があったり、狛犬の代わりに鹿がいてびっくりしたり。向かって右側が牡鹿。左側が牝鹿。

春日神社はいろいろ見学していて、6分滞在しました。

13:05に舞阪の松並木に入りました。約700メートルに亘る、立派な松並木です。西へ向かう人は、左側歩道がお勧めです。日本橋から京都三条大橋までの五十三次の銅版画が並んでいて、今まで歩いてきた道のりを思い浮かべて、涙が出ました。反対側歩道には、十二支の石像があるらしいです。

松並木ももうすぐ終わりそうな辺りに、舞阪橋跡がありました。

松並木を抜けた所に小公園があり、大きな浪小僧の像がありました。漁師の網に引っ掛かってきた気味の悪い真っ黒な小僧が、命を助けてもらったお礼に、嵐や高波の前に、海の底から太鼓を叩いて知らせてくれたので、村の漁師は難から逃れることが出来たそうです。案内板を眺めてトイレを借りてから、国道を渡って舞坂宿に入りました。駅名は舞阪、宿場名は舞坂と書くようです。

史蹟見附石垣まで来たのが13時半。町中の海苔屋さんは、ほとんどが堀江商店。堀内商店もありましたが。そこで、多分屋号で呼び合っているんでしょうね。堀江商店の前に、丸半、丸吉など、〇の中に一文字漢字を入れて店の看板に書いてありました。

常夜灯、一里塚跡など見て歩き、本陣跡の斜め向かいに脇本陣茗荷屋。ここは書院などが残っていたため、史蹟として指定され、昔の柱などを何パーセントか残すことによって文化財指定を受けて、残りの部分は復元されました。

中は無料で公開され、説明もしてくれました。名古屋からオートバイで来たという青年と一緒に話を聞きました。

脇本陣は本来、平屋建てなのですが、茗荷屋は旅籠も兼ねていたので、二階がありました。脇本陣を廃業してからは、役場に使われ、その後は医院として使われていたこともあったようです。

間口はあまり広くなく、鰻の寝床のように縦長な構造です。

ここの風呂は五右衛門風呂ではなく、桶式の風呂です。奥の方に殿様用の塗りの風呂桶がありましたが、塗りの桶は見本で、実際には殿様は自分用の風呂桶を持ってきたそうです。他人が入ったものを嫌ったり、毒をもられないように、ということもあったし、当時の大名行列は、家財道具一揃え持ち歩いていたそうです。

当時は東海道五十三次を十二泊十三日で旅し、一日40km歩いたそうで、大きな宿場、浜松から近い舞坂の宿に泊まる人は少なかったそうですが、高波などで渡し船が出ないと、舞坂に泊まったそうです。

明応7(1498)年、大地震で浜名湖と海とを隔てていた陸地が切れてしまって出来た渡しなので、最近出来た渡しという意味で、今切れの渡しと呼ばれました。

今切れの渡しを渡った先の新居には新居関所があり、入り鉄砲に出女の詮議が厳しく、女性はまず通してもらえないため、女性は見付の分岐から御油まで姫街道を通る場合が多かったそうです。

また、今切れのせいで新居と舞坂の交流がなくなり、新居と舞坂は近いのに、文化や言葉が違うそうです。

14時頃脇本陣を出て、西町常夜灯を見てから…ショックなことがありました…

後半に続く

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