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2008.09.12. 東海道初めの一歩

東海道初めの一歩
2008.09.12. 晴れ 暑い日。

旅立ち

今日はふっと休みが入ったので、ふっと五十三次の冒頭を一人で歩いてこよう、と思い立ちました。五十三次の本は何冊か用意してあるので、よく読んで、小さい本と東京23区の地図を持っていきました。

家を朝6時40分頃に出て、電車の中で、持ってきた五十三次の本の、日本橋、品川、川崎、神奈川をよく読みました。

江戸時代は歌にも歌われているように、

「お江戸日本橋七つ発ち」午前4時、暗い頃に出立して、「こちゃ高輪夜明けの提灯消す」…高輪あたりで夜が明けて提灯を消したそうです。

品川宿、川崎宿と進み、足弱の女性でも一日で神奈川宿までは行ったとか。

私も目標としては神奈川まで行きたいけれど、日本橋を七つ立ちはできないまでも、せめて朝4時に起きて始発で出たかったのに、夕べは諸事情で27時まで起きていたため、今朝6時に起きて、東京に着いて日本橋まで行き、旅の第一歩を踏み出したのは朝8時17分頃。

また、今夜は子ども会の会議(市民祭りで作るおもちゃについて)があるので、歩き終わりのリミットは夕方5時。行けるところまで歩いて、電車で帰ります。さて、今日はどこまで行けるでしょうか。

初めの一歩、日本橋

東京駅八重洲北口から日本橋に向かい、何度か架け替えられた後、明治44年に今の石橋になった日本橋へ。横浜開港当時の建築物と趣が似ているなあ、と思いました。

つい先日、日本橋Mデパートに来たばかりだし、今までもこの近辺には来ているのに、こうして日本橋を見るのは初めてです。

東海道だけではなく、五街道の起点はここなので、ここからの距離がいろいろ書かれていました。

いよいよ歩き始めます。通勤の人波の中で、私だけがTシャツとキャップ、ペットボトルホルダーを首からぶら下げて、かなり異質。周囲のみんなの足早なこと。私は今から飛ばしたら20キロもちませんからね。歩き始めはややゆっくりとね。

日本橋を背にして銀座方面へと歩を進めていくと、私の場合は一生見えないかもしれない京の三条大橋へと着実に一歩一歩近づいていっているんだな、と旅心が掻き立てられます。

京橋~銀座~新橋

京橋はすぐに着いてしまいました。京橋は既に川は埋め立てられていますが、擬宝珠だけは記念碑として残されていました。

歌舞伎発祥の地の碑を見て、銀座の街を進みます。開店前の銀座は、各店、ガラスケースに布が掛けられていて、暗くて怖いイメージ。

ティファニー、プラダ、バーバリーなど、高級ブランドが軒を連ねています。

すごい快晴。昨日の秋の風とはまた一変して、夏の日差しに逆戻り、と天気予報で言っていましたが、高いビルに囲まれた銀座はとても涼しい。このままずっと日陰であってほしいなあ。

新橋跡も川はないけれど、柱が碑となっていました。目の前に未来の町のような高架の通りがあると思ったら、ゆりかもめ(新都市交通)でした。

その先、JRの高架を潜るとき、ちょうどのぞみ号が通っていました。

何年か前…2005年12月14日でした…に、赤穂義士討ち入り帰りのルート12km(両国〜泉岳寺)を歩いたことがありますが、新橋の線路をどうやって越えたらいいかで道に迷って時間がかかってしまいましたが、なんだ、国道15号をそのまま進めばよかったんだ。

東海道というと、国道1号線をずっと歩くのだと思っていましたが、今日のルートは国道15号を歩くか、15号の平行線の旧道をずっと歩きました。

赤穂義士ルートの日は道の右側をずっと歩いていましたが、今日は日陰の関係で左側を歩きました。

芝~三田~札の辻~高輪大木戸跡

右側に芝大神宮があったので、寄ってみることにしました。ちょうど祭りの準備をしていて、提灯が飾られ、御輿が3基置かれていました。狛犬の足元には「め組」の文字。

日陰を歩きたいので、また道の左側に戻り、暫く歩くと金杉橋。橋の手前が公園になっていて、小休止しました。オフィス街は禁煙が多くなって公園で煙草を吸う人が多いので、私のように煙草を吸わない人は、お茶だけ飲んだらそそくさ退散。

橋の上から川を見たら、屋形船や釣り船などが沢山係留されていました。

R15が大きく右にカーブしている辺りで、機能訓練中なのか、障がいのある若者の一団の散歩と一緒になりました。暫くはまるで一団の仲間みたいに一緒に歩いていましたが、いつの間にか抜かしていました。

右側に御田神社が見え、そこから少し行くと人が多くなったな、と思ったら、田町駅、三田駅前。勝海周と西郷隆盛の会見の碑がありましたが、あまりの人の多さに写真も撮らずに、でも、形や字体が面白いので、一瞬立ち止まって眺めました。

札の辻は歩道橋で渡るようになっていて、振り返るとビルの合間から見える東京タワーが青空に映えてきれいでした。080912_095801

男の人が年老いた母をおぶっている像があると思ったら、案の定、笹川記念館でした。

その先で店の名前は忘れましたが、ドトールやタリーズみたいな店に入り、タンドリーチキンサンドとアイスコーヒーを頼んで休憩をとりました。朝6時におにぎりを1個食べただけでおなかがすいてきたので。ちょうど10時でした。

休んだ後は足取りが大分軽くなりました。今日の歩き疲れよりも、夕べのロシアンエクササイズの筋肉痛が足に来ていてヤバイです。

暫く行くと高輪大木戸跡。ここまでが江戸だったそうです。必殺シリーズで、大木戸がよく出てきていましたが、ここだったんだ。今はこんもりした石垣が残っています。

そこから少し先に、右側に泉岳寺。

品川駅が近くなると、左側のビルがなくなるので日差しが強く、暑くなってきました。

品川駅前は人が多くて大変。

暫く行くと、高架下に品達ラーメン街と品達丼街があり、11時開店なのでまだ鉄柵が閉まっていましたが、もう並んでいる人がいました。

また暫く行くと、道はR15と別れ、八ッ山橋で線路を渡り、北品川の品川宿へと入ります。

品川宿

商店会が町起こしで案内板などを整備し、お休み処を7箇所設けているとのことでしたが、なんだか入りづらい所が多く、10円で町案内マップを売っているという場所はどこか分からなかったし、駄菓子屋のようなおもちゃ屋は休憩する雰囲気ではないし。

街道松が所々植えられていて、広場になっていました。街道松があると東海道らしくていいなあ。

松の広場が3箇所ぐらいあって、ベンチやトイレがありました。

目黒川に架かる品川橋(境橋)を渡ると南品川。

点在する寺社を少し覗きました。

080912_121101

長寿寺、諏訪神社、青物横丁商店会に入ってから品川寺(ぼんせんじ)。品川寺には入り口に大きな地蔵菩薩座像がありました。

南品川と東大井との境の大通りを渡ったところにある、ミニストップに入ったら、弁当類を持った人がズラリと並んでいました。

足休めにちょうどいいので、並んで待ち、白桃パフェを注文しました。

待った甲斐あって、白桃パフェは美味しかった。

この後の話は午後の部へ続く。

コーヒーブレイク

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208.09.12-2 東海道初めの一歩 午後の部

2008.09.12

東海道五十三次、初日、初心者マーク、午後の部です。

ミニストップで白桃パフェを食べたのが正午頃。

世間では昼食の時間だったんですね。私は朝6時におにぎり一個を食べ、お十時にタンドリーチキンサンドを食べ、正午に白桃パフェ!・・・変則的!

北品川から旧東海道に入り、北品川、南品川、青物横丁、鮫洲と商店会の通りを辿っていきました。

立会川で、浜川橋(涙橋)を渡ると、町外れらしい静かな感じへと変わってきます。そうか、いよいよ鈴ヶ森か。

左手に公園があり、ちょうどトイレに行きたかったので、やれ嬉し、と公園へ。

公園入り口は細長いので小さな公園かと思いきや、奥に噴水のある、随分大きな公園で、キャンプ場まであるそうな。しながわ区民公園という公園です。080912_123201

噴水は「くじら噴水」。品川沖にくじらが現れたことを記念して作られたそうで、三頭の黒い背中からピューッと三本吹き上がって、暫くすると周りがモヤモヤッと霧状になり、吹き上がりがなくなると、今度はモヤモヤがたちこめ、小さな虹も出ました。

疲れが癒されました。

そこから、鈴ヶ森刑場跡はすぐ。

八百屋お七の磔の杭を立てた土台の石などが残っていて、生々しい。小さな林ですが、冷気が漂っているような一角でした。

ここで旧東海道の静かな道は終わり、国道15号線に合流。歩道橋で道の右側に渡りました。右側の方が日陰が多いので。

少し行くと、右に磐井神社という立派な神社がありました。またもう少し行くと、左手にしながわ水族館のモニュメントが見え、道路には、しながわ水族館行きの、可愛くて涼しげなバスが走っていました。

平和島の駅で、ちょうどジョギングの人とすれ違いました。ジョギングの人は、「もう平和島だ。」と言っていましたが、私は、まだやっと平和島か、と、この先の道のりの遠さを思ってしまいました。

京急と並行して歩いているので、平和島の次は大森町駅、次は梅屋敷、と歩いていきました。京急の駅と駅の間隔は、この辺り、結構短いんだろうな。

京急と並行しているこの道は、京浜国道の車がビュンビュン通る大きな道で、単調で疲れてきました。

こういう時、二人連れなら馬鹿話でもして気が紛れるんだろうな。ひとりだと、この足の痛みは、今日の疲れなのか、それとも昨日のジャズダンスレッスンでの特別メニュー、ロシアンエクスサイズによる筋肉痛なのか、なんて考えたり、コンタクトレンズがゴロゴロしてきて、目が痛くなると、頭もボーッとしてくるし。

右手に神社があったので、手を清めるところ(手洗鉢)でコンタクトレンズを洗わせてもらい、ホッとしました。

建物があると日陰があるのですが、工事中の場所が増えてきて、日陰が激減。歩行者迂回路は勘弁してほしい。遠回りをしなきゃいけない上、狭くて曲がりくねったところを、自転車がビュンビュン走ってきて、危なくて仕方がない。

梅屋敷跡って何があるのかな、と、ちょっと楽しみにしていたら、池のある公園でした。今は小さな一角ですが、昔は、あの吉野梅林と並び称されるほどの、梅の名所だったとか。「日本橋三里十八丁」と書いた石碑がありました。

その先、だらだら歩いていると、人が増えてきて、手にカフェのテイクアウトのコーヒーを持っていたりするので、もしや大きな駅の近くでは?と思っていたら、やはり、京急蒲田駅前でした。

蒲田から雑色駅までが一番辛かったかな。目標物もなく、工事の迂回路ばかりで、日はカンカン照って私の頭や首や腕を攻めてくるし。

朝と、しながわ区民公園付近と、2回腕や首回りに日焼け止めを塗りましたが、そのせいで腕がパールラメ入りみたいにキラキラして、ザラザラして、嫌な感じ。

雑色駅を過ぎると、次の目標の六郷神社が左側なので、どこかで左に渡りたいけれど、信号のタイミングがいいところで渡りたいな、暑いのにジッと待っていたくないし、信号が変わりそうだからと走ったりしないタイミングで、と見計らっていたら、グッドタイミングで渡れる信号と出会えました。

六郷神社には幼稚園があって、14時半なので、ママ達が自転車でお迎えに来ていました。

そこからすぐ先で、車道は多摩川大橋に向かって上っていくのですが、上っていく道に歩道がない。歩行者はどうするんだろう。まさか渡れないってことはないよね?と不安に思いつつ左側の細い道を進むと、やがて自転車用と歩行者用に分かれて、橋へと上っていく階段と坂道がありました。

ガイド本ってこういうところが不親切。歩行者は素朴な疑問や不安をもつと思うのに。そのとき、心のどこかで、自分が体験したことをブログに書くことで、後から東海道を歩く人のお役に立てないかな、と思い始めていました。まだ、今日歩き始めたばかりな上、東海道を全部歩こうなんて思っていなかったはずなのに。

多摩川大橋を、山のような空き缶を入れたビニールゴミ袋をくくりつけた自転車が、何台も川崎方面へ向かって走っていくのが印象的でした。

多摩川大橋は、最高に気持ちがいい!

遠くに見える、ベイブリッジ風の橋もきれいだし、羽田空港から飛び立つ飛行機も見えます。

080912_144901_2

河川敷は緑で、テニスコートもあります。河川敷にバラックみたいな家が沢山建っていて、あれは・・・・違法なんじゃあないのかなあ?あっ、「シーッ」の話なのかな。

川崎が近付いてきました。川崎は大きな町。東京より空気が悪いのか、けぶって見えました。ウミネコがニャアニャア鳴いて飛んでいきました。

ここから神奈川県、という看板は感慨深かった。多摩川はきれいでした。

橋を渡りきると、「旧東海道」の矢印に導かれて川崎に入り、案内に従って、川崎稲荷を見たり、田中本陣跡の看板を見たりしました。

暫くは案内通りに歩けば問題なかったけれど、砂子交差点辺りで道が分からなくなり、(実際は、そのまま直進すればよかったのに、ふと不安になって曲がってしまったのが失敗)仲見世通りや平和通り、国道15号などをうろうろ。

疲れているせいだ、と思い、どこか店に入って遅い昼食を食べようと思ったけれど、界隈、韓国料理の店ばかりで、ランチとディナーの間の準備中の店ばかり。ラーメンは食べたくないし。

川崎駅方面へ行ってみることにしました。

オープンの札が出ていたのに、今はランチとディナーの間だから、とインド料理店にふられ、急にドッと疲れが・・・やばいよ、どこかで休まないと、命に関わるよ。只今の時刻、15時25分。真剣に店探し。

そこからすぐのところに、鰻と天ぷら、と書いた小さな店があり、ランチタイム4時まで、うなぎ丼、親子丼、天丼が850円と紙が貼ってあり、とにかく入りました。

客席でテレビドラマを見ていたおじいさんが店主&料理人で、お茶を出したり注文をとってくれた女性が奥さん?

ボーっとして思考力が落ちていて、お品書きを見ても目に入ってこないので、さっき見た、うな丼を注文しました。

お手拭で手を拭き、お茶を飲んだら、人心地つきました。

料理が出るまで、五十三次のガイド本で道を確かめました。京急川崎駅まで行って総合案内板を見るのが早そうで、そうすることにしました。

鶴見までは行けそうだけれど、神奈川までは時間的に無理みたい。昔は日本橋から神奈川まで、女性も一日で歩いたそうで、私も神奈川まで行きたかったけれど、19時から会議があるから、歩き納めのリミットは17時。鶴見駅まで着かなければ、17時半までなら何とかなる。

うな丼は、安い理由が分かりました。鰻が通常のうな丼の半分、半身というのかな。丼のご飯が露出した部分には、細長い卵焼きが乗っていました。味噌汁と漬物が美味しかった。

頭がボーっとして、850円のランチうな丼にしてしまったけど、せっかくなら1600円ぐらい出して、もう少し大きな鰻が食べたかったな。

待て待て。歩く旅であって、グルメ旅行じゃあないんだし、お茶を買ったり、タンドリーチキンサンドや白桃パフェも食べたんだし、ここはランチうな丼で少しは安く上げてバランスを取らないとな。

でも、ゆっくり休憩も出来たし、道が分からなくなって焦っていたのも落ち着いたし、よかった。

トイレが2階なのが玉に瑕。旅人の足につらい。

店を出て、京急川崎駅に向かう途中、歩道の脇に地図看板があったので見てみたら、旧東海道も載っていました。

さっき、道が不安になり、仲見世通りに曲がったのが失敗。あのまま砂子通りをまっすぐ進めばよかったことが分かり、さっきの鰻屋の前を通って次の信号まで戻りました。そこが砂子通りの反対側の入り口。本来はここに出てくるはずだったので、この先は横断歩道を渡ってそのまま真っ直ぐ行けばよい。

休んだ効果で足もよく動き、八丁畷駅前の芭蕉句碑はすぐでした。

「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

元禄7(1694)年5月に故郷伊賀上野に旅立った芭蕉が詠んだ句で、この年の10月に大阪で亡くなったので、芭蕉が関東で詠んだ最後の句なんだそうです。

さっき、遅い昼食を取って外に出たら、すっかり夕方らしくなっていました。大分涼しくなってきたし、日差しが夕方を感じさせます。

八丁畷で踏切を渡ってからは、市場一里塚を見逃さないように左側を歩いていましたが、途中で歩道がなくなり、車も時々通るので、気をつけて歩きました。デイケアの送り車が利用者の高齢者を一軒一軒送って回っているのとちょうど一緒になり、それが危なかったのですが、家の前で別れる人は、すぐに車が出るため、私の歩きと前後して一緒になってしまいます。スタッフが一緒に降りて玄関まで付いていって、鍵を本人に開けさせる世話を焼いていたとき、やっと私はデイケアの車から解放されました。

080912_163302 市場一里塚を見て、暫く行くと鶴見橋。

橋の手前左側に町内会が植えたコスモスがきれいに咲いていました。

橋を渡り、一路鶴見へ。

鶴見は川崎と神奈川の間の宿(あいのしゅく)で賑わい、名物よねまんじゅうを商う店が40軒もあったそうですが、鉄道が敷かれて東海道を歩く人がいなくなると、鶴見宿はすたれて、よねまんじゅう屋も次々潰れ、1軒もなくなってしまったそうです。

鶴見名物よねまんじゅうを復活させようと、菓子舗「清月」がよねまんじゅうを作るようになったとのことで…

「清月」を探して、よねまんじゅうを買いました。

よねまんじゅうは3色あり、緑が普通の餡、白は白餡、ピンクは白餡に食紅か何かで色をつけていて、餡もピンクでした。

周りの餅は、ぎゅうひみたいな食感で、もちもちして柔らかい。

京急鶴見で電車に乗ったら、ちょうど17時でした。

今日歩いた距離は、約23km強。実際には迷ったり、寄り道したり、工事で迂回させられたり、やや多く歩いていると思います。

それではまた、東海道でお会いしましょう。

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2008.09.16. 二日目は、快適スニーカーと、狐に化かされて?見た夜景

二日目は、快適スニーカーと、狐に化かされて?見た夜景

2008.09.16.

鶴見〜神奈川〜保土ヶ谷

昨日の天気予報では、今朝は早朝まで雨で、午前中には上がるようなことを言っていたけれど…昼になっても降ってるよ〜。

9月12日に東海道を初めて歩いた日以来、腿と脹ら脛、というより足の前側、弁慶の泣き所の筋肉痛が激しく、しゃがめない、走れない。

これは靴が悪かったんだ、と思い、スニーカーを買いました。長女と一緒に二泊三日歩くまでに、いろいろ準備しなくちゃね。

毎晩、足の痛い所に冷えピタやら休足時間などをペタペタ貼ったおかげで、筋肉痛はほぼ完治しました。

一旦雨は上がっていたのに、私が銀行に行って、用を済ませて外に出たら、かなり降っていました。

今日は先日の続きで、東海道五十三次歩きの二日目決行。

雨上がりを待っていたせいもあり、京急鶴見を出て歩き始めたのは、もう15時を過ぎていました。

鶴見駅からは暫くは商店街を歩くので、店店をキョロキョロ見ているうちに国道にぶつかり、これを渡った先が分かれている。どっちに行けばいいの?地図を持ってきてよかった。いつの間にかすっかり晴れて、左側の眩しく明るい方は橋を渡ってしまうから不正解。右側の細くて日陰の路を進みます。なんとなく旧街道の面影を感じます。

080916_151801

鶴見線国道駅のガード下を潜りますが、道の左右、ガードの下が昔のトンネルだった形をしていたので写真に撮りました。

この先、もう夕方なのでシャッター通りになっていますが、少し開いている店から想像がつきました。ここは魚河岸通りだ!

気になるお稲荷さんをパチリ。

家を出るときは傘と上着が必要だったのに、晴れて暑くなり、帽子が欲しい。濡れた折り畳み傘を広げて、乾かしがてら、日除け用にさして歩きました。傘をさすと日差しが楽。

普通の民家の壁に忽然と歴史案内板が貼られていて、「おっと!」と足を止めたら、ここで生麦事件が起きた、と書いてありました。生麦事件の碑はもっとずっと先なんだけど。

暫く歩くと、左手にキリンビールの大きな建物が見えました。今日は休館日。ちょうどよかったかも。歩き始めにビールを飲んじゃったら、すぐに今日の旅は終わってしまうところだった。

道が国道15号と合流する左手に、生麦事件の碑がありました。「碑文が磨耗しているので、お線香を炊かないで下さい」と注意書してありました。

車の多いR15(第一京浜)を歩いていたら、トイレに行きたくなりました。しかし、公園もコンビニもない。これは駅を狙うしかない、と探しながら歩いていたら、子安駅があったので行ってみると…京急子安駅は改札に入らないとトイレがない。JR子安駅へ移動しようとしたら、この近辺の歩道橋が複雑で、エレベーターに乗らざるを得なくなりました。

右往左往させられたけれど、無事にトイレにたどり着けました。

今日は足取りが軽い。スニーカーのおかげだね、やっぱり。

ガイド本によると、この辺りは国道15号をずっと歩くことになっていますが、覗いてみると国道と平行している裏道があり、あっちの方が東海道のイメージがするので、とにかく裏道に入ってみました。

ほら、東海道っぽい。と思ったのですが、暫く行くとマンションが建っていてイメージダウンなので、また国道に戻りました。

バス停名が浦島町というところがあり、近くに浦島太郎の墓があるそうです。

気付いたら良泉寺がありました。しまった、オランダ領事館跡&神奈川土居跡の神奈川東通り公園を見逃してしまった。既に神奈川宿に入っているってことだな。

国道から裏の路へと入り、芭蕉句碑のある能満寺を見付け、神明社を見付け、その先に市立神奈川小学校の壁に東海道分間延絵図があるのを見ました。

080916_16310101

一旦R15に戻り、仲木戸駅辺りから、国道15号に平行する旧東海道に入りました。

金蔵院を見つけて、そのすぐ先に神奈川地区センター。入り口左手前に実物大の復元の高札場があります。(本日の冒頭の写真)

この通りは、整備されたのが最近なのか、等間隔に植えられた松が若くてまだまだしょぼいけれど、でも東海道らしくていいなあ。

少し先の右側に成仏寺。アメリカ人宣教医師ヘボンの宿舎跡だそうです。一昨年の夏、神奈川区民ミュージカル「ヘボンクラブへようこそ」を見ましたが、ここが舞台だったんだ。

滝ノ川沿いの道にぶつかり、寄り道になるけれど、右に曲がって暫く行くと慶運寺(浦島寺)。浦島太郎が竜宮から持ち帰った品?などが保管されているそうです。寺の名を記した石碑の足元が亀になっていて、中に入ると手洗鉢も亀でした。

滝ノ川沿いに戻り、土橋を渡って右に入ると浄瀧寺。イギリス領事館跡があります。横浜開港当時、神奈川は各国の領事館として寺や神社が使われました。さっき神奈川新町の近くで見た良泉寺は、寺の屋根を剥がし、改修中であることを理由に領事館を断ったそうです。

滝ノ川沿いの道に戻り、滝ノ橋へ。この橋の付近に神奈川本陣跡や高札場跡があるそうです。遠回りになるので、確かめずに進みました。

暫くは高速の高架の下の15号線を歩き、右に宮前商店街の大きな看板を見つけて斜めに入っていきます。この商店街が旧東海道です。

商店街の真ん中に洲崎神社。夕暮れになってきたとは言え、真っ暗な神社で、一瞬中に入るのがためらわれましたが、逆にパスするには惜しい雰囲気で、鳥居をくぐって階段を上がりました。昼なお暗い杜という感じです。本殿は倉みたいで、普通の神社と違うイメージ。左手に溶岩を利用した?ようなモニュメントがあり、大きい唐獅子が2体、小さい唐獅子が1体。私は勝手に、獅子が我が子を千仭の谷に突き落とす儀式、だと解釈しましたが、果たして?

宮前商店街を抜けると京急神奈川駅があり、その脇に青木橋。線路を渡る陸橋です。

ここでまた道が分かれましたが、地図で確かめて、少し左へ行ってから右斜め前の細い道へ。

少し行くと右に大綱金刀比羅神社。(金と羅の間の字は、上が刀、下が比の1文字ですが、変換できないので、金刀比羅と書きました)以前は社前に、神奈川一里塚があったそうです。

080916_172001

ここから道が上り坂になります。広重が台の坂道を描いていて、すぐ脇まで海が来ていて(今のJR線路は海の底)、茶屋が立ち並んでいました。今はマンションばかりですが、料亭滝川と田中家が往時を偲ばせます。滝川は写真を撮ったのですが、田中家はちょうど二匹の犬を散歩させていたおばあさんがいて、なかなか移動しないので、写真を撮らないで先に進んでしまったのですが、暫く進んでから、やはり写真を撮るべきだったな、と後悔しました。夕暮れの薄暗い玄関先を灯す明かりがとてもきれいで、また来ることがあったとしても、あの瞬間のあの美しさは二度と手に入らないでしょう。でも、肉眼で見たものと写真ではイメージが違ってしまうことはよくあり、案外撮らなかったことで瞼の裏にいつまでも残っているかもしれません。

右に神奈川台関門跡の碑があり、ここで坂はなだらかになり、下に道路が通る陸橋を渡ると、下り坂になります。

この辺りは軽井沢という地名。この先に浅間神社もあるし、長野県の軽井沢と関係があるのかなあ。

車道にぶつかり、目の前は坂の土手(壁面が右上がりに高くなっていく車道)で、壁に壁画が施されていました。東海道五十三次関連かと思ったら、横浜港のイメージ図(開港当時を描いているのかな?)でした。

この車道をどうやって渡るのか、右から回るのか左へ行くのか…壁に沿って右へ行ってみました。車道の下をくぐるトンネルがあったので、入ってみました。トンネルの壁にも、絵が描いてありました。一番下の青地が海で、魚やイカやイルカがいました。真ん中緑地が陸で、車や動物がいました。一番上が空で、ヘリコプターなどが描かれていました。

しかし…

この道が失敗。道に迷いました。帰ってから調べたら、さっきは右に来たけれど、車道を左側から回って渡るのが正解だったようです。

18時ぐらいになると本も地図も見えないぐらい暗くなってきて(9月中旬でもうこんなに暗いんですね)、商店の前や自販機の明かりで地図を見ました。

宮ヶ谷小学校というところを通り(すでにこの時、正規のルートの北東に行ってしまっていました)、路地で子どもたちが「上か下か」というゴム跳びの変形の遊びをしていました。私も、この遊び、よくやったなあ。

鎌谷町という町内会掲示板があり、おかしいと思い、自動販売機の明かりで地図を見たら、かなり北に来てしまっていたので、南下しなくてはいけない。

とりあえず左へ。すごい急坂で、階段と手すりがついています。私は自分のペースで上る限り、平気でしたが、私の前を青息吐息で手すりにすがって上っているおばさんを追い越したところ…なんだか、この道、人家に入ってしまって行き止まりのような気がして(うちの方の谷戸に多いんですよね)、反対側に抜けられるかどうか、青息吐息のおばさんに聞いてみました。疲れているだろうに、にこやかに答えて下さいました。一番高いところまで行かないとあちら側には下りられないこと、てっぺんには宮田中があるとのこと。

息が辛いだろうに、ありがとうございました。私との会話が息苦しさを増長させてしまったのではなく、気が少しでも紛れてくれたならよかったのですが…。

胸付き八丁の階段からは解放され、ややきつい坂の中の住宅街を歩いていたら、中学生に「こんにちは」と挨拶されました。もう暗いけれど、「こんにちは」には「こんにちは」で返しました。宮田中では道で人に会ったら挨拶するように教えているのかな。気持ちがいいものですね。

てっぺんに着きました。横浜方面の夜景がきれいで、得した気分になった上、ランドマークタワーのおかげで方向も分かりました。

宮田中前を通り、坂を下りていき、出会った車道を右に行ったら、洪福寺松原商店街の歓迎アーチが明るく出迎えてくれて、これでもう大丈夫、とすごく嬉しくなりました。なんだかんだ、30分強遠回りして山登りしたけれど、正規のルートに戻ってきました。万歳!

松原商店街は暖かい灯りの色の町で、なんだか現実感がない祭りみたいにホワホワした気分で、もしや狐に化かされてるのでは?と思ってしまいます。

その先、天王町駅前通りは気になるお店がいろいろあって、飲んでみたい町です。

12215766454324 LAWSON 100があったので、冷えピタみたいなものを二箱買いました。

橘樹(たちばな)神社はほのかにライトアップされていました。18時18分。

ちょうど神社前で次女からの電話を受け、お腹が痛くて動けないから、と買い物を頼まれました。

自分の町に帰ってからでは面倒なので、天王町の薬のセイジョーで頼まれた物を買いましたが…すごくかさ張る。なんだかもう旅は終わった気分なんだけど、まだこれから保土ヶ谷駅まで歩くんだよ〜…

天王町駅の高架下をくぐると、目の前の小さな公園が帷子(かたびら)橋跡なんだそうです。

保土ヶ谷駅へ向かう道に、「保土ヶ谷宿場祭り」の幟が立っていました。10月に祭をやるらしい。

保土ヶ谷駅に着きました。19時ちょうどの電車に乗りました。

車内では30分近く立ってましたが、それほど疲れていないのは、歩く距離が短かったのと、やはり靴のおかげかな。今日は道を間違えなかった場合は12キロ強でしたが、実際にはかなり余計に歩いています。

今夜はごはんが美味しいぞ!

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2008.09.18. 遠回りも旅のスパイス、歩いた所が私の東海道

080918_171101 遠回りも旅のスパイス、歩いた所が私の東海道

2008.09.18

東海道五十三次 3日目  保土ヶ谷~戸塚   雨

朝、出勤したら、私は今日は休みになっていたことが分かりました。早朝はかなりの大雨だったものの、私がとんぼ返りで家路についた9時半頃は小降りになっていました。

実は昨日、ついに万歩計を買ったので、試しにズボンのウエストに付けて歩いていました。この万歩計は、身長から歩幅を計算して登録することで、歩いた距離も出てきます。時計も付いています。今日の歩数と歩いた距離を、後で書きます。

一旦家に帰り、買物をしてから、急遽、東海道五十三次ウォーキングの続きに出かけることにしました。

買物の時、リュックも買いました。昨日、東洋整体で足を施術してもらった時、左ばかり張っている、と言われました。人は誰でも歩き方に片寄りがあるそうで仕方ないかもしれないけれど、私はいつも鞄を左肩に掛けているのも関係しているかも、と思い、リュックを買うことにしました。いずれ、10月には長女と2泊3日で歩くから、その時には必要になるし。

昼食後、買った物や、今まで持っていたバッグをリュックに詰め込み、電車に乗って、一昨日の続きのために、保土ヶ谷に向かいました。

東海道五十三次歩きは今日が3日目。本日は、保土ヶ谷から戸塚まで行く予定です。

保土ヶ谷駅に着き、今朝からここまでの歩数を見たら、10,128歩。既に6.5km歩いていました。

トイレをすませ、飲み物を買って、歩き始めたのは14時半。

雨は小降りで、やんだかと思って傘を外すと案外降っていて、ずっとさしたままで歩きました。

保土ヶ谷西口商店街を歩くと、「保土ヶ谷宿場まつり」のポスターが貼ってあり、10/10と10/11の二日間。ゴザ市の出店者、その他もろもろ募集していました。

商店街の真ん中辺りに、問屋場跡と高札場跡がありました。

商店街を抜けて線路を渡って、国道1号線に突き当たり、渡った向こう側が保土ヶ谷宿本陣跡。古そうな家ではありますが、昔の物そのままでは残念ながらなく、建て替えられています。でも、昔、本陣を経営していた軽部氏の子孫が今も住んでいるそうです。

東海道の案内板が整備されていて、本陣、脇本陣の意味が書いてあったり、本陣や脇本陣は制約が多いため、経営が楽ではなかったことなどの、東海道豆知識が書いてありました。

かなり古そうな家があるな、と思ったら、脇本陣や旅籠跡の家でした。

今井川と接する辺りに一里塚があったそうですが、「区民の手で一里塚を復活させようプロジェクト」を呼び掛けるポスターが貼ってあり、川沿いの公園が整備されつつありました。

元町で国道と別れて、右側、旧道に入ります。

樹源寺の階段を上っていくと、「檀家以外の方は社務所に断ってご参拝ください」と書いてあったので、山門をくぐらずに階段を下りました。

暫く歩くと、「旧東海道→」という案内があったので助かりました。

また暫く行くと、右に曲がるよう、指示があり、そこから坂が始まりました。

これが有名な権太坂。日本橋から歩き始めて、最初の難所だそうです。今は道が整備されて、かつてより楽にはなったそうですが、上り坂が延々と続くので、やはり大変です。

この辺りは学校が多く、まず右に県立光陵高校、すぐ先、左下に権太坂小学校。またもう少し先に行くと、境木小学校と境木中学校もあります。

権太坂小学校のすぐ近くに、東海道の案内板があり、権太坂という名前の由来について書いてあり、面白そうなので読もうとしていたら、下校の小学生たちがやって来ました。案内板をじっくり眺めると歩道を塞いでしまうので、案内板を見るのは諦めました。

後で調べたら、説が二つあり、ひとつは、坂の工事の責任者が権左衛門だったから。もう一つの説の方が、断然面白い。その話とは…

旅の侍(大名だったという説もある)が「この坂の名前は何と言うのか」と聞いたところ、耳が遠い老人が、自分の名前を聞かれたと思い、権太、と答えた、という話。

右手に眺望が開けました。晴れていれば、富士山が見えるそうです。

トイレに行きたくて困っていたら、コンビニがありました。トイレを使わせてもらい、リポビタンDを買って飲みました。

一旦なだらかになったので、坂は終わったのかと思った辺りに、境木小学校と、境木中学校がありました。

今まで歩いてきた道は静かな道でしたが、バスの通る道にT字にぶつかった辺り、急に賑やかになります。そのぶつかった正面辺りが境木小学校でした。「旧東海道→」の案内がなかったら、どう進んだらいいか、分かりづらい場所でした。

この賑やかな道に出たら、右に曲がります。渡る時、信号がない横断歩道で、車が全然止まってくれなくて困りました。

右に曲がってから少し進んだ右側に、堅牢な旧家の屋敷門が現れ、一気に東海道五十三次旅気分が盛り上がりました。今日の冒頭(2枚目)に載せた写真がその屋敷門です。

080918_153701_2 右の写真も、同じ建物です。

そのすぐ先が、境木地蔵。由来を読んでみると、鎌倉の海で拾われたお地蔵様が村人の夢枕に立ち、「江戸に連れて行ってほしい。願いを聞いてくれたら、村を守ってあげよう」と。村人達が大勢で一生懸命坂を上ってお地蔵様をここまで運んできたところ、どういうわけか、にっちもさっちもお地蔵様が動かなくなった。話を聞いたここの村の人達が、お地蔵様を引き取り、安置したところ、村は栄えた、という話。

境木地蔵があるところが一番高い所で、昔はここが、武蔵と相模の境だったところから、境木という地名が付いたそうです。

今の東京都が武蔵の国で、神奈川県が相模の国、と思いがちだけれど、神奈川県の中でも、川崎と横浜の一部は、武蔵の国だったんですね。

お地蔵様の境内はなかなか立派で、手水鉢に水を送っているのは、かわいいお地蔵様でした。よく見ると、お地蔵様が風呂桶に浸かっている形でした。

昔はこの境内で牡丹餅を売っていて、難所の坂道を上ってきた旅人の憩いの場として賑わったそうです。

この先、またどう進んで行ったらいいのか分かりづらく、ここでも、「東海道→」という案内に助けられました。

坂を降り始めてすぐの右側に、「焼き餅坂」の案内が出ていました。ここで焼き餅を売っていたので、この名前が付いたそうです。

もう暫く坂を降りていくと、品濃一里塚公園がありました。

その先、暫くは何の案内もなくなり、右の方から車の往来の激しい音が聞こえてきて、この車道をどこかで渡るはずなので、右の方に曲がらなくていいのかと不安になりますが、とりあえず、まっすぐ進みました。

田舎道で、萩の花、カンナ、彼岸花が咲いていました。彼岸花は、燃えるようにひと群れ、という咲き方ではないのが残念。今年はまだ、燃えるような彼岸花を見ていない。

やがて品濃坂。緩やかに下っていたのが、一気に急傾斜になり、車の滑り止めの丸い窪みを付けた坂(我が家ではタコタコ坂と呼ぶ)で、私の足がスリップ!おっと、と立ち止まり、辺りを見回したら、危ない危ない、足を滑らせなければ、そのまま勢いで車道を進んでしまうところでした。よく見ると、歩行者はこちらの階段を下りてください、と指し示す案内の「東海道↑」がありました。

その案内板は、今までのものとは違っていました。昔の町人風の親子の絵が描いてあり、神奈川ルネサンス協会というところが案内板を出していました。

急階段を下りて歩道橋で車道を渡り、また案内に従って、左側の階段を下り、すぐに右に曲がりました。

旧東海道、の矢印に助けられることが多かったのに、一箇所、この矢印でかえって分からなくなってしまった場所がありました。

川沿いの桜並木のバス道を行くのが多分正解だったと思うのですが、矢印は一本裏側の住宅街の道を行くように指し示しているよう思えて。

戸惑いながらも、なんとか国道1号線にぶつかり、右折して、暫くは国道1号線の歩道を歩きます。

何箇所か、どうも旧道は左の細い道を入るんじゃあないか、と思いつつも自信がなくて、そのまま国道の歩道を進んでいったのですが、後から、やはりあっちだった、と出口で反対側からの(京都から日本橋へ向かう人のための)案内が出ているのを見つけたりすると、がっかりしてしまいます。特に一箇所、車道の立体合流箇所、旧道を歩いていれば回避できたのですが、国道を歩いていた私は、何回も信号を渡ったり、遠回りになってしまったり、大変な思いをしました。

ポーラ前にコンビニがあったので、トイレを借り、ソイジョイブルーベリーを買ったのですが、固くてパサパサして…  歩く旅の途中では、柔らかめでしっとり感のある物がよいみたい。パサパサなものはダメ。教訓になりました。

暫く行くと、土地の真ん中に、ポツリと蔵が一つだけ建っている不思議な空間があり、とても気になりました。

その先、柏尾三叉路の手前に大きな石垣があり、木がこんもり茂っていました。凄い屋敷だな、と思ったら、ガイド本にも出て来ていた益田家で、モチの巨木が圧巻でした。

080918_171101

その先、国道1号線が、小田原方面へと進む道と、戸塚駅へと向かう道に分かれ、戸塚駅へと向かう道の左側に旧道がありました。旧道の入り口に、奉祝の桜と、奉祝の松がありました。

左側に、「史蹟への小路」と書いた石碑がありました。入ってみたけれど、どこがその史蹟か分からないまま戻ってきたら、さっきの石碑の裏側に、護良親王首洗いの井戸と書いてありました。

その先、右側に、斉藤家土蔵があり、塗りが剥げた風格は、東海道一ではないか、と思いました。左の写真が斉藤家土蔵です。

土蔵の手前には、赤レンガの蔵もありました。斉藤家の隣に斉藤肉店があり、そのまた隣が、ミートショップ斉藤という食料品店でした。

080918_17100101

ガイド本によると、この先で国道に合流、とあったので、自然に国道と合流すると思い、まっすぐ進んでしまったのですが、正しい道は、川に出たら、川沿いに右に曲がって数10メートル進むと国道にぶつかり、そこで国道を左に曲がって進む、のです。

でも私は、自然合流するまで進み続けるつもりで、橋を渡りました。

橋から川を眺めたら、水の中の草が育って髭ぼうぼう、といった凄い風景でした。

橋を渡りきると、その先工事の影響か、舗装が途切れて2メートルほど砂利道が続き、すぐにまた舗装道に戻りました。

公園があったり、のどかの夕暮れの風景を楽しみました。

気になったのは、やたらと高床の家が続くこと。そこで気付くべきでした。

山の斜面に家を建てたから、住宅部分が2、3階で、1階は車庫になっている家ばかり。新しく造成された土地だから、そういう造り方になっている。旧東海道ではない、と早く気付かなくちゃね。

122183449226156 水田に出たとき、これはおかしい、と地図を見ました。戸塚駅の近くで稲田を見られたのは、すごい収穫でしたが、駅に出なければならない。引き返すのが一番安全ですが、この住宅地の山を越えれば戸塚駅方面に出ることは分かっているので、地図で当たりをつけて、住宅地を上って戸塚駅を目指しました。

しかし、どうして毎回道を間違えるのかなあ。東海道を歩いた先人達は、間違えずに歩いたのだろうか。

でも、道を間違えたから、一昨日は夜景も見られたし、今日は黄色く色づき始めた稲田を見ることが出来ました。

発想を変えよう。間違えたのではなく、旅のオプション、旅のスパイスと考えればいいんじゃあない?その方が楽しいもの。ハプニングこそ、旅の醍醐味。ガイドブック通りに歩くことはないんだから。

私が歩いたところが道になる。私が歩いたところが、☆紗的東海道ルート、ドキドキお楽しみ付き、ということにしよう。

造成住宅地の階段を上り、てっぺんからは、坂を下りました。車道のカーブを縫うようにして、歩行者用の階段が付いていました。

吉田橋を渡りましたが、橋の途中に五十三次の絵が描いてありましたが、もう薄暗くて残念ながらよく見えない。次回の旅は戸塚からだから、その時じっくり見ようっと。

駅に曲がる角に銭湯があり、古い銭湯でしたが、温かい雰囲気を感じました。風呂、入りたい!でも、今帰らないと、夜はジャズダンスレッスン。東海道の一日旅の最後に、銭湯に入れたら、幸せだなあ。今日は無理だけど、今度、是非。

戸塚駅に着き、電車に乗ったのが、17時57分。

今日の万歩計計測は、朝から今までが27,424歩。そこから、今日の旅の最初の時点まで(朝から保土ヶ谷駅まで)の10,128歩を引くと…

本日、東海道で歩いた歩数は17,296歩。距離は9.9km

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2008.09.29. 東海道は今日も雨だった〜教訓;雨の日のマンホールの蓋は滑ります

東海道は今日も雨だった〜教訓;雨の日のマンホールの蓋は滑ります
10月29日(月)  東海道五十三次四日目 戸塚~藤沢~平塚 一日中雨

今週は月、火、水と休みなので、東海道五十三次ウォーキングの続きに出掛けることにしました。

子どもたちに、「どこまで行くの?」と聞かれ、「雨だから、その時次第。足まかせ。でも、少なくとも藤沢までは行くよ」

「じゃあ、TOTOを見てきて」
「それ、どこ?」
「茅ヶ崎」
「茅ヶ崎まで行くかどうか分からないし、もう真っ暗で見えないかもしれない。」

支度しながら、そうだ、と思い付き、「そこまでたどり着くかどうか分からないけど、もし、平塚まで行けたら、太古の湯に泊まってくる」と言うと、「がんばれぇ。太古の湯に入ってきて」と言われました。

戸塚駅に降り立ち、どこかにスポーツ用品店がないか探してみました。先日、母と上高地に行った時、熊笹の中で万歩計をなくしたので。

でも、駅の回りでは買えませんでした。駅からちょっと離れたところに西友があり、店内にスポーツ用品店がある、と地図にはあったので、そこで買おうと思っていました。

ところが、西友がない。建物ごと、がっつりない!更地になっている…(今年3月に閉店したそうです)

ところで、雨なのでなんだかぐずぐずしていて、家を出たのは11時半頃。昼食は駅ビル内のファーストキッチンで、大人のカレー味のドッグとサラダとコーヒーのセット。

雨の中、歩き始めたのは12時37分でした。戸塚駅周辺は、開発途上で工事だらけで分かりづらくなっていましたが、とにかく北大踏切を確認して東海道に歩を進めました。

西友跡地に何が出来るのか思い巡らしながら、そのすぐ先の郵便局に寄りました。

長女と東海道箱根越えをするにあたり、10月6日にペンション芦ノ湖グリーンハウスに泊まるのですが、先週水曜に電話予約し、一週間以内に内金を現金書留で送ること、連絡なしに入金がない場合は予約取り消しとなってしまうとのことで、諸々用事があったため、郵便局になかなか行けず、今日は絶対お金を送らないといけないので、戸塚の郵便局に寄りました。

戸塚の郵便局は、入るといきなりエスカレーターで2階へ行くしくみになっていて、びっくり。結構な雨で傘はビトビトだから傘袋を利用しますが、最近は入れて引けば袋に入れられる道具を設置する店が増えたので助かります。

さて、リュックの腰ベルトも締めて、本格的に歩きますか。

沢辺本陣跡、八坂神社の写真を撮り、戸塚の名の起源となったという富塚八幡宮に立ち寄りました。この辺りの地主が富塚(とみづか)氏で、この辺りを富塚郷と呼んでいたようです。神輿がガラス戸の社殿に入っていました。芭蕉句碑は神輿の反対側にありました。

道は上り坂。大坂、または戸塚の坂と呼ばれた急な上りです。

今日は、長距離歩くのに楽、という五本指の外反拇趾予防サポーターを履いた上に普通のソックスを履き、靴はスニーカー。外反拇趾サポーターは五本指ソックスの指先と踵を切り落として前3分の1しかない、みたいな小さな薄いものですが、指股を広げて、歩けば歩くほど、現代人に失われた横アーチが形成されて、歩きやすくなるそうです。

この組み合わせのお陰か、とても歩きやすく、歩幅も広く速く歩ける気がします。

坂を上りきると、国道1号バイパスと合流。

国道は上り車線と下り車線が平行してはいますが分離していて、並木の生え方から、下り車線(旧東海道的には上り。歩行者は左側歩道)が旧東海道のようです。雨なので歩く人もいないかと思っていたら、バス停ごとに年輩の方たちがバスを待っていて、みんな傘をさしているから、私が横切る時、傘がぶつからないように気を遣いながら、でも、歩調を緩めると巻き返しが大変なので、出来るだけ一定の歩調で歩きました。

「お軽勘平戸塚山中道行きの場」の碑はバス停横にありました。歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」、昔見たなあ。

暗い山道、「お軽」「勘平さん」互いに見交わす顔と顔。テンテンツクツクと舞踊の一場。

原宿一里塚を見て、以前は横浜ドリームランドに行くのに通った原宿交差点(渋滞で有名)を横切り、道祖神や馬頭観音を見て歩きました。

右側に聖母の園という建物があって、気になったのですが…

カトリックの修道院があって、戦災で身よりをなくした老女たちの養老院でしたが、1955年2月に火災で全焼、足腰の立たない60歳以上の老女ばかりだったため、たくさんの犠牲者を出した事件だったそうです。

今は、修道院、医院、高齢者施設、保育園があり、矢口真里はここの卒園生だったそうです。国道から見えたカラシ色の建物がどの施設だったのかはわかりません。

今日は足ごしらえがよいせいか、かなりビンビン歩けました。

学生時代は歩いて旅をするサークルに入っていて、山も登ったし、平地合宿では、テントや炊事道具を背負って平地もガンガン歩き、民家の庭にテントを張らせてもらったりしていました。

当時は1km10分ペースで歩いていましたが、荷物も重かったし、50分なり60分なりの1本を同じペースを維持して歩いたのですから、かなりの体力が必要で、普段からトレーニングをして、旅のクラブというよりは、体育会系の乗りでした。

今はもう、あのペースは無理ですが、今日はかなり頑張りました。

そろそろトイレに行きたい、と思っていたら、マクドナルドがあったので、100円のシェイクで休憩。

これが14時半頃。

080929_142902001001 この秋は、全然彼岸花を見掛けないと思っていましたが、今日は結構見掛けました。白い彼岸花も。

道はバイパスから左に外れて道場坂を下ります。

工事をしていて歩行者用通路が指定されているところを、工事の人にお辞儀されながら通り抜けると、一里塚跡の看板が出ていました。

そろそろ右手に小栗判官の墓があるはず、と見ながら行くと、歩道脇の土手が何ヵ所か切れていて、奥に墓地が見えるのですが、どこに小栗判官の墓があるのやら。

大分坂を下ったところに遊行寺入り口があったので、寄っていくことにしました。

入ると右手に「小栗判官墓所↑」とあったので、矢印に従って墓地内の坂を上っていくとかなり上りました。さっき、坂を下ってきた、あの土手の内側がこの墓地で、土手を隔ててせっかく下ってきたところを上り返しているわけです。

今度来ることがあったら、一里塚を過ぎたら土手の切れ目から墓地に入ると、小栗判官墓所は近い、と思いました。

墓地の坂の突き当たりが小栗堂。中庭に、小栗判官の墓、照手姫の墓、愛馬鬼鹿毛の墓、小栗判官目洗いの池などがありました。

遊行寺境内には、踊り念仏の一遍上人の像、大銀杏などがありました。

緩く長い階段(坂道に段をつけた感じ)をおりて正門から出て、遊行寺橋を渡ると、見覚えある場所に出ました。

父が年末に亡くなり、母は4月にこちらに越してきましたが、それまで実家があった山梨に行くにはいつも藤沢橋を通って厚木〜愛川〜相模湖と一般道を使って行っていたので、何度も通った道。藤沢橋は遊行寺橋のすぐ隣で、覗くと遊行寺橋から見えました。

ここから暫くは、私が何度も運転して通った道を暫くは歩きます。この道が東海道だったなんて、知らなかった。

122269469529234 街道らしい家もいくつか見られました。

義経首洗いの井戸を見て…平泉衣川で殺された義経の首は持ち帰られ、この井戸で洗ってから、腰越で首検分された後、七里が浜に捨てられたとか…(;_;)

その先、橋を渡るので下を覗くと小田急江ノ島線の線路を渡る陸橋で、藤沢本町の駅が見えました。

旧東海道は右手にそれて静かな道を歩き、また国道に戻って引地橋を渡り、暫く行くと坂を上り始め、右に見覚えあるメルシャンの工場。ワインの匂いがしました。

もう暫く行くと、厚木への道は右手にそれて、私がよく通っていた道とはお別れです。

暫く歩くと、国道1号線と合流。

すぐ先の右側に大山道道標と大鳥居がありました。この辺りでは、下校の中学生をよく見掛けました。

080929_162401 松並木の歩道は、旧東海道を旅する者には嬉しいけれど、自転車の中学生には通りづらい道でした。

下校の中学生の一団から離れようと思い、道路の左側に渡り、松林を見ながらひたすら歩きます。

雨の日は暑くないので、歩きやすいです。ただし、マンホールの蓋は滑るので要注意。傘が重くなってくるので右手に持ち変えたり左手に持ち変えたり。ズボンの裾も濡れますが、今日ぐらいの大雨だと、お尻も、中の下着まで濡れちゃいます。

子どもたちが話していたTOTOが見えてきました。松林中学前のバス停がありました。ちょうど17時のチャイム「赤とんぼ」が流れました。子どもたちに、「今、この辺にいます」とTOTOの写真を添付して送りました。

だんだん薄暗くなってきました。日が暮れるのが早くなって来ましたね。

080929_170201 17時20分頃SATYとワーナーマイカルの建物が右手に見えたので、道を渡ってSATYに入りました。

トイレへ行って、ジャージーと靴下を買い、万歩計も買いました。

ミスドで汁そばセットで休憩。

18時半頃出発。平塚までのあと1〜2本で今さら万歩計をつけてもなあ、と思ったけれど、せっかくだからつけました。

もう暗くなったので、私はビシバシ飛ばしました。

しかし、自転車も多く、傘をさしている自転車も多く、危ない危ない。

鳥井戸橋の南湖左富士の碑、旧相模川橋脚を見て、馬入橋相模川の看板を見たのが19時03分。

馬入橋は雨と風でめげそうになる気持ちをささえてくれたのは、次第に近づいてくる平塚のビルの灯り。そして、向こう岸の右手にテーマパークみたいなきれいな灯りの場所があり、レストラン?と気になりながら歩いていたのが力付けてくれました。橋のたもとにホテルがあり、ホテルの裏手のチャペルとの間の空間に灯りの広場があったので、ホテルのチャペルのガーデンパーティ用の庭でしょうか。夢の国みたいでした。

平塚駅前に着き、トイレに行きたかったので、紅谷町のモスに入り、ストロベリーシェイクを頼みました。

まだ19時半。速かった。5.8kmを1時間で歩いてしまった。

そこからさらに、平塚駅北西口近くの太古の湯まで歩きました。

茅ヶ崎のSATYからは9,672歩。6.2km。

風呂に入って、21時半の、ロウリュウという、サウナ内で熱風を送ってもらう癒しの時間を体験し、さあ、ビールだ、晩御飯だ!

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2008.09.30. 五十三次五日目前半 隠された能力

東海道五十三次5日目 隠された能力

2008.09.30.  東海道五十三次 五日目 平塚~大磯~小田原~箱根湯本

降ったりやんだり、ほぼ一日中雨

太古の湯で朝食を食べたのが、8:15、。

お菊塚を探しに行ったのですが、15分ぐらい探したけれど見つかりませんでした。怪談「番町皿屋敷」の、あのお菊さんは、平塚出身だったんですね。

気を取り直して、再び太古の湯から旧東海道に向かいました。

平塚宿江戸方見附跡を見て、平塚小學校蹟の大樟を見て(手塚治虫の「アリと巨人」を思い出しました)、高札場跡、本陣跡(神奈川銀行)、平塚宿西組問屋場跡を見て、ちょっと道を外れますが、平塚の塚を見に行きました。

平塚の塚は、平塚という地名の起源になった塚です。昔、桓武天皇三代孫、高望王の娘、政子が東国へ向かう旅をした折、天安元年(857年)、この地でなくなり、墓を築いたところ、、上が平らな塚になったところから、「たいらづか」と呼んだのだそうです。

旧東海道に戻りために歩いていたら、風船みたいな実をつけた植物に遭遇。フウセンカズラより実が大きくて、トゲトゲがあります。

080930_090201 後で調べたら、風船とうわた(唐綿)という植物で、あのトゲトゲは痛くないそうです。晩秋になると、パカッと実が割れて、中からワタとタネが出てくるそうです。風船唐綿の実の花言葉は「隠された能力」なんだそうです。寄り道して出あった風船唐綿の実の花言葉が「隠された能力」って、なんだか象徴的な気がして、ニヤニヤしながら歩いちゃいました。

暫くは旧東海道の静かな道。気持ちよく歩けます。

このときは曇っていました。一日中降ったりやんだり。ほとんどずっと傘をさしていました。やんだかな、と傘を外すと案外顔に当たり、短い距離なら傘などささない程度でも、長時間歩くと、お尻などが結構濡れてしまうから、傘をさしておかないと、後が大変になります。

国道と合流した先に、平塚宿京方見附の碑がありました。

花水橋を渡ると、右折すれば湘南平、の標識。高麗山の頂上付近を湘南平と呼びます。

湘南平は夜景の名所。春には桜もきれいで、アスレチックもあるので、車で何回か来たことがあります。高麗山は、平塚からこんもり見える山で、広重の平塚宿の絵にも描かれています。

もうこの辺りは大磯町。右側に高来(たかく)神社がありました。境内にあった、力石と、風化しかけて読みづらくなっている石碑が印象的でした。石碑には「大磯八景其一 高来寺の晩鐘 云々」とありました。

化粧坂(けわいざか)の分岐点で、旧道は右に入ります。ここで、あの人も東海道を歩いている人ではないか、と思う女性とすれ違いましたが、声を掛けられませんでした。高麗山辺りのハイキングだけかもしれないし。でも、普通に気軽に、「こんにちは」と言えばよかったんだよね…

少し先、左側に、化粧井戸がありました。大磯出身の女性で有名な虎御前(とらごぜ)は、遊女だけれど、歌を詠む風流な女性だったそうで、虎御前はこの井戸で化粧をしたのではないか、と言われているそうです。

この旧道は、松の木の様が昔ながらの街道の面影を残していて、素敵な道です。

問屋場跡、江戸方見附など、手作り風の絵が描いてあるカラフルな説明版(高札型)があちこちにあって、探しながら歩くのも楽しみです。

その中のひとつ、小高い土手に絵札が立っていて、その横に高来神社にあったような、風化しかけた石碑。ちょうど石碑の回りに赤い彼岸花が咲いていてきれいでした。石碑には、「大磯八景其一 化粧坂の夜雨」とありました。

080930_094701 うちの地元でも、○○八景があり、同じように○○寺の晩鐘、○○の夜雨とあるけれど、○○八景は同じ言葉のマニュアルがあるのかな?

後で調べたら、八景物という、中国の北宋時代の画題から発したもので、元々は瀟湘八景という画題に倣った浮世絵だそうです。瀟湘八景は、中国湖南省洞庭湖の南、瀟水、湘水、二つの川が流れ出る辺りの風景を、四季、四時に応じた美しい画題で表わしたもの。だから大磯八景も同じ言葉が使われているというわけです。

京急に金沢八景という駅がありますが、まさにこの八景。広重の金沢八景の絵もあるそうです。

落雁、帰帆、晴嵐、秋月、夜雨、暮雪、晩鐘、夕照…の八景です。

左に線路が見えると、線路際にまっすぐ行く道と、右側に真っ直ぐ坂を下りていく道に分かれ、一瞬戸惑いましたが、地図を見たら、線路を潜らねばならないことが分かり、右側の下りへと進みました。

地下道は「落書き禁止」で、見事なまでに何も描いていない…ここまで何もないと、殺風景だなあ…

線路を潜ってからも、旧街道を偲ばせる静かな道を暫くは進み、やがて左側に国道が見えてきて合流します。

暫く行くと右に大磯駅入り口の道がありますが、駅までは少し距離がありそうなので、トイレはその角にあったコンビニで借りて、オロナミンCを買って飲みました。

少し進むと右に小島本陣跡。

もう暫く右側を進んでいると、説明看板が立っているお地蔵様がありました。やがて左に分かれ道が見えてきて、その分岐の股に何やら立っているのが見えたので、左側に渡ってみました。立っていた道標は、左が海水浴場発祥の地の照ヶ崎海岸、右が鴫立庵、という案内でした。

国道と別れて左側のカーブした旧道を進むと、すぐにまた国道と合流。そのまま左側を歩いていると、やがて「湘南発祥の地」の看板。

そこが鴫立庵でした。

080930_103101 実は隣町に以前、鴫立庵という名のケーキ屋さんがあったので、私は鴫立庵はケーキ店だと今の今まで思っていたのです。冗談ではなく本当に。伊藤博文所縁のそう滄浪閣が中華料理店になっているのだから、昔からある鴫立庵も今はケーキ屋さんになっているんだろうと思っていました。

入り口に鴫立庵の由来が書かれていて…

西行法師を慕う小田原の崇雪という俳人が、西行法師の歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の鴫立沢に草庵を結び、旅人に清い水をふるまっていた、というようなこたが書いてありました。

入り口に入場料が大人100円、子ども50円と書いてあったので、「えっ」と思いました。100円の入場料を取るということは、ケーキ屋さんではなさそうだ。どちらかというと、茶室があって、和菓子とお抹茶でいくら、と別料金設定があるのでは…という雰囲気。

しかし、全くの見学のみでした。靴を脱いで休みたかったのですが、庭からの見学のみでした。

鴫立庵は、崇雪が庵を結んで以来、代々俳諧道場だったようで、たくさんの句碑がありました。崇雪が西行の筆跡を真似たという「鴫立沢」の碑を見ましたが、その碑の裏に「著蓋湘南清絶地」とあることから、湘南という呼び名が生まれたと言われているそうです。

虎御前の歌碑もありました。小さな茶室もありましたが、中は見られませんでした。茶室の脇に石のつくばいがあり、「蹲踞(つくばい)」と書いてありました。

鴫立庵にはかなり長居してしまいました。俳句でも一句ひねりたいところでしたが、長居したわりには先を急ぎたい気持ちが起こって、俳句は浮かんできませんでした。

その先、伊藤博文の屋敷だった滄浪閣は中華レストランを…やっていませんでした。プリンスホテルが契約切れで昨年撤退。大磯町が買い上げを申し入れていましたが、予算が合わず、大磯町が断念。大磯町としては、ここを買い取る事業主に、歴史的建造物として残してもらえるよう、お願いしたい、とのことでした。

080930_105603 暫く国道1号線を歩いていると、右の方に旧道への分かれ道があります。

大磯城山公園の前を通るのですが、そのまま大磯城山公園を巻いて山側には入りません。普通に歩いていると、山側に進みたくなるのですが、途中でまた分岐があり、左の方、六所神社の方に進むのが正解。

私は東海道を歩こう系の本を数冊買いましたが、こういう細かいことを書いてくれている本はないので、誰か東海道を歩いた人のブログが参考になる、と既に東海道を京都まで制覇した長男が言っていました。私も迷った話や分岐で考えた話を書くことによって、誰かの役にたてば、と思います。

道祖神などを眺めて進み、暫くするとまた国道に合流します。

暫く行くと、右に大きな鳥居があり、「相模の国最古の神社 六所神社」とあるので、見に行って見ました。六所神社は線路を潜って行った向こう側にあるのですが、その線路を潜る道が狭くて、車が何台か通るのを待ってから潜りました。参道の太い幹に幣が巡らされている大木が気になりました。

080930_114202 また国道に戻り、左側に見えたえび家という店に昼食のために入りました。大磯と二宮のちょうど町境にある店です。私は日替わり大衆弁当にしました。

この後、午後の部へ続く。

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2008.09.30.-2 五十三次五日目 午後の部 雨の夜道をガンガン歩く

080930_195301_2 東海道五十三次歩き五日目  午後の部  雨の夜道をガンガン歩く

2008.09.30.  東海道五十三次 五日目午後の部 二宮~小田原~箱根湯本

食後、少し行くと右に塩梅の名残と書いた看板。何だろう?塩梅橋という橋があるから、昔の橋の一部が残っているってことかな。

二宮駅を過ぎた先に吾妻神社の鳥居が見えました。走り水で嵐を沈めるために入水した弟橘媛にまつわる神社だそうです。吾妻山にはアスレチックがあり、子どもたちが小さい頃には何回か行ったことがあります。今頃はコスモスがきれいに咲いていて、天気がよければ富士山や相模湾がきれいなのですが、今日はダメですね。

その先、右に旧道が逸れて、旧道では道祖神や大きな藤の木がある藤巻寺を見ました。

一旦国道に合流して、またしばらくすると左に押切坂があり、下って行くと、入り口の階段の両サイドの壁にサザエをたくさん埋め込んである家がありました。

080930_132201_2 栄螺に銀色に光る塗料でも塗ってあるのかと思ったら、サザエ本来の輝きでした。一種の螺鈿ですね。

その先に一里塚跡。

押切坂はかなりの急坂。下に見える国道に落ちていく感覚です。

国道と合流して押切橋を渡り、暫く行くと、左の西湘バイパスと平行したり、また離れたり。天気がよければ、西湘バイパスの向こうに広がる海がきれいだろうに。

この辺り、一旦小田原市に入り、「やった!」と思うと、また二宮町に入り、再び小田原市に入るという、市町境が複雑な場所でした。

休憩をどこかで、と思っていたら、酒匂川の手前のマックの広告看板が出ていたので、そこまであと何キロ、と楽しみに歩きました。

国府津駅を過ぎ、左側に勧堂の碑。親鸞の旧跡らしい。

酒匂川手前で予定通りマックで休憩。100円シェイクのチョコレート。ここまでで万歩計は1万歩を越えていました。万歩計はクリップ式なので、ズボンのウェストに挟んでいるのですが、それだとトイレの度に外さねばならないので、ウェストポーチのベルトに挟むことにしました。

ところが…この変更が不都合を生んでしまいます。それについてはまた後で書きます。

今日は携帯写真をたくさん撮ったため、空き容量がなくなったので、mixiのフォトアルバムに送る作業をしては、どんどん消していったのですが、酒匂川手前のマックは電波が悪い?電波マーク3本立っているのに時間がかかる。

どうせだから、平塚編と大磯編は全部送ってしまおう、と作業していたら、1時間もマックにいました。

でも、この大休憩のおかげで、この後すこぶる元気で、おかげで今日は箱根湯本まで行っちゃったので、正解でした。昼のえび家では混んできたので食べ終わってすぐ席をたったので、疲れがとれなかったので。

080930_161201_2

酒匂川は大きな川です。相模川や多摩川ほどではないけれど。河川敷の緑がきれいでした。昔は橋はなく、渡し場があったのですが、河川敷の形を見ていると、なんとか渡れそうな場所がありました。

新宿交差点で国道と別れて左へ曲がり、またその先で右に曲がります。

蒲鉾屋が何軒かある、旧街道らしい道。町名を書いた石碑(?)がところどころにあり、万町は「よろっちょう」と読むらしい。

青物町交差点から先が当時の宿の中心地だったそうです。

昔は関東髄一の大きな町だったという小田原。さすがに本陣もたくさんあったようですが、どこがその本陣跡なのか分からないままどんどん通りすぎました。

昨日は夕刻に歩道を自転車がたくさん走っていて危なかったのですが、今日はほとんど会いませんでした。

道の右側にういろう屋がありましたが、小田原城を真似た派手な外観でびっくり。

板橋の入り口で、旧道は右に分かれます。トイレが設置されていて、この先山道にはいるからと思い、用を済ませておきました。

旧道は昔の雰囲気を残し、車も少なく、昼間ならいい雰囲気でしょうが、暗くなってきたのでガンガン歩きました。

学校帰りの高校生らしい女の子を追い越した辺りが板橋地蔵。

国道と合流すると、右側に箱根登山鉄道の線路を見ながら行きます。

歩道が工事ではがされた上に緑のシートが張ってあるのですが、歩きにくい上に水がたまっていて、このままでは靴がグショグジョになって靴下まで染み込んでくると嫌なので、左側に渡りました。

しかし、そのせいで旧道に入らず、ずっと国道沿いを行くことになりますが、もう真っ暗なので、裏道より国道で正解かも。

かまぼこ博物館を右に見て、生命の星地球博物館を左に見て。

左を歩いていたら、その先歩道がないので右に渡って暫く行くと、今度は「この先歩道がないので、箱根湯本方面へ歩かれる方は歩道橋で反対側に渡ってお歩きください」とのことで、渡って暫く歩くとまた歩道がなくなって。

実は旧道を歩いていればこんな目に会わなかったのかな。

山崎あたりでとうとう歩道がなくなり、暫くうろうろした挙げ句、右側に渡ってENEOSのおじさんに「歩いて箱根湯本に行くにはどう行ったらいいですか?」と尋ねたら、ガソリンスタンドのすぐ裏が旧道で、そこを行くように教えてくれました。

真っ暗で怖かったけれど、仕事帰りのスーツ姿のおじさんが、えっちらおっちら坂を自転車で上っているのが視界に入っていたので、助かりました。

道は国道と合流し、三枚橋で左側に渡り、「ようこそ箱根町へ」の看板に着いたのが18時46分。

080930_195301_3 箱根湯本駅は工事中でトイレを探したり、どこからどう行ったらいいのか分かりづらかったけれど、かっぱ天国への道を見付け、急な坂と、もっと急な階段を上って、日帰り温泉かっぱ天国にたどり着きました。女風呂は私の貸し切り状態で、泳いじゃいました。

楽しみに万歩計を見たら…増えていない!

マニュアル通りにズボンのウエストに付けずにウエストポーチのベルトに付けたら…そういえば、いつもはカチカチ言うのに、カチカチ言ってなかった。

かっぱ天国を19時40分頃に出て、おなかはすいていたけれど、箱根湯本はシャッター街だったので、電車に乗って、今日歩いた道を逆にたどりながら(こんなにいっぱい歩いたんだ!と感激)家に着いたのは21時半頃でした。楽しかった!

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2008.10.06. 金木犀の香りに包まれて〜長女との二人旅Ⅰ

2008.10.06. 一日中雨

東海道五十三次 六日目 三枚橋(箱根湯本)~畑宿~箱根関所

雨の旅立ち

長女と三日間、東海道五十三次を歩きます。今日は箱根湯本から箱根関所プラスアルファ、合計21.9km歩きました。

朝、6時に出るつもりでいたら、何だかんだと時間がかかり(雨音がしていたので、少し遅く出たら止むかな、なんてちょっとは期待したけれど、だめでした)、さらに、さあ出よう、としたら、長女の荷物がトートバックで、おいおい、それじゃ箱根越えは出来ないよ、と驚いたら、高校生の時に使っていたリュックはもう壊れている、と…結局土壇場でお父さんのリュックを借りて、荷物を詰め直して…

6:39発の電車で出掛けました。6時台でも電車、混んでますね。藤沢で座れました。電車の中で、今日のコース研究。

小田原駅前(2階)には、二宮金次郎像、越中おわらの衣装を着た小便小僧がいました。

越中八尾のおわら風の盆を小田原に招いて、小田原城址に胡弓の音が響くのだそうです。今年は10月11日(土)18時30分スタート。

朝食を食べられる店を探しに雨の小田原の町に出て行きましたが、まだ開いていない店が多く、結局ドトールに入りました。

箱根登山鉄道に乗ったら、キャラバンシューズにリュックの女性が5~6人乗っていたので、雨でも箱根を歩く人は他にもいるんだな、となんだかホッとしました。

金木犀が香る街

9時過ぎに箱根湯本を出発。

先日、暗い中、箱根湯本にたどり着いたときにも感じたのですが、箱根湯本は金木犀の香りがほのかに漂っていました。

私は今日は「歩くたすけ」という靴下を履いています。地下足袋とテーピングの良さを併せ持った優れもので、なるほど、確かに歩きやすい。

快調に歩いていたら、長女に速すぎる、と怒られました。確かに今日は上り中心だから、最初は抑え目にしておかないと、上り坂でバテることになりかねないから、ゆっくり歩かないとね。

三枚橋を渡り、旧東海道の、バスが走る道をゆっくり上りました。

私は今日は「歩くたすけ」という靴下をはいています。地下足袋とテーピングの良さを併せ持った優れ物で、成る程確かに歩きやすい。

快調に歩いていたら、長女に速すぎる、と怒られました。確かに今日は上り中心だから、最初は押さえ目にしておかないと、上り坂でバテることになりかねないから、ゆっくり歩かないとね。

三枚橋を渡り、旧東海道のバスが走る道をゆっくり上りました。

早雲寺を見て、左に弥坂湯という日帰り温泉がすでに営業していたので、見てみたら、朝9時からオープンしていて、650円でした。

以前よく行っていた日帰り湯の天山温泉、湯本から遠いと思っていたのに、歩いてみると案外近い。

旧道に入ってから、ますます金木犀の香りが濃くなってきました。

葛原坂の碑を見て、はつはな滝を見て、長女に初花が足の悪い夫を助けて、夫の親の敵をとった話をしてあげました。さっき本で調べたばかりの知識です。

坂がきつくなって来たので、景気付けに「箱根八里」を歌いました。長い歌で、上り坂で歌うのは結構大変です。学生時代は峠越えで熊防止に「ハレルヤ」をワンコーラスきっちり歌いきったこともありました。

暫く後、長女が「箱根八里の半次郎」のサビ部分だけ歌いました。

天狗神社という神社があり、日本唯一幼神神社というので、長女が見てみたがり、入ってみました。幼神を祭ってあるせいか、飾りが七夕みたいだったり、天園界を再現しているという不思議な空間には、おもちゃやお菓子でゴテゴテ飾られていました。

箒で掃除していたおばさんに、「こんにちは」と声をかけられ、「歩いてらしたんですか。初めてですか」と聞かれ、「今度お話を聞きに来てください」と言われたので、私たちはファジーに笑っておきました。

その先に女転ばし坂。昔、ここで馬に乗った女の人が落馬して亡くなったことからついた名だそうです。

道は車道から離れて石畳の道へと入りました。雨の日は石畳が滑るので、かなり気を遣います。

江戸時代の石畳が残っているところと、新しく復元されたところがありました。

関東大震災で、かなり崩壊したり陥没してしまったのだそうです。

石畳は表面(歩くところ)が大きな石、地面の下側にもう少し小さめの石、と二重構造のため、水捌けがよいのだそうです。

旧道には、ところどころ看板が出ていて、豆知識が書かれていました。

その中で勉強になったのが、雲助です。雲助は弥次喜多などで悪い奴、というイメージが作られてしまいましたが、実は小田原の問屋場で雇われた人足で、きちんとした人たちばかりだったのだそうです。雲助になれる条件は厳しく、3つありました。1つめは力が強いこと。2つめは荷造りがうまいこと。ここまでは当たり前ですが、3つめは、ちょっとびっくり。歌がうまいこと、なんだそうです。馬子歌やかごかき歌を歌わねばならなかったから、だそうです。

山々は雲か霧か、襞々につらなって、「これぞ箱根」のイメージなので、私は久々に「もののけ姫」を歌いました。

割石坂は曽我兄弟仇討ちゆかりの坂。(仇討ちに向かう途中、刀の切れ味を見るために、石を見事に割ったそうです)

急な石畳を下りた後、木の橋を渡る辺りに大沢坂があります。

畑宿には思ったより早く着きました。11時15分。

この頃、一旦雨がやんだせいか、観光客の姿を結構見るようになりました。

畑宿でトイレに行ったら、トイレの裏に紫式部の木がありました。

畑宿の一里塚を見て、また暫く石畳を歩いていたら、車道に出て、ここで2回目の「箱根八里」を歌いました。

車道は七曲がりに入り、すごいヘアピンカーブ。歩行者は階段を上ります。

西海子(さいかち)坂、橿木坂、猿滑り坂と、急坂が続き、長女バテ気味。私はここのところよく歩いていたので、そこまで疲れませんでした。

ただ…何故こんな所に?と思う途中に自転車が乗り捨ててあり、それを見た途端に怖くなってしまいました。

長女は「熊が出るのではないか」と不安で、手で腿を叩いたり音をたてながら歩いていました。

でも、わたしは動物よりも幽霊よりも人間が怖い。

この箱根の山道、一人だったら怖かったろうな。長女が一緒に来てくれて、本当に感謝です。

さて、もうそろそろ上りは終わりかと思っていたら、追い込み坂、という急坂があり、長女はかなりがっくり来てました。

でも、その坂を上りきったら平坦で、甘酒茶屋はもう一息。

甘酒茶屋は工事中で、今は隣にプレハブで仮営業していました。

私はシソジュース、長女は味噌おでん、力餅(いそべ、きなこ)を分けて食べました。私たちは歩いてきたのでジュースでしたが、他の客は車かバスで来ていて肌寒いらしく、みんな甘酒を頼んでいました。

店の裏に「猪に注意」と書いてあったため、長女がビビっていたら、ちょうど親子連れ4人が私たちの前を露払いしてくれたので、暫くは優雅に歩けました。

道がまた車道とぶつかった所で、親子とはお別れ。

また石畳に入りましたが、長女は猪を怖がって、腿を叩いて歩いていたので、私も「箱根八里」を手拍子で打ったりしました。

人の声がすると思ったら、フルムーン?の上下白っぽいスーツの男女、どう見ても、滑る雨上がりの石畳には不似合いで、観光客が迷い込んでこんなところまで来ちゃった、風でした。「こんにちは」と声をかけたら、「まだまだ遠いですか」と聞かれたので、車道まではすぐだけれど、甘酒茶屋はさらにその先、と説明しました。二人連れはお礼を言って、「こちらもこの先、ずっと遠いし、誰もいませんよ。気を付けて」と言われました。

長女は、大分めげかけていたので、「人に会ったら元気が出た」と言ってました。私も、「気を付けて」の一言に、かなり元気付けられました。

この先、大分歩きやすくなり、「山の人気者」「おおブレネリ」を歌いました。

暫く行くと、お玉が池への分岐(関所破りのお玉が斬首され、その首を洗った池)、箱根馬子歌の碑などを見ていきました。

また観光客と会い、「まだまだ遠いですか」と聞かれ、「まだまだ遠いです。石畳が滑るから気をつけてください」と見送りましたが、どこまで行くつもりなのかな?遠いと聞かれても、どこまでかでかなり、違うけど。

みんな普通の格好で気軽に入ってきちゃうけど、雨の日は、山だと思った方がいいよお。

ケンペル&バーニーの碑を見ると、もう芦ノ湖畔はすぐ。13時半前に着きました。

土産物屋で寄せ木細工などを眺め、私は洒落で通行手形を買いました。

賽の河原を見て、湖畔の店でお昼を食べました。長女はなめこおろしせいろ、私は山菜せいろを食べました。

その後は箱根神社へ行き、また街道に戻って、杉並木を歩きました。

今日はずっと雨だったけど、涼しかったし、昔の旅を偲ぶには、雨は最高かも。

箱根関所資料館入り口の役人に通行手形を見せている写真を長女に撮ってもらいました。資料館では、人見女の取り調べの人形と、大名行列の人形と、箱根関所の復元工事の映画が印象的でした。他のお客さんは映画をチョコッと見ると、「大変なんやね」とすぐに席を立ってしまうのですが、私はずっと見ていたので、長女が「こういうの、好きなの?」と聞きました。好きなんです。前に、飛騨高山の祭の山車を50年ぶりに新調した時の職人の記録映画も面白かった。今日も、大工だけでなく、石工、屋根職人、渋墨を塗る職人など、たくさんの職人たちによって何年もかけて、昔の技術を使って関所を復元したことに感動。復元なんて、とあだやおろそかには出来ません。

おかげで、この後の関所見学も感動ものでした。

資料館でもうひとつ心に残ったのは「薮入り」。箱根で関所破りで捕まったのは5組6人と意外に少ない。それは、多くの場合、道に迷ったということで小田原宿に追い返すことで不問にふしていて、それを薮入りと言うそうです。

土産物屋で黒玉子を食べて、今日の宿、ペンション芦ノ湖グリーンハウスへと向かいました。

お風呂が広くてジェットが出ていて気持ちよかったし、夕飯も美味しかった♪

本日の歩数は31155歩、21.9km歩きました。

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2008.10.07. こわめし坂の攻略法〜長女との二人旅Ⅱ

2008.10.07.

東海道五十三次七日目  元箱根~箱根峠~三島~沼津

朝8時に出発。少し元箱根方面に戻って、コンビニ風の酒屋でパンを買いました。

公園で朝食。

曇りの予報でしたが、雲は多いながら、思ったよりも晴れました。

ペンション入り口の芦川バス停のところで、道はY字になり、私たちは国道と別れて右側の道へ。左に駒形神社を見て、そのすぐ先に旧箱根街道への入り口が…あるはずが、工事中でトラックとミニパワーショベルが通せんぼしていました。

脇を通してもらって、石畳へと向かいます。

今日は降ってはいないものの、昨日の雨で石畳はツルツル。ズッコケ二人組は、「ワーッ」「キャア」言いながら、小股でよちよち上っていき、喉元過ぎて大胆になった頃に、「キャア」…懲りないバカなヤツ。

向坂、赤石坂、釜石坂、風越坂、鋏石坂と名前が変わっていき、似たような石畳の坂でも変化を楽しみました。立て札や石の標がある度に、名前を読み上げたり写真に撮ることで、単調になりがちな気持ちをその都度新たにすることもできるし、昨日の歩き始めは私が写真ばかり撮っているので呆れて「またあ」とうんざり気味だった長女も、一瞬でも足休めになるので寧ろ歓迎していました。

500メートルほど上りが続いた後、空が明るくなり、国道に出ました。

道を右側に渡って、国道1号の坂を上って行くと、右下に芦ノ湖が見えました。

暫く上ると、箱根峠。9時過ぎに到着。

峠には現代の地蔵が新しく立てられていました。箱根八里にちなんで、8人の女性の言葉が書いてありました。向井千秋、黒柳徹子、杉本苑子、橋田寿賀子、宮城まり子、橋本聖子…さんたちでした。

「ようこそ静岡へ」と書いた看板があり、あれ、どこが県境だったんだろう…峠には休憩所とトイレがありました。

晴れていたら富士山がきれいに見えるはずだったんだけど、今日は一日とうとう見えませんでした。

峠の先は、国道と別れ、静かな道を行きました。車道だけれど、全然車は来ません。

遠くでドオン、ドオンという音が絶えずしていて、まさか雷?とちょっと怖かったけれど、どうやら鳥威しらしい。

暫く行くと、左手に篠竹に囲まれた道があり、江戸まで二十五里、京都まで百里、の石標と、箱根3km、三島11kmの道標。

道標に従って篠竹の道に入ると四阿(あずまや)と兜石の説明(豊臣秀吉が兜を置いた石)の看板。その左奥に井上靖の箱根八里記念碑。(「北斗闌干」ってどういう意味だろう?箱根から見える北斗七星が橋の欄干みたいってこと?)

そこから、篠竹のトンネルの道を行き(ここもひとりじゃ怖いね)、暫く行くと、国道に出て、接待茶屋跡。

右側にまた旧道に入りますが、入ってすぐの所に手作り風の絵看板…箱根峠から三島までの双六でした。

その先に何故か車があって…張り紙がしてあり、この車は平成20年7月25日からここに放置されています。10月10日までに移動しなければ撤去します、とありました。なんだか怖いなあ。犯罪?自殺?

気を取り直して歩きました。石畳は気を抜くと滑る。

その先、兜石がありました。さっきの説明板の先の篠竹の道の甲石(かぶといし)坂にあった物をこちらに移転したそうです。

石原坂を下ると凄い大岩があり、それが念仏石でした。

その先、明るい薄の原に出ると、眼下に国道が見えました。大枯木坂を下っていくと、初めは石畳だったのが、草の生えた下り坂となり、花がたくさん咲いている場所に出たと思ったら、農場でした。物置になっている建物が以前は牛舎か馬舎だったのだろう、と、小屋を見ながら右に曲がったのですが、これが失敗でした。素直にまっすぐ国道に下りていれば…

小屋を回り込んでから国道に出て、昨日たくさん見た石畳風の歩道を下りながら「三島市に入った」と喜んでいたのですが…

あれ、道の反対側に旧道の入り口らしきものが見える。ガイドブックを出して読んでみたら、やはりさっき農場から出たら、国道を渡らねばならなかったことが分かり、坂を上り返し…弥次喜多が横断歩道を渡っている看板がありました。この弥次喜多には、この先ちょくちょく出会います。東海ルネサンス作成の案内板らしいです。

農場前まで戻ると、ちゃんと横断歩道がありました。再び函南町から三島市に入り直しました。農場前のバス停の近くにコミックスが2冊捨ててあったので、私が「誰だ!『がんばれ元気』を捨てたのは。元気を捨てちゃいかん」と言ったら、長女が「さすが、漫画好きのおかあさん」と言うので、「漫画好きってこともあるけれど、元気を捨てたらだめだよ」と言ったら、長女、「その人、生きる気力をもうなくしていたんじゃないの?」

なんだか、さっきの車を思い出して怖くなりました。

小枯木坂を下り、徳利と杯が描かれた雲助徳利の墓を見て、少し行くと「竹屋」という茶屋の看板が出ていて、この先で営業しているらしい。「あっ、雲助だんごだって。これ、食べよう」

石畳は歩きにくいし、足が痛くなってきた二人には、横に見えてきた林道が歩きやすく見えて、あっちを歩こう、と長女が林道に行こうとしたら、結構越えづらい溝が続いている。「ほら、浮気しちゃダメってことだよ」

笑っている内に車道に出ました。旧箱根街道は歩道橋を渡らねばならないのですが、その前に竹屋で一休みしましょう。

まだ、暖簾が出ていませんでしたが、ちょうど男の人が出てきて、「いらっしゃい」と招き入れてくれました。暖簾を出そうとしていたところみたいです。

私は雲助だんごを、長女はところてんを食べました。お茶の他に、しそジュースを少しサービスしてくれました。おばさんが、「しそジュースは元気になるよ」と言ってました。山中城跡のマップと、三島夢街道という、箱根峠から三島までのマップもくれました。三島までのマップは随分役立ちました。

店に来たお客さんたちが一言ずつ書いているノートがあったので、私も一言書いて、娘と私の似顔絵?も添えました。

店の前の駒形諏訪神社から山中城跡に入りました。まともに見学していたら2〜3時間かかりそうなので、適当にはしょって見ましたが、芝生のよく整備された公園風でした。豊臣秀吉に一夜で滅ぼされた北条氏の城ですが、栄枯盛衰を偲ぶというより、きれいな公園でリフレッシュしてきた感があります。

宗閑寺の豊臣、北条両軍の将の墓を見て、その先の芝切地蔵堂を見て、道を渡り、その先にもまた山中城跡があったのですが、パスして右側の旧箱根街道に入りました。司馬遼太郎の八里記念碑を見て、その先、少し国道を歩き、また石畳を歩くと、富士見平に出ました。晴れていれば、富士山と駿河湾が絶景、のはずなんですけどね。芭蕉の句碑がありました。「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」…そうだ、そうだ!でも、ちょい、負け惜しみじゃないですか?芭蕉翁。でも、カンカン照りより、曇りが楽なのは本当です。

長女が「芭蕉は年寄なのに、よくあちこち歩いたね」と言うので、「『おくのほそ道』の旅に出たのは45歳だよ」と言ったら、「そんなに若かったんだ」と驚いていました。

上長坂を下った後、暫く国道を歩き、廃墟のようなホテル横を左に入っていくと、牧歌的な歩きやすい坂。人参畑や生姜畑(たぶん)の写真を撮っていたら、笹原一里塚を見付け、上ってみたら、大岡信の八里記念碑がありました。

道を渡ると下長坂。別名こわめし坂。あまりに長くて急な坂なので、汗と熱で背負っていた米が炊けて強飯になった、というところからついた名だそうです。ガイドブックによると、「下ると爪先に体重がかかり、痛い」そうで、箱根は上りの東坂より下りの西坂の方が辛い、と多くの先人たちが言っているので、長女も私も、このこわめし坂を恐れていたのですが、とうとう来ちゃいました。見た目も勿論の急傾斜ですが、郵便配達のオートバイのブレーキのかけ方がすべてを物語っている。

この時、長女が攻略法を発見。後ろ向きに坂を下るのです。成る程!今日の貼付はこわめし坂の長女です。顔は花ピンで隠しました。

しかし、長い坂だ。栗のイガがたくさん落ちている横道で暫し海を眺めながら休憩。

そうそう、膝に来る下り階段も長女がよいことを教えてくれました。「階段はヒップホップだね」とアップのリズムで降りているので、私も体重を落とす瞬間に腹を引き上げながら降りたら、膝が楽でした。

国道に出て、坂公民館が見えたら右の道に下って旧道を行き、題目坂(私にとってはヒップホップ坂)を降りて、国道を歩いて、六地蔵を見て、臼ころげ坂を通って。

その後は暫く国道を歩くのですが、次の旧道を入る辺りで工事していて迂回を余儀なくされ、箱根路の石碑は遠目にしか見られませんでした。

初音辺りでやっと旧道の松並木と石畳に戻れました。錦田一里塚を見て、長い石畳をポクポク歩いていたら、長女が足の痛みを訴えました。筋肉痛でも膝でもなく、足の裏のマメです。

松並木が終わり、愛宕坂に入り…愛宕坂が最後の石畳でした。

小さい子を連れた若いママに「こんにちは」と声をかけられ、とても嬉しくなりました。

東海道本線の踏切を渡ったところで有線放送が入り、子どもたちの下校時刻なので、みんなで見守りましょう、と言っていたので、胸が熱くなりました。

新町橋を渡り、三嶋大社に着いた時は、思わず万歳!

お参りしてからうなぎを食べ、もう一本。夕暮れも迫ってきた道を沼津に向かって歩きました。

沼津から東海道線に乗り、清水までワープ。

夜は清水の居酒屋で美味いもの、食いました。

本日の総歩数43,232歩。歩いた距離は30.6kmでした。

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2008.10.08. ワープする少女〜長女との二人旅Ⅲ

2008.10.08.

東海道五十三次 八日目 江尻~府中~丸子

♪チャラチャラチャッチャチャーン!(ドラゴンクエスト宿屋の朝の目覚めのテーマで)

清水駅前、ホテルクエストで目覚めた長女と私。

あれ、外は雨が降っている…

8時15分頃出発。傘が必要な雨。

クエストのある大通りよりも、1本北側の道が旧東海道。

傘をさして歩き始め、そういえば、朝は駅前のマックと言っていたのに、二人でちゃっちゃか歩き始めてしまい、店はまだどこも開いていなくて、朝御飯にありつけないかも、という恐れが…

稚児橋の四隅には河童がいました。

清水銀座を通り(まだほとんどの店が閉まっていました)、追分羊羮の店横の「是より志三づ道」の追分道標を見て、清水次郎長の一家に殺された都田吉兵衛の供養塔を見て…

都田吉兵衛は「都鳥」と渾名されていた男で、次郎長の子分の森の石松を殺した敵として次郎長一家に狙われていました。

道は上り坂。幼稚園バスや、登校途中の中学生を見掛けました。

東海道本線と静岡鉄道が隣同士に並行している踏切を渡ると、平川地。そう言えば、平川地一丁目って、この辺の出身だったよね。あのデュオのユニット名は「ひらかわち」だけど、ここは「ひらかわじ」と読みます。

平川地のセブンイレブンでパンやサンドイッチを買って朝食。

歩き始めの頃は雨だったのに、晴れてきたので帽子を被りました。

頭のてっぺんだけ少し雲がかかっているけれど、ほぼ姿を現した富士山を見付けて、これからもっと晴れてきたら、もっときれいに見えるだろう、とこの時は写真を撮らなかったのですが、この後どんどん雲が増えてきて、また富士山は姿を消してしまいました。

時々姿を見掛ける静岡鉄道は、午後の紅茶電車など、カラフルなボディが多いみたいです。

道は静岡鉄道の近くを通ります。

昔あった狐が崎ヤングランドは、今はないそうです。

長女が「草薙って地名があるんだね」と言うので、ヤマトタケルの東征の時、伊勢斎宮の叔母が天の叢雲の剣(スサノオがヤマタノオロチ退治した時、尾から出てきた剣)を持たせてくれて、この辺りで敵の火攻めを受けた時、天の叢雲の剣で草をなぎはらって難を逃れたことから、その剣を草薙の剣と言うようになった話をしました。

草薙神社の大鳥居は見ましたが、草薙神社までは1kmと聞き、今回は諦めました。

草薙駅前からは、交通量の多い道から一本南側に外れた静かな道を行きました。

造園業者の多い通りでした。この前平塚で見た風船唐綿をまた見ました。

むこうから黒い集団がGメン歩きをしてくるので、怖い集団かと思ったら、黒い袈裟を着たお坊さんたちでした。それも、托鉢かと思ったら、寺の駐車場に停めてある車に分乗して消えて行きました。

運動場前で右へ行く辺りで戸惑っていたら、軽トラのおじさんが「東海道はこっちだよ」と教えてくれました。

しかし、その後がまた分かりづらくて…東海道線の線路脇の東海道の碑の右横のトンネルを潜って、東海道線を横切るのですが…狭いトンネルなのに、車や自転車が警笛やベルを鳴らしながら通るので、怖いし、トンネルを抜けてからどう進んでいいのか分からず、ガイドブックに「道なりに進む」というのを取り違えて、すごい遠回りしてしまいました。トンネルを抜けたら、左の方に(最初は線路際を進むように)行くべきだったのを、右に行ったため、遠回りになりました。

国道1号に合流し、長沼交差点で右斜めの静かな道に入り、長沼の辺りを通るとき、近くの小さな山の上の鉄塔に東海大学と書いてあるのが見えました。

道は一旦国道にぶつかり、その辺りの道が残っていないそうで、柚木駅から南に下ってトンネルをくぐってすぐに右折のはずが…

トンネル出口辺りで工事をしていて右に行けず、かなり南側の道まで行ってしまいました。曲金という地名でしたが…

遠回りしたおかげでファミレスがあったので、そこで昼食をとりました。

そこの店は、10月30日22時をもって閉店します、という紙が貼ってありました。

斜めに北西に上がっていく道を行って、東海道線をくぐり、春日駅のあたりで少しだけ国道を歩き、すぐに右斜めに入ったところが横田町。実はその通りは来たことがあります。

今回、長女が静岡に行きたい、と言い出したのは、長女が生まれたのは静岡だったからで…。

当時、転勤で2年間、静岡に住んでいました。

横田町のあの金物屋さんは、長男の幼稚園の同じクラスの子のお父さんの店。

旧東海道はそのまままっすぐ進むのですが、私たちは以前住んでいた場所を訪ねるために、寄り道をしました。

音羽町駅の踏切を渡って少し進むと、右側に大きな公園があります。清水山公園というのですが、当時よりかなりきれいにグレイドアップしていました。

そして、当時私たちが住んでいた喜〇〇寿ハイツは健在でした。焦げ茶の建物で、上から2番目の階に住んでいました。

長男が通っていた幼稚園の方へ行ってみましたが、幼稚園は移転して、もう同じ場所にはありませんでした。

日吉町から旧東海道に戻り、その先左折するところを敢えて真っ直ぐ進み、駿府公園に向かいました。

駿府公園は小さかった長男を連れてよく遊びに来た所ですが、すっかり様子が変わってしまっていました。当時は石垣しかなかったところに、一部復元された城の建物(東門あたり)が建っていました。

ところで、私はこの旅の間、見付けると喜んでこだわっていた花がありました。秋明菊(貴船菊)です。亡くなった祖父母にまつわる思い出の花なのです。

長女が好きな花は、ひまわりと彼岸花なんだそうで、駿府公園で彼岸花を見付けて激写していました。

駿府公園を出て、旧東海道に戻るために、目印の伊勢丹を探したら、すぐ見つかりました。伊勢丹脇に札の辻跡があり、そこから続く商店街が七間町という道幅の広い、昔ながらの商店街、旧府中宿の中心部です。

映画館などを通り越し、サッカー洋品店を右折。少し進んで写真屋を左折。新通りという道で、真っ直ぐ行けば安倍川に出ます。

昨日は長女は足裏のマメが痛かったのですが、今日は足裏は保護シートを貼ったおかげで大丈夫で、代わりに足全体が突っ張って動かしにくく、特に腿が痛いそうで、歩くより走る方が楽だとかで、時々アラレちゃんみたいに走り出します。

私が目印を探していたり、面白いものや気になるものを見ていたりして、ハッと気付くと長女は何メートルかワープしている。それも何度も。

♪空間を越える少女〜(「時をかける少女〜」の節で。by原田知世)

長女がかなり引き離しても、私がすぐに追い付くので、長女は悔しがってました。

安倍川の手前であべかわ餅で一休みしたい!と、有名な石部屋に入ったら、店のおじさんが、「悪いね。もう終わっちゃった」…そう言えば、売り切れ次第店仕舞いとガイドブックに書いてあったっけ。

結局3軒目の橋本屋で食べました。

出来るのを待つ間、サービスにとくれたでっかいオハギをいただきました。こんな大きなオハギを食べることになるんだったら、あべかわ餅、一人分だけ注文して分け合ってもよかったなあ。一人分が、きな粉4個、あんこ4個なんで。かなりおなかいっぱいになりました。

昨日、大きなリュックを背負った男の子が、日本橋から京都まで一気に行く、と、この店に立ち寄ったそうです。

うちの長男も去年3月に一気に日本橋から京都まで歩いたけれども、長男もここであべかわ餅、食べたかなあ。

店の隣には、安倍川義夫の碑がありました。川越で旅人が落とした財布を拾った人足が、岡部まで追いかけて財布を渡し、お礼金をどうしても受け取らなかったので、人足組合にお礼金を送っても受け取らず、とうとうお礼金は役所が受け取って、役所から善行として褒美金を出した、という話が書いてありました。

安倍川橋を渡る時、学校帰りの中高生の自転車が、川向こうからこちら側へ、こっち岸から向こう岸へ、交差して走っていました。

安倍川は静岡に住んでいた頃、花火を見に来たことがあります。学生時代の友達のご主人のご実家が安倍川の近くで、花火の日に小さかった長男と私と、招待していただきました。安倍川の花火は規模が大きく、きれいで感動し、ご馳走もたくさんいただきましたが、風邪気味だった長男が吐いてしまい、大騒ぎで申し訳ないことをしてしまいましたが…とにかく素晴らしい花火でした。

安倍川を渡りきると、間の宿の手越宿。平家物語に出てくる白拍子、千手の前のゆかりの地だそうです。

少し行くと、大きな街道松が数本見られます。

やがて国道1号線と合流。

また暫く行くと、沢渡交差点で左に別れます。

最初は歩道も広い立派な道でしたが、だんだん狭くなり、歩道もなくなり…

「丸子宿 〇〇や」と屋号の板書きをつるした家が何軒か見られました。

本陣跡、七間役所跡を過ぎると、今日の最終目的地、丁子屋の駐車場が見えてきました。

17時少し前に着いたおかげで、その時点では私たち以外に客がいなかったので、大広間の鴨居の上にズラリと並べられた額、安藤広重の東海道五十三次の版画の、私が行った所だけ写真を撮りました。日本橋、品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三島、沼津(ワープ)江尻、府中、丸子

とろろ汁はたっぷり。ご飯もたっぷり。あべかわ餅が効いていると思っていたのに、ペロリとたいらげてしまいました。

資料室では、十返舎一九にも会えました。

外に出るともう真っ暗。バス停を探してうろうろしているとき、地元のおじさんに丁寧に教えてもらい、バス停ではバスの支払いシステムについて、並んでいたおばさんに教えてもらいました。

静岡駅で切符を買うのに並んでいるとき、前の女性が「後日の切符だから」と順番を譲ってくれました。

昼間はお巡りさんと中学生男子に「こんにちは」と声をかけられました。ふれあいもあった三日間の旅でした。

普通電車を乗り継いで、我が家へと帰りました。

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2008.10.17. 今日からまた一人旅〜穴埋め旅Ⅰの前半

2008.10.17.

東海道五十三次 九日目 前半 沼津~原~昭和放水路

家を朝5時半過ぎに出て沼津へ向かいました。

先日の長女との二人旅の時、ワープした沼津〜江尻(清水)間を埋める旅第1日目。

吉原までだと近すぎるし、蒲原までだとかなりきつい。歩いてみた結果、新富士川まで34km歩きました。

沼津着7:39。トイレに行ったり、コンタクトレンズを入れたり、「歩くたすけ」(足袋型サポートソックス)を履いたりして、沼津駅を出たのは8時過ぎ。電車も町も、通学の高校生の多い時間帯でした。

先日、長女と夜の沼津の町に着いた時は、なんて明るい繁華な町なんだ、と驚きましたが、早朝だとシャッターが下りているので静かです。でも、やはり大きな町だなあ。

歩き始めてすぐに町中に休憩所があったので、ちょっと寄りました。上着を脱ごうと思って。上着を脱いでリュックにしまい、持参のペットボトルのお茶を飲もうとしたら、目の前に「美味しい水です。ご自由にお飲みください」とあったので、飲んだらとても冷たい水でした。

上着を脱いだら、最初はちょっと寒かったけれど、歩いているとすぐにちょうどよくなりました。

沼津駅南口からまっすぐ大通りを来て、左に御成橋が見えたら右折。すぐ次の交差点を左折。それにしても自転車の高校生が多い。

本には250mで右折とありましたが、わりと早く右折したので、道が間違っていないか心配でしたが、右側に地図どおりに神社があったのでホッとしました。

暫く歩いたら左に郵便局があったので、地図で確認したら、えっ、まだこれしか来ていない?でも、そんなもんだよね。

地図上の目印を、今度はこれ、と目当てを決めて歩きました。

やがて左側に六代松入り口の表示。平家壇の浦滅亡後に残った、最後の平家嫡流生き残りの子、六代(平維盛の子)が一旦殺されかけ、文覚上人の嘆願で助かりますが、結局は処刑され、ここに埋められたのだそうです。

実は、六代が殺されたのは、私が通勤しているバスが通る川で、六代を記念する碑もあり、バス停名も「六代御前まえ」…なんだか仲間みたいな意識で、是非見たいと思い、東海道を外れてわざわざ見に行きました。碑の周りに何本かの松が植えられていて、公園みたいでした。

ついでに海辺まで出て、千本松原を見て、防波堤の上の道にも上がってみました。

以前静岡に住んでいた頃、私は沼津千本松原マラソン5kmコースを走ったことがあります。

小さい子も普段走ったことがない人も、歩いてでも参加できるファミリー向けマラソンで、この防波堤を2.5km走ると折り返し地点で戻ってきます。

参加賞として、チューリップの球根と、栗煎餅をもらいました。防波堤の上からは左に海、右下に松原や町工場や小さな家々、右上には富士山が見えました。今日の富士山は頭の上の方だけ冠雪していて、顔から下は夏仕立て。でも、てっぺんの白がなかなか効いていました。

防波堤から下に降り、ちょっと松原の中を散策気分で通って(先客の黒猫が、胡散臭そうに私を見ていました)、また東海道に戻りました。

歩道に置かれた花々の中に、風船唐綿があり、かなり膨らんでいて、今にも弾けそうな実もありました。

今日は、あちこちでエンゼルトランペットをよく見掛けました。白、黄色、ピンク。

家々の屋根の隙間から、富士山や愛鷹山が見えました。

太陽が背中を押してきて暑い。♪サンシャイン オンマイショルダーズ メイクスミー ハッピー… と口ずさみ、いやはや、首の後ろが日焼けするなあ…

本に「八幡神社(沼津藩領西境の榜示杭)」とあるのを見た時は、別にそんなもの、見なくてもいいや、と思っていたら…何故見なくていいかと思ったかというと、沼津から原まで、防波堤や千本街道が東海道と並行しているので、海や松林を見ながら歩くと気持ち良かろう、暫し東海道を離れてそっちを歩こうか、しかし、次の一里塚は見逃したくないから、この榜示杭は見なくてもいいや、と、こう思ったんです。

しかし、実際歩いてみると、防波堤も千本街道もすぐに飽きて、やはり東海道に戻ってきました。

そんな訳で、八幡神社では、かの榜示杭をしっかりと見たのでありますが…見てよかった。これ、大事ですよ。

石標が風化して、上も下も折れていて、残っているのは「従是東」の三文字だけ。でも、意識がタイムスリップするには十分な三文字。村外れの八幡宮前で、西からやって来た旅人は、この石標を見て、ああ、沼津へやって来た、と思ったことでしょう。私の脳内イメージでは、水戸黄門ドラマ仕立てメンバーが、うんうん、と感慨に浸っていると、うかり八兵衛がちゃっかり緋毛氈の縁台に座って団子を食べている、の図が繰り広げられたのでした。

ところで、前回、長女との旅の時、「歩くたすけ」という足袋型サポートソックスが多いに役立ちましたが、今日はどうもしっくり来ない。洗濯しちゃうと、効力を失っちゃうのかなあ。

途中で歩を止めて、ググイと引っ張り上げてみたら、うん、今度はいい感じ。洗濯したせいで足にフィットしにくくなっていたようで、少し歩いたところで引っ張り上げるのは、いい作戦みたい。

この辺りの歩道は、溝に蓋をしてあるタイプで、蓋を開け閉めしやすいように手がかりの穴が空いていて、パンプスを履いていると踵が剥けてしまう嫌な穴。スニーカーでも歩きにくい。長男が、「沼津の先辺りの歩道は二度と歩きたくない」と言っていたのはこのことか。あとは、原までひたすら真っ直ぐなのも辛いかも。

民家の屋根の隙間から富士山が見えるのですが、駐車場などがあると、視界が開けてよく見えます。沼津では愛鷹山の向こうに富士山が見えるので、裾野は見えません。西へと歩いていく内に、だんだん裾野も見え始めました。電線が重なるため、なかなか写真に撮るベストショットポイントが見つからない。

やがて松長一里塚跡。

その先右側に、ハロウィンのカボチャが並ぶ、かわいいログハウスがあり、何の店だろう、まさか民家ってことはないよね、と思ったら、不動産屋さんでした。

少し先に、右奥へ入ると「神明宮古墳→」とあったので、寄り道してみました。

民家の間の細い道を抜けると、正面に神明宮が小高い丘の上にあり、階段を登って薄暗い神社の境内に着き、うろうろしてみましたが、この神社そのものが古墳らしい。

神社のすぐ後ろを東海道線が走っていました。

昇ってきた階段とは別の階段があったので、下りてみたら児童公園でした。最近では危険だからとブランコを取り外してしまうところが増えましたが、ここでは4つ、健在でした。

帰りがけに、神社の木陰に人の姿が見えて、急に怖くなりました。寄り道は一人の時は気を付けないとね。

東海道に戻り、さっき見た神明宮古墳の看板脇に、可愛い赤い花を見付けました。合歓木を小さくしたイメージなんだけど、何の花だろう?

東海道をまた行くと、冬桜が咲いている家がありました。

沼津から原辺りまで、立派な家が多いと思いました。農家らしい庭が広い家で、塀が大谷石だったり、黒渋塗りの塀だったり、瓦屋根が何層にもなっていてお城みたいだったり。

東海道線片浜駅を過ぎ、踏み切りを渡る手前が富士山を見るにはいいポイントですが、撮影には線路に人が入らないように危険防止のフェンスが邪魔になります。

線路を渡ると、セブンイレブン。トイレを借り、朝御飯は朝5時20分にパンを1個食べただけでお腹がすいたので、お十時ということで、五目おこわのお握りを温めてもらって食べました。これが味が濃かったみたいで、この後、喉が渇きやすくなりました。

太陽が頭の上に上がってきて、背中や首が暑いことはなくなってきたので、楽になりました。快調にとばして歩いていると、学生時代を思い出します。歩く旅なんて、学生時代にしか出来ないと思ったけど、またこうして歩いています。あの頃は、民家の庭や、川原、公園にテントを張って自炊して…そういうことは、学生時代にしか確かに出来ないけれど。

そこまで飛ばさなくても、いいといえばいいんだけど、富士山にだんだん雲がかかってきて、今日はせっかくの富士山ウォッチングコースだから、富士山が雲に隠れてしまう前に距離を稼ぎたい、と思いました。

少し行った右側に神社があり、原宿の見附跡(東木戸)の案内板。境内の参道にぎんなんがたくさん落ちていて、金色に光っているのがきれいなので、写真を撮ろうとしていたら、何やら黒っぽい服装の男性が不審な動きを…なんと袋にぎんなんをどんどん拾って入れている。まさかと思っていたら、なんと根こそぎ拾っちゃいました。それがですね、赤い郵便配達のオートバイを脇に停めて、ですよ。勤務中に何をやってるんだ?確か、神社の所有物であるぎんなんを勝手に持ち去るのは犯罪じゃなかったっけ?犯罪がらみじゃなければ、神社の銀杏を必死に拾う人って、面白いテーマで写真が撮れたかもしれないけど、遠慮しました。

そうか。一声かけて、銀杏の絨毯の写真が撮れるように、一瞬作業の手を休めてもらえばよかったんだ。でも、必死で拾ってたから、声をかけられなかったんだよね。食事中の犬にかまうと噛まれるしね。

その先左側に、白隠禅師誕生地の案内板。白隠は仏教界に新しい風を起こしたり、書画にも長けていて、500年にひとりの名僧と言われたそうで、「駿河の国に過ぎたるものがふたつある。富士のお山と白隠禅師」と歌われたほどだそうです。

白隠の墓がある松蔭寺は白砂の美しい寺だそうですが、寄り道になるのでパスしました。

また暫く行くと、高札場跡。原宿近辺の漫画図の看板がありました。

その先、左側に一里塚跡。

また暫く行くと、右側に愛鷹浅間神社があり、神社前に改称記念碑があります。ここら一帯の開拓、開墾に尽力した鈴木助兵衛にちなんで、助兵衛新田という地名だったのを、明治41年に桃里と改名したことに由来するそうです。

この先、左側の海は、万葉歌人の山部赤人にも歌われた(百人一首にも入っている)田子の浦ですが、私が歩いている道からは、全然田子の浦は見えませんでした。

この先の北側一帯は、浮島ヶ原という湿地帯で、湿地が朝靄にけぶり、その上に富士山が浮かんでいる様子は非常に美しかったそうで、広重の絵にも描かれています。

朝は快晴に近かったのが、だんだん雲が増えてきて、10時半にはクリアだった富士山が、10時40分には左脇から雲がわいてきて、10時50分には一旦雲に覆われてしまいました。その後、また変化があり、胸元にショールのように雲をまとい、富士山は頭を雲の上に出していました。

しかし、その内、ついに富士山は裾野の美しいラインだけ残して雲の中に入ってしまい、裾野は見えているので、絶景ポイントに出会うと、本当ならここに雄大な富士山があるはず、と想像しながら歩きました。

富士市に入ると、「見よう歩こう東海道」と書かれた説明板や道標が各所に設けられ、分かりやすいし道にも迷わずにすみました。実は何回か道を間違えたのですが、なぜ案内がないのだろう、と思うと、私の方が間違っていた訳で…

日本橋からここまで来た内、富士市内が一番安心でした。

東田子の浦駅を過ぎて暫く行くと、右側に立圓寺。境内に望嶽碑と、昭和54年10月19日に立圓寺の南方の沖で遭難したインドネシア船籍ゲラテック号の記念碑がありました。ゲラテック号の錨がモニュメントに使われていました。

立圓寺境内からは、それこそ美しい富士山が望めるはずですが、私が見た時は、頭が雲に隠れていました。

その先に、民家の塀をコの字型にへこませたところに常夜灯がありました。

暫く歩くと、昭和放水路という、川のようなものがあり、増田平四郎の像がありました。コの辺りは、度々水害に遭うため、増田平四郎が大工事を行い、スイホシと呼ばれる排水路を作ったのですが、たまたまその年に高波があり、スイホシは跡形もなく消えてしまったそうです。その後、増田の遺志を継ぎ、同じ場所に放水路が作られました。この同じ場所に江戸から三十三里の一里塚があったそうです。

後半に続く

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2008.10.17 今日からまた一人旅〜穴埋め旅Ⅰの後半

2008.10.17.

東海道五十三次 九日目 後半 元吉原〜富士川〜岩淵

しゃかしゃか歩き、道はバイパスと別れて静かな道へ。この辺りの道案内も、「見よう歩こう東海道」の案内で助かりました。

この頃、一旦富士山は頭を雲の上に出してくれたんですけどね。その先、毘沙門天に着く頃には、右裾が見えるから富士山の存在はよく分かりましたが、頭が見えなくなっていました。

毘沙門天は妙法寺という寺で、吉原駅の近くにあります。元吉原の地域です。吉原宿は、初め、この元吉原にあったそうですが、高波などの影響で2回も場所を移動し、元吉原の次は中吉原、そして、岳南鉄道の吉原本町駅近くの新吉原へと移動したそうです。

毘沙門天は旧正月にダルマ市をしますが、高崎と並ぶ二大ダルマ市で、静岡に住んでいた頃、小さかった長男を連れて来たことがあります。境内にも階段にまでビッシリとダルマの露天が並び、浅草の羽子板市みたいに、値切ったり、商談成立すると手締めをしたり。私は大人の手のひらに乗るような小さなダルマしか買えませんでしたが、お店の人が、長男に大きなダルマを持たせてくれて、記念写真を撮らせてくれました。そのとき、階段から振り返ると富士山がとてもきれいだったのが印象強く…だから、毘沙門天まで、富士山が見えてほしくて、結構飛ばしたんですけどね、ダメでしたね。

しかし、雲がかかっている以前に、富士山が見えにくいんですけど。この20年で木が育ったから?それとも、今は木に緑の葉が繁っているけれど、ダルマ市の冬には枯れ木だから富士山がよく見えるのかなあ。

この後、赤と白の太めのストライプの煙突にょっきりの大昭和製紙を通り、東海道線の踏み切りが右手に見えたらそこを渡り、沼川にかかる河合橋を渡ります。

その先、道路と新幹線を潜るのですが、ここで道を間違えました。

正規の道を行くなら、早めに道路の右側を歩いておくべきですね。左側を歩いていた私は、流れでそのまま、左側の道に進んでしまいました。新幹線を潜ると、道路は二股になり、右側へ進むのが正解です。私は間違って、左に行ってしまったのです。

しかし、しかしですよ。これが怪我の巧妙、間違えたお陰で、私は昼御飯にありつけました。

間違えて左の道に歩み始めた時、すでに12時45分は過ぎており、道の反対側にはうどん屋やら焼き肉屋やら韓国料理屋やらあったのに、こちら側にはバッティングセンターしかない。

道の幅って重要ですね。道幅が広くなく、車があまり来なければ、気楽に道を渡れたのに。

その先で「鐘音」というそば屋さんを見付けて入りました。桜海老揚げたて中、と書いてあったので。私は桜海老かき揚げそばとマグロの漬け丼ミニを頼みました。かき揚げが別添えで出てくるのは嬉しいね。

食べ終わって歩き始めたら、見えるはずがない線路が前方に見えたため、道を間違えたことに気付きました。

今日の場合は、来た道を戻って、間違いの原因となった二股まで戻りました。

二股の所は石屋だったので、後進の人たちが間違えないように、石屋のふくろうの写真を撮りました。

暫く行くと、左に左富士神社がありました。狛犬のあ、うんの内、口を開けている方は首に青い瓢箪をかけており、口を閉じている方は赤い瓢箪。もう一匹、小さめの狛犬は口に白い瓢箪をくわえていました。

また暫く行くと、左側に左富士の碑。東海道を江戸から京都まで西に向かって歩いていると、常に富士山は右側に見えているのですが、茅ヶ崎の鳥井戸と吉原のここら辺の二ヶ所だけ、珍しく左側に富士山が見えます。

また暫く行くと、平家越えの碑。和田川と浮島ヶ原の間に陣取った平家ですが、水鳥の羽ばたきの音に、源氏の奇襲と思い込み、戦わずして平家が退却したという有名な富士川の戦いは、実は富士川ではなく、和田川の湿地帯での出来事だったそうです。

平家越えの碑のところで道は大きくカーブし、和田川を渡ると新吉原。ここまで、こちら側ルートでは食べるところが全くなかったので、さっき間違えてよかった♪

やがて岳南鉄道の吉原本町駅を越え、富士市で一番繁華な町並みですが、金曜は定休日が多いのか、シャッターが下りている店が多く、町の規模はでかいのに、寂れた町の印象でした。

町の駅、というところがあり、トイレを借りたら、木の香りがする素敵なトイレでした。

その先、次郎長や撤収の常宿だったという鯛屋旅館。

その先の道標に従って左に曲がり、もう少し先をまた道案内板に従って右折。

暫く行くと大きな道に合流し、左に曲がって歩道を行き、大きな交差点で右へ。

曲がってすぐ、左に入る静かな道へ進みます。今日は大通りへ出ても、また静かな道に入ることが多く、静かな道は歩き旅の醍醐味ですね。

暫く行くと、大きな五叉路に出て、ここを右に行きます。

潤井川の手前で右に曲がります。例の「見よう歩こう東海道」の案内が役に立ちます。

また案内に沿って左へ。富安橋を渡ります。川の中に入って釣りをしている人がいました。

暫く進むと、民家のブロック塀がコの字にへこんでいて、袂の塞神(たもとのさえがみ)と呼ばれる、単体のユニークな道祖神があります。本で見た時、これだけは絶対見逃さずに見てみたい、と思ってきました。

その先、大きな道を渡るのに、真ん中に大きな中央分離帯があり、「迂回してください」と書いてあり、右側から迂回して来ます。

暫く行くと、左手の花壇の中に、一里塚跡の碑があります。

またもう暫く行くと、左に鶴芝の碑。ここら辺りから見る富士山は、中腹の雪が鶴が羽を広げているように見えたそうです。

間もなく県道にぶつかり、これを渡って南側の道に入ります。

また静かな道を進むと、小学校の下校時刻となり、地元の見守りのおじさんたちに挨拶しながら、低学年の子達が帰って行きました。

商店街を突っ切るところが札の辻。

ややカーブしながら道は進んでいき、身延線柚木駅のガードをくぐり、二つ目の交差点を右に入ります。この辺り、常夜灯などが多く、写真に写すものも多いのですが…

かなり疲れを感じて、ちょっと休みたい、と思っても、腰かけられるところがない。

曇ってきたので、帽子を脱いでリュックにしまうために、一回リュックを下ろしました。

こんな立ったままの短い休憩も、元気回復には役立ちます。

やがて県道に出て、富士川に向かって進みます。

昔は渡し場があった富士川は、今は車道と歩道が分離した鉄橋を渡ります。

11月1日に、富士市と富士川町が合併して、新「富士市」が誕生することを祝した横断幕が橋に渡して張ってありました。

富士川を境に、電気器具のワット数だかボルト数が変わって、静岡に引っ越した時、テレビ、電子レンジ、エアコンなどがそのままでは使えず、大騒ぎだったことを思い出しました。川を挟んだ二つの市と町が合併したら、電気製品はどうするんだろう。東海道の案内表示はどうなるんだろう。

富士川は橋の少し上流で一旦せき止められ、今の富士市側でゴウゴウ流れ出るようになっていて、乗り出すように写真を撮っていたら、気付くと手に汗をいっぱいかいていて、携帯がツルツルして取り落としそうで、慌てて携帯をしまいました。

突然、高所恐怖症。今まで、多摩川、相模川、酒匂川、安部川など、大きな橋を渡ってきましたが、今回初めて、怖い、と感じました。揺れるし、歩道は車道を見下ろす高さだし。

橋の真ん中で富士川町に入りますが、11月1日になると、境はなくなるんだな、と思いつつも、やたら怖い。早いとこ、渡りきってしまおう、と思ったら、反対側から小学生が漫画を読みながら歩いてくる。肝っ玉のすわった子だなあ。

本当は、この橋から見た富士山が、東海道中で一番大きく見えるそうです。すっかり曇ってしまいましたが、裾野だけは見えています。

橋を渡りきり、少し右へ行ってから左に入りますが、左斜めに入っていく細い道はいきなり急坂。権太坂より急な坂。こわめし坂よりはましかな。

こんなにいきなり急だと、本当に道が合っているのか心配になります。案の定、富士川町に入ってから、あの事細かな案内がなくなってしまい、不安になります。旧東海道はここらは河岸段丘の上を通っています。

やがて道標が現れ、ホッとしたものの、東海自然歩道とか、富士川バイパスコースなどと書いてあり、旧東海道については書かれていない。

やっと上りが終わり、平坦になった辺りが合の宿岩淵。

久しぶりに東海ルネサンスの弥次喜多に会いました。案内板の漫画図と、地面の下水口の蓋にいました。

その先に立派な黒塀と門の家があり、ここが小休み本陣常盤家。門に何か張ってありました。

今までは火曜から日曜まで一般公開していましたが、防犯上の理由から、平成20年4月からは、土日祝日のみの公開となったとのこと。ただし、平日であっても、事前に教育委員会を通して予約を入れれば見学できるとのことでした。

両脇に残る立派なエノキの一里塚を見て、暫く行くと小学校。

ここが運命の分かれ道。案内板にここで左へ折れて坂を下るように指示され、坂を下っていって気付きました。これは旧東海道ではなく、富士川町のバイパスコースの案内だったんだ。

上り返して蒲原を目指すかどうか…もう16時15分で、やや薄暗くなり始めている。

万歩計を見たら、この時点で33km歩いていました。これだけ歩けば十分。それに今から蒲原は遠すぎる。今日は新富士川駅から帰ろう。

17:07の熱海行きに乗り、熱海で乗り換えて、平塚で降りました。太鼓の湯で汗を流してから帰ろう。

ついでに、この前見付けられなかったお菊塚を見付けました。

たっぷりお風呂を楽しんだ後、この前、平地かのTRという居酒屋が美味しいと聞いていたので、行ってみました。うーん、私の主観では、あまり好きではなかった。

平塚から電車に乗って、今度こそ家路へとつきました。

本日の総歩数は52,116歩。歩いた距離は37.2km。

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2008.10.28. 東海道一の富士山〜薩た峠はいくつもある?

2008.10.28.

東海道五十三次 十日目 岩淵~蒲原~由比~興津~江尻

長女との二人旅でワープした所を埋める旅の二日目。

ひとり旅に戻り…長女を誘ってみたけれど、もうコリゴリなんだそうで、これからはずっとひとり旅かな。

今日は晴天であることを確かめての旅立ち。前回見られなかった、富士川からの、東海道一の富士山を見たい、というのが本日の第1目的なので。

前回より30分遅く家を出て、6時16分の電車に乗りました。

30分の差で、前回より高校生が少ない気がしました。代わりに小学生が結構いました。

こんな早朝でも混んでいて、沢山降りるとまた沢山乗ってくる。

沼津で浜松行きに乗り換えたら、乗り換えた電車はロングシートでした。車窓の富士山は背中側なため、富士山を見ることが出来ないけれど、富士川までのお楽しみにとっておきます。

富士川駅に降り、歩き始めたのは8時45分。

朝5時半にパンを1個食べたきりでおなかがすいたので、セブンイレブンでパンを買って食べました。

前回の続きなら、駅からわりとすぐに坂道を上って岩淵へ戻るのですが、東海道一の富士山をどうしても見たくて、富士川橋まで戻るのに1時間半ぐらいかかってしまいました。

他は雲ひとつない快晴なのに、富士山の辺りにだけ雲があるので、富士川橋に着くまで富士山が雲に隠れないで!と必死でした。

東海道一の富士山、見えました。胸の辺りに雲を棚引かせていたけれど。

その後は前回と同じルートで岩淵宿へ。これはグングン歩きました。

小休み本陣、一里塚を見て、小学校のところで前回は下りてしまったので、今日はそこを下りずに小学校の先を左に曲がり、秋葉山常夜燈の先、郵便局より手前の小さな四叉路を右へ。

急に静かな道になり、山里といった感じです。

上り坂になり始め、振り返ると富士山が見え、東名道をくぐる手前に中之郷の看板がありました。

東名道を潜って左に折れ、ぐいぐい上っていくと農村みたいな風景になり、その内、道が二股に別れます。

蒲原は左、と札が出ていました。

新幹線の線路をくぐり、暫く下るとまた上りになり、東名道を左下に見下ろします。後ろに富士山も見えます。

東名道を陸橋で渡るとき、富士山がよく見えました。

その先、急な下り坂。バイクが結構来るので、普通にしか下りられません。こわめし坂攻略法みたいに後ろ向きで下りたりも出来ないし、長男はこわめし坂をシュテムボーゲン風に下りたそうですが…普通に下ると、急坂は大変です。

やがてT字路。右へ暫く行くと、北条新三郎の墓、と書いてあったのでひょいと見に行ったら、すごい坂でした。墓は薄暗いところに建っていました。

道に戻って暫く行くと、右に諏訪神社があり、その先、大きな送水官が山の斜面に沿って下りていました。

その先辺りから蒲原宿に入ります。

入ってわりとすぐに渡辺家の三階建ての土蔵があり、見学したい方は奥へどうぞ、と書いてあるわりに何もなく誰も出てこないので、いいや、とパスしちゃいましたが…

思えばそこが「今日って月曜日?」と思った初めでした。

行く前に本で読んだら、いろいろ公開している場所は、大抵月曜が休み、と書いてあります。今日は火曜日だから休みじゃないと思ったのに。

その先に、「イルカのすましあります」と書いた看板。長男にイルカのすましを買ってきて、と頼まれたので、買いましたが…高い…10切れほど入っていて1000円。

1つだけ食べてみたけど、ロバの耳みたいに臭くて、口直しが欲しくて飴かなにかを探したけれど、売っていませんでした。

安藤広重の「雪の蒲原」の記念碑を見て、なまこ壁の佐藤家、塗り家造りの吉田家を見ました。

旅籠和泉屋跡、本陣跡を見て、その先の洋館を見るのを楽しみにしていたら、そこも休館…。

浄土真宗の寺の入り口前で鍵之手に曲がり、県道に出ます。

右折して進みますが、県道沿いにも宿場風の古い格子の家などが結構ありました。

なかなか蒲原駅に着かないなあ、と思ったら、蒲原駅から次の由比宿が近いんですね。

東名道を潜って、少し先が分岐で左に入るとすぐに、神沢川正雪酒造の煙突が見えました。

由比は「日本一桜えびの町」なんだそうです。

右に新しい立派な門があり、そこが由比本陣公園。

公園内に広重美術館がありました。疲れていて、展示はザッと流していましたが、映像があって、広重の浮世絵は、四季、四時、天候を描き分けた、という話でした。

蒲原に広重が来たのは夏なのに、広重の描いた蒲原は雪景色でした。

広重美術館の奥に茶室があり、お茶を飲むのを楽しみにしていたのに、ここも休館でした。何度読み直しても月曜休館と書いてあって、今日は火曜なのに。

がっかりして余計疲れて、おなかもすいたので、公園内の交流館のカフェで冷やしぜんざいを食べたら元気になりました。

公園の向かいに由井正雪の生家、正雪紺屋があり、私はハンカチか手拭いを買うつもりで楽しみにしていたら、暖簾が出ているのにガラス戸が開かないので、電話してみたところ、今日はこれから出掛けるから、閉めたそうです。がっかり…

その先、由比宿おもしろ宿場館の門前には、ひょっとこみたいな顔をした弥次喜多がいました。

江戸時代にタイムスリップする、というおもしろ宿場館は入館料400円。う〜ん、面白かったけど、400円は高いかなあ。

2階にレストラン「パノラマテラス海の庭」があり、ここで桜えびかき揚げとせいろ蕎麦とミニ丼(4種類から選べて、私はマグロ漬け丼にしました)を食べました。ボリュームたっぷり。美味しかった。

由比川を渡ると由比宿は終わりですが、その先も宿場町風の家が多く、桜えびの匂いが漂っていると思ったら、由比桜えび通りという名の通りでした。

桜えびの他に、しらすや蒲鉾屋も結構ありました。

今宿の左側には由比港(桜えびの水揚げ量日本一)。

少し行くと由比駅。

由比には、町の駅という緑の旗を出した店が多くあるのですが、普通の店だから、休憩に入るわけにはいかないし…トイレを貸してもらえるのかなあ。

由比駅の先で歩道橋を渡り、静かな町に入ると寺尾宿。

日陰を求めてずっと左側を歩いてきましたが、この辺りは右側が日陰。今まで道は東西に伸びていたのが、ここでは南北に伸びているから、日の位置も変わるみたいです。

倉沢の名家小池邸はお休み処になっているので入ったのですが、緋毛氈のベンチに腰をおろしたものの、ゆっくり休める雰囲気ではなく、すぐ出てしまいました。

その先のあかりの博物館で、思いがけずゆっくり休憩できました。

入館料が500円で、最初は高いと思ったのですが、コーヒーを出してくれて、灯りを消したりつけたりしながらいろいろな灯りの説明をしてくれました。特に小田原提灯や、ろうそくを持ち歩くための道具が面白かった。

火種の付け方がまた面白い。鉄より硬度の高い石で鉄を砕くことによって火花が出て、消し炭の火だねに火がつきました。

私は「防災用にどうぞ」という太い蝋燭を買いました。

もう暫く行くと、望嶽亭。ご自由に見学してください、と書いてあって誰もいないので、座敷に上がっていいのかも分からず、土間から眺めて出てきました。

その斜め前の一里塚には貸し出し用の杖が沢山置いてありました。

一目瞭然、ここから胸付き八丁の急坂。

でも、わりとリズミカルに元気に行けました。

ミカン畑の中を上がっていくのですが、急な坂に一本足のレールが伸びていて、ミカンを運ぶためのモノレール(モノラック)があちこちにあり、私は興味津々で沢山写真を撮りました。

薩た峠(「た」の時は土へんに垂で、変換できません)からの富士山がきれいとのことで、楽しみにしていったところ…ここが薩た峠と書いた場所が5〜6箇所あって、どこがどうなんだろう?

ミカン畑を下りると、一ヶ所真っ暗で怖い所がありました。

墓地に下りてきて、トイレの先、左が興津駅への近道ですが、旧東海道は右に折れてぐるりと遠回りします。

大分夕暮れになってきました。

電話で予約を入れて、今夜は静岡のビジネスホテルに泊まることにしました。

ボロボロで改修工事中の興津川橋を渡り、興津の町はかなり薄暗い中、ぐんぐん歩きました。

清水駅の近くまで来て、西友で、保冷用弁当箱入れと携帯の充電器と下着を買いました。

清水と静岡って、草薙、東静岡、静岡と3駅もあるんですねえ。

今夜の宿は静岡グランドホテル中島屋。

静岡おでんが食べたかったけれど、結局ホテル内で中華料理を食べ、桂花陳酒と貴梅酒を飲みました。

明日は宇津ノ谷峠だ。

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2008.10.29. 鬼除け十団子と宇津ノ谷峠〜幻の笠懸松

2008.10.29.

東海道五十三次歩き十一日目 前半 丸子〜宇津ノ谷〜岡部入り口

今日の行程を考えると、もっと早起きすべきでしたが、夕べは日記書きに何時間もかかり、寝たのが遅かったので、今朝はなかなか起きられず、朝食のバイキングに降りていったのは8時頃。

バイキングは洋食系を主に取りましたが、和食系からは里芋そぼろだけ1個取り、スタミナカレー(ひき肉入り)も食べました。

ホテルを出たのは8時40分頃。

8:53発のバスに乗り、丸子へ向かい、丸子橋入り口で降りました。

朝、用は足してきたのに、バスを降りた途端にネイチャーコールズミー…

丁子屋や丸子橋近辺に外に設置されたトイレはないか探してみたけれど、ありません。

歩く旅で一番困るのがトイレ。

かなりヤバイヤバイと思いながら歩いていたら、今は閉まっているけれど、トラックドライバー辺りを相手にしていると思われる小さなカレー屋があり、カウンターだけの間取りで、これは駐車場にトイレがあるのでは?と探したら、案の定、駐車場の一番端に仮設トイレ(工事現場にあるような可動式のトイレ)があり、使わせていただきました。紙切れだったので、流せるティッシュを持っていてよかった。

これで心置きなく景色や歩き自体を楽しめます。トイレへ行きたいのを我慢していると、そのことだけで頭がいっぱいになってしまうので。

青空に白い雲と緑の山がきれい。

風が強くて帽子が飛ばされそう。

国道の脇に時々旧東海道があり、脇道を楽しみながら進み、国道では久々に東海ルネサンスの弥次喜多に再会。

道の駅の宇津ノ谷峠が見えてくると、巨大な車道の陸橋がトンネル前を横切っていて、歩行者はどう行けばいいんだろう、と不安になりながら近づいていくと、歩行者は自然に右方向の宇津ノ谷峠への道に入れました。

さっきの国道に比べて車が来なくて静か。風が強くてやや寒いけれど、歩くには快適。

車道と別れて宇津ノ谷の集落への、整備された遊歩道が左側に伸びていて、道の両脇にビッシリ家が建ち並び、一軒一軒大きな屋号の看板をつけていました。宇津ノ谷は間の宿なので宿泊はできないため、屋号を掛けた家々は、軒並み茶屋だったそうで、今でもお互い屋号で呼び合っているそうです。

その中のひとつが御羽織屋。「見学の方は下の門からお入りください」とあるので、坂を少し下って下の門から入ると…

通り側にも、昔のかき氷機や火鉢、ランプが並んでいましたが、門を入ると道の両脇にいろいろな道具類が所せましと並び、中庭に入ると、ちょうど洗濯物を干しに来た奥さんに会ったので、「今、見られますか」と声をかけたら、「はい」と、おばあちゃんを呼んでくれました。

中に上がると、本にもあった秀吉拝領の羽織がガラスケースの中に展示されていて、おばあちゃんが「どうぞ足を崩してください」と言ってくれましたが、きちんと「いらっしゃいませ」と改めてご挨拶されて返礼したまま、とうとう最後まで正座していましたが、せめてリュックは下ろせばよかったな。

おばあちゃんはとても滑らかに分かりやすくいろいろ話してくれて、本で解説を見ただけでは分からない話をしてくれました。

小田原攻めに向かう秀吉が宇津ノ谷に立ち寄った時、秀吉が馬の足の草鞋を所望したそうです。御羽織屋のご先祖様にトンチのきいたおじいさんがいて、秀吉に馬の草鞋を三脚しか渡さなかったので、秀吉が訳を尋ねると、勝利を祈願して、あとの一脚はお預かりしておきます。勝って帰られた時にあとの一脚をお渡しします、と。四脚は四は死に通じるからと、縁起をかついだのでしょう。秀吉はえらく感心して、目の前にある山の名を尋ねました。当時はその山には名がなかったため、「勝山(かちやま)と申します」とお答えし、その山に一本の木が生えていたので、その木の名前も聞かれ、「勝ちの木です」と…。栗の木だったのですが、それ以来、その山の名は勝山になり、栗の木をかちぐりと呼ぶようになったのだそうです。

秀吉は大喜びで出立し、小田原攻めに勝った帰り道に、「勝ったぞ」と、鎧の上から羽織っていた羽織をおじいさんにくださったのだそうです。

それは3月のことで、まだ寒かったので、防寒着だったのですが、軽くて暖かな素材で、裏や袖口、襟元は絹、綿も軽くて暖かい絹綿、表は軽くて雨に濡れても丈夫な紙子で出来ていて、当時は紙子が真っ白、襟や袖口が真っ赤でとても派手なものだったそうです。今、全体的に灰色なのは、その後ここを通る大名が、縁起がいいからとこの羽織を撫でに来たため、大名たちの手垢で灰色になってしまい、中には紙子を破いてお守りに持っていってしまう人もいて、昭和の戦後になってから、東京の国立博物館でこの羽織を1年かけて復元してくれたそうで、下の方だけ真っ白なのは、同じ素材のものを継ぎ足し、襟や袖口の黄色い絹の布地は、一緒に保管されていた物を用い、足りない所は当時真っ赤だったということから、赤い絹の布で復元してくれたそうです。

拝領の羽織の他に、この羽織を見に来た大名が置いていった抹茶茶碗や鉄扇など、たくさんのものが展示されていました。

宇津ノ谷峠というと、「蔦紅葉宇津谷峠」という歌舞伎が有名で、幸四郎と富十郎が演じている写真付きの新聞記事も展示されていたし、片岡鶴太郎など、有名人の色紙もたくさんありました。

鬼除けの十団子(とおだんご)も買いました。

中庭にある、旅人のために開放しているトイレもお借りし、おばあちゃんに見送られながら出発しました。

すぐに階段があり、その上の坂道を上っていくと、やはり一人で東海道を歩いているのではないかと思われる女性とすれ違い、挨拶しました。

その上の坂道に出て…旧東海道は右と出ていましたが、明治のトンネルというのが気になって、左に行ってみました。

伊豆の踊り子の映画に出てきたトンネルと似ているかなあ。見に来てよかった。

また戻って、案内板を見ていたら、宇津ノ谷の町から来た女性に声をかけられました。

その人は、今日は東海道を歩いているわけではなく、なにかのウォーキング中のようでしたが、以前に東海道を日本橋から京都、さらに大阪城まで、5年何ヵ月かかけて歩いたのだそうです。

その人と別れ、急な山道へと突入。振り返る宇津ノ谷の瓦屋根の町並みは、なかなか趣がありました。

かなりの山道。箱根を思い出します。

石垣が見えてきたと思ったら、宇津ノ谷峠の地蔵堂跡だそうです。

最高地点には特に峠の表示はありませんでしたが、ちょうど「し」の字を裏返したような木がニョキッと生えていて、私はその木に宇津ノ谷峠のネッシーと名付けました。

下り斜面に入った途端に風が強くなり、ひどく心細くなりました。上り坂はぐいぐい上れましたが、急な下りとなると足元もおぼつかない。斜滑降みたいにジグザグで下りたり、膝に付加が行かないように体重のかけ方を工夫しながら下りました。

これだけ心細いと、御羽織屋で買った十団子が心の支えになります。

おばあちゃんが、「鬼除け、魔除けだけではなく、今の世の中、怖い事件がたくさんあるから、このお団子を持って歩くと、旅の安全を守ってくれますよ」と言ってくれたのを心の支えに…。

暫く下りていくと、反対側の林道の終点、ここまでは車が入れるところに、1台の車が停まっていて、PUFFYの「亜細亜の純情」を大音量で流していました。そのわりに車内に人の気配がない…

私が下りてきた山道のすぐ脇の林の中で、誰かが何かをしていました。山菜採りの時期ではないし、林業従事者ではなさそう。

何をしているのか確かめるのは怖いし見ないフリをしてグングン下り、その場を離れて大分立ってからも、あとをつけてこないかとか、後ろを気にしていました。

暫くして人里が見えてきてホッとして、「♪お団子お団子嬉しいな〜」と歌いながら下りました。鬼除け団子を持っていてよかった。お守りって、心の支えなんですね。また、十団子が本来の意味の鬼除けとしか思っていなかったら、挙動不審人物と山道で行き会った時、心のお守りの役をなしませんが、御羽織屋のおばあちゃんが、「怖い事件がたくさんあるから、旅の安全のお守り」と言ってくれたから、団子が私の心細さを支えてくれたのです。

団子を持っていようがいまいが、危険度は変わらないと言ってしまえばそれまでですが、風の吹く足元がおぼつかない急な山道に一人きりだった私の心細さを団子が支えてくれたのは本当です。そして、本当に一人きりならそんなに怖くはなかったのです。誰かがそこにいたから怖かったのです。あとで長男にこの様子を話したら、「それは確かに怖いね」と言ってました。臆病になっていた私だけの自意識過剰的反応ではなかったようです。

峠道を下りきると、右側から明治のトンネルからの道と合流し、左側から蔦の細道からの道と合流し、その先の右に鼻取地蔵堂がありました。

国道が見えてきて、宇津ノ谷トンネルのこちら側にも道の駅がありました。

大きな歩道橋を渡って右側に行くと、国道から右に入って静かな旧東海道があります。

柿を干してある家をよく見掛けました。風船カズラも見ました。お茶畑もありました。岡部は玉露の里なんだそうです。

枝豆を筵の上に広げて干してあったので、写真に撮っていたら、おばあちゃんが現れたので、照れ隠しに「こんにちは」と挨拶したら、おばあちゃんも温かい感じで「こんにちは」と返してくれました。

国道とまた合流し、少し行くと右に十石地蔵堂があったので、ひしゃげた古い石段を上って十石地蔵堂を見に行きました。お堂の右手に小さな石仏群が整然と隊列を組んで立っていました。

その先、お茶屋さん(茶店ではなく、玉露販売店)がたくさんありました。

本にはガソリンスタンドの先を右に曲がる、とあったので、ガソリンスタンドを探して歩いていたら、右に入る道を先に見付け、振り返るとその角が廃墟となった元ガソリンスタンドでした。

その曲がり角でちょうど正午。町に流れる正午を告げる音楽は、「恋は水色」でした。正午は「野ばら」が多いと勝手に思っていたのですが…それにしても「恋は水色」とは珍しい。

午後の部へ続く

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2008.10.29. 岡部おでん〜遠いバス停

2009.10.29.

東海道五十三次十一日目 午後の部 岡部〜横内 

岡部宿入り口を曲がってすぐに、笠懸の松の標識があり、ちょっと脇道に入ってみましたが、どうやらかなり上らなければならないみたいなので、時間が気になる私はパスしました。

今夜は江古田までお芝居を見に行くので、14時12分藤枝発に乗りたいのですが、岡部入り口で正午ということは、かなりヤバいので、寄り道で山に上っている時間はありません。案内板には昭和49年当時の松の写真がありましたが、その後、松喰い虫の害で枯れてしまったそうです。謡曲にもなった「西行西住」所縁の地。悲しい話です。

西行と西住は伴に修行した仲間なのですが、どこの時点からそうなったのか、西住は西行の弟子になっていました。

天竜川の渡し舟で西行はある武士に杖で叩かれるという仕打ちに合いますが、後に西住が武士に仕返しをしたところ、西行はそれを出家の身にあるまじき行為として西住を破門します。その時、西行は別れの形見として、笠と筆跡を西住に渡したのですが…

西住は西行の後を追い岡部で倒れて亡くなりました。

東国からの帰り道、西行は岡部で西住の死を知り、嘆き悲しんで、「笠はありそのみはいかになりならんあはれはかなき天の下かな」の歌を笠に書き付け、松に掛けて立ち去ったのだそうです。

岡部川を渡り、右に西行座像が保存されているという専称寺。公開していないみたいでした。

その先すぐに、つた街道(国道1号線)に戻り、道の左側に柏屋歴史資料館がありました。昔の大旅籠が最近まで住居として残っていて、90何歳のおばあさんが9年前?に亡くなってから岡部町が買い取り、補修して一般公開されています。

リュックを預かってくれて、1階部分の主な説明をしてくれました。

入って右が身分の高い人が泊まる部屋で、奥の間、次の間、中の間があり、縁付きの畳を使っていました。

向かって左が庶民が泊まる部屋で、野郎畳という縁もなく荒くガサガサの畳でしたが、今は復元のために作られた野郎畳は目が細かくて、却って普通の畳より高級になってしまったそうです。二階などは詰められるだけ詰める雑魚寝状態。二階への階段は二ヶ所あり、今は見学者のために手すりを付けてありますが、往時は手すりもなく急で段も狭く、この階段をお運びさんは着物を着て料理を持って上がり下がりしていたそうで…日本料理屋で中居をしている私は、着物を着て料理を持って階段を…とリアルに想像できて驚きました。入り口でリュックを預かってくれたわけだ。すごい階段です。

旅の七つ道具や柳こおりも展示されていて、興味深いです。弁当箱、小田原提灯、旅用燭台、算盤、書くための道具など。

台所の土間の中に井戸があって珍しいと思ったら、補修前は庭にあった井戸で、建物が道路側、歩道まで出ていたため、全体を庭側に引いたため、井戸が建物内に入ってしまったのだそうです。

旅籠をやめてからは質屋をしていたため、庭には大きな蔵が二つあり、左側はギャラリー、右側は和食処になっています。

中庭に出るとすぐ右に水琴窟があり、きれいな音色をたてていました。

左手前にトイレ、その奥が土産物売店、正面左の蔵のギャラリーでは、浦田周社(かねたか)展をやっていました。浦田周社は六代目版隈。江戸時代の浮世絵の技術を受け継いで、シュールな赤富士などが展示されていました。右の蔵の和食処の前まで行ってみましたが、松花堂弁当や特別膳などかなり高めで、自然薯のとろろ御膳は11〜4月の季節限定のようです。そばなど、手軽に食べられるものもありましたが、それなら売店のところで売っている岡部おでんを食べることにしました。

おでん、諸事情で結構待たされました。帰りの電車の時間が気になるんだけど…。

もう普通列車は諦めて、新幹線に乗ろうかな。それだと藤枝15時22分に乗って静岡でこだまに乗り換えて…

岡部おでんは普通に煮てあるおでんに味噌ダレをかけて、細かい鰹節をかけたもので、私はかなり好きです。けっこうたくさん入っていて、おなかも満たされました。

庭の右側、私がおでんを食べている売店の正面側は何かの体験工房。その手前の左角に、昔の身分の高い人用の駕籠が置いてありました。

柏屋を出て、すぐ先、左側に本陣跡がありました。その横は公園になっていました。

少し歩くと、右側に素敵な酒造があり、初亀という銘柄を売っているようでした。酒造のすぐ先を左に入り、静かな宿場の町並みを進むと、小さな流れの小さな橋に、「小野小町姿見の橋」がありました。歌人であり美女として有名な小野小町が晩年旅の途中で岡部宿に泊まったそうです。この橋を通りかかった時、夕日に映える西山の美しさに目を止め、ふと足元の水に自分の姿が映っているのをみて、長旅で疲れ、かつての面影の失われた自分の老いた姿に嘆いた、という話が残っています。

本には、小町は絶世の美女だったからこそ嘆きが強かったのだろうと書いてありましたが…それは男性の意見だと思いました。それなりの女性でも、疲れてボロボロの自分と対面するとショックなもんですよ。針の先で突いた小さな傷だって痛いのと同じです。

その先左側に光泰寺入り口の案内があり、聖徳太子立像がある、と書いてありましたが、時間もないし、西行座像みたいに見られないかもしれないのでパス。

道が突き当たり、少し右に行くとつた街道に出ます。岡部町役場や五智如来像が右にありました。

少し進んだところにバス停があったので、乗って藤枝に行こうと思いましたが、まだ時間はありそうなので、タイムリミットぎりぎりまで歩こう、と思いました。

つた街道を行くと、松並木があり、右に渡ると、これより岡部宿の石碑。つまり岡部の京方見附ですね。

バイパスをくぐり、右斜めに入る旧道を行くと、家々にまた屋号を大きく書いた看板がでていました。間の宿の横内。

朝比奈川を渡り、暫く行くと、またつた街道に出て、歩道橋で左側に渡り、左斜めに入っていくと大きな松ノ木と標柱がありました。

そろそろバス通りに出ないとまずいので、つた街道(国道1号線)に出て、バス停を求めて歩いたのですが、道の反対側にはバス停があるのにこちら側にない。なぜ?

バスが1台私を追い越して行きました。今が13時45分だから、14時にはバスに乗らないと。

右側に黄色い稲穂が見えたと思ったら、「神撰米」の札が立っていました。

歩けども歩けどもバス停がない。町中は小刻みにバス停があるけれど、人家のない場所はバス停の間隔が広いんだよね。

やっとありました。見付けました。八幡宮前バス停。13時54分。57分のバスがある。よかった。

バスは3分ほど遅れて来ました。

次回東海道五十三次歩きに来た時に通るであろう藤枝の町中を通り、駅前にはサッカーのユニフォームを着た犬の人形が3匹いました。

藤枝着が14時15分。さっき私を追い越していったバスに乗れていれば…近くにバス停があれば…新幹線を使わなくても普通列車でお芝居に間に合ったのに…

藤枝から静岡に行き、新幹線に乗る前にお土産に静岡銘菓「こっこ」と駅弁「特別鯛飯弁当」を買い、ひかり号に乗りました。

富士川から富士山がよく見えました。

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2008,11.04. 強い風の中をゆく〜染め飯、酒小饅頭、とろろそば〜越すに越されぬ大井川

2008.11.04. 晴れ

東海道五十三次歩き十二日目 八幡〜藤枝〜島田〜金谷

朝5時半過ぎに出掛けて、静岡で乗り換えて藤枝へ。

藤枝では喜久屋という弁当屋で名物、瀬戸の染飯(そめいい)を買いました。強飯をクチナシの実で染めた旅の携行食で、疲れた体を元気にする作用があるそうです。

本でもオススメになっていたし、長男も是非買うべきだ。朝の内に電話予約しておくとよい、と言っていました。私は朝の内に買いに行くから電話はしなかったけれど、普通のパックだったので、江戸時代から使われている版木で刷った紙でくるんでもらいたかったら予約すべきなんだろうな。きっと。

また藤枝に戻り、前回見たサッカー犬人形をまた見ました。

9:31のバスに乗り、前回の終点の近く、「従是東巌村領」の木の柱の真ん前のバス停で降りたのが9:51。

この前と同じく歩道橋を渡り、左側の旧道へ。この辺は鬼島という地名なんですね。

葉梨川を渡り、道は二つに分かれていますが、右側の川沿いの道を行きます。

15分ほどで大クスのある須賀神社。

その先で「東海道まわり道」の看板に従って右側に行くと、すぐに史蹟鐙ヶ渕と観音堂があり、観音堂には首をかしげている地蔵がいました。

この辺りは新しく道が作られ始め、旧東海道が分かりづらくなっています。

国道に対して斜めに突っ込む形の旧東海道は、松の木が少しはあって、ここがそうなんだ、と分かりやすいのに、工事のせいで以前のように斜めに国道を突っ切れず、まず国道を向こう側に渡り、左に折れて、少しして、右に入ると静かな道。

領主番所跡の柱を見て、もう少し行った右手に成田山新護寺。昔、宗尊親王が将軍となって鎌倉に行く途中、乗っていた車の左輪が壊れ、修理している間、親王が休息していた所が成田山になり、壊れた左輪を埋めた場所に左車神社が建てられました。

成田山の境内にはベンチがたくさんあったので、染飯を食べました。これは美味いや。10時40分頃です。

ボケ除け像の頭とカボチャを撫でてボケ防止を祈念した後、トイレも借りました。

少し歩いていくと、白子という地名となった由来書がありました。徳川家康を助けた小川孫三(三重県鈴鹿市白子の出身)が住むようになったからで、その小川孫三の子孫でしょうか、小川眼科の入り口近くに由来記碑があります。

その先、蓮生寺には県指定銘木のイブキがありました。

蓮生寺の裏手に蓮華寺池公園があるとのことで池を探しに行きましたが、山の上からぐるりと遠回りしてしまいました。

おかげでズボンの裾にたくさんの細かい草の実がくっついていて、取ろうとしたらひどくネバネバしていて、1回手を洗ったぐらいでは取れない…

蓮華寺池には足漕ぎボートもあり、対面の山の斜面には巨大なローラー滑り台が見えました。

若一王子(にゃくいちおうじ)神社を見て、旧東海道に戻り、西へ。

その先の町内は、店の名前を屋号風に板に書いて掛けてあり、例えば自転車やは「ちゃりんこみせ」。

西木戸に当たるところの正定寺境内の本願の松の素晴らしさに、写真を何枚も撮ってしまいました。境内には他に、ぎっしり隙間なく並べられた石仏群が目を引きました。

12時過ぎに瀬戸川の勝草橋を渡り、渡ったすぐの右手に一里塚。

このあたりから松が点在し始めます。

国道1号を突っ切ったあたりから商店街は終わり、郊外風景。

24時間営業の西友に立ち寄り、トイレを借り、中に清水銀行が入っているのでお金をおろし、甘いものが飲みたくて探したけれど結局オロナミンCを買って飲みました。

その先の風景は、松並木と刈り取られた田んぼと…なぜ青々した田んぼがたくさんあるのか…どうやら、一旦刈り取った株から、青い芽が出てきて伸びているらしい…

左に田中藩領傍示石蹟、六地蔵があり、またその先に古東海道との分岐(追分)がありました。

靴用ロッカーみたいなたまごの…自販機というよりは吊るし売りに近いものがありました。志太のうみたてたまご赤玉の小玉が10個で300円。うみたてじゃなければ200円でした。

東海道線が近くを走るようになりました。

13時過ぎに瀬戸の染飯茶屋跡。

すぐ横に千貫堤。大井川が度々氾濫するので一千貫の労銀をなげうって大工事したことからこの名がついたそうです。

そのすぐ先に酒屋があり、裏の大きな蔵には喜久酔と書かれていました。普通の街道沿いの家風で店らしくないのですが、すぐに酒屋とわかるのは、酒樽がビラミッド型に積んであるのと、酒屋のマークの杉玉がぶら下がっています。今まで見たことのある杉玉は年期が入って渋い茶色をしていますが、ここの杉玉は緑色。作りたてなのかなあ。

栃山川を渡り、左側に上青島の一里塚。

島田市に突入したのは13:38。

暫くは国道1号を歩きましたが、六合駅の近くで旧街道は右に入り、その辺りは阿知ヶ谷。

かなり疲れてきて、休憩したいなあ、と思っていたら和菓子屋があり、ショーウィンドウを覗こうとしたら自動ドアが開いてしまいました。中に入って、島田名物の酒小饅頭はバラ売りしてもらえるか聞いてみたら、3個で105円だそうで、お茶も入れてくれたので、畳敷きのベンチに座ってしばし休憩。酒小饅頭は美味しかった。疲れが癒されて元気が出ました。

右側に島田一里塚、14時半。その先の左に刀匠の碑。一緒に問屋場跡。

一旦島田駅まで行ったのが14時46分。

昔の旅籠だったやぶやがどじょうなどの料理屋をしているというので見に行きましたが、店が開くのは17時でまだまだなので、お3時に食事できるところを探して歩き、よし田という蕎麦屋に入ったのが15時少し前。

とろろせいろ700円を食べました。待ち時間に今夜の宿を考えました。

日坂までは上り坂ばかりで、行っても泊まるところがなさそうなので金谷に泊まることにして、百楽園に予約を入れました。

大井神社は鳥居改修工事のため正面参道からは入れず、脇から入りました。

島田の大井神社の帯祭りは3年に1回しかやらないので、昔、静岡に越してきたばかりの頃に見に来たことがあります。

境内には石の太鼓橋、帯塚、島田祭り大奴の像などがありました。

大善寺では梵鐘を見て、先を急ぎ、大井川の川越遺跡の町並みへ。

博物館は定休日でしたが、番宿、川会所などを見ました。川会所の庭には、芭蕉の句碑「馬方はしらじ時雨の大井川」

番宿には、川越人足の人形や、島田にしかない、人足用の権三わらじが展示されていました。

朝顔の松を見て、大井川川原に入ったのが16時20分過ぎ。日はもう今すぐにでも山の端に隠れそうでした。

江戸時代はこのまま川を越えたのですが(川越人足に輿や梯子や肩車などで渡してもらった)、今は北に行って大井川橋を渡ります。

川原のジョギングロードをそのまま進みました。金谷の方からSLの音が聞こえてきました。

大井川橋の手前で、右上を走る堤防道に上れるようになっていて、いよいよ大井川橋を渡ります。

学校帰りの高校生がビュンビュン自転車で通り、今日も私は高所恐怖症。下を(川を)見ずに、進行方向、終点を見ていくと怖くない。

橋の渡り始め16:33、渡り終わり16:48。15分かかりました。

金谷側にも川越え番宿街は昔は当然あり、絵看板で説明されていました。

茜雲と三日月を見ながら進みました。

大井川鉄道の踏切が閉まったので、SLを期待しましたが、普通の車両でした。

踏切からは、新金谷駅が見えました。

薄暗くなってきた道を金谷駅へと向かいます。

暗くなってきても、佐藤本陣跡、柏屋本陣跡、一里塚はちゃんと見つけました。

金谷駅前着17:21。

百楽園までは山道で最初真っ暗。携帯電話の懐中電灯機能を使おうとしても、普段あまり使わないし暗くて脇のスイッチが見えなくて、フォト機能やら、簡易メモやら、違うところを押してしまったり、マイクロSDカードの蓋を開けてしまい、こんな真っ暗なところでSDカード(それもチビ)をなくしたら大変!と焦りましたが、なんとか懐中電灯機能を使えて、無事山登り。これからは懐中電灯も必要だね。暗くなるのが早いから。

たどり着いても入り口がわからずウロウロ。

やっと着いたのが17時43分。

部屋からは夜景がきれい(金谷の町は暗いからチョボチョボだけど、それでもきれい)でした。

先に風呂に入りましたが、一緒になった若い女の子、学生さん?が座る台を取ってくれたり、シャンプー、リンス、ボディーシャンプーも貸してくれました。

夕食は、値段が安いのに豪華。

つぶ貝、枝豆、肉団子

鮎塩焼き、何かのぬた、牡蠣の貝殻グラタン、笹巻きの物は食後に回して…

刺身は、マグロ赤身、トロ、鮭

天ぷらは、アスパラガス、椎茸、海老、茄子、さつま芋

鍋は、鶏、鱈、筍、舞茸、白菜、昆布

きんぴらごぼう、しば漬け

それにビールを頼んだら、サッポロ大瓶が来ました。

ご飯、味噌汁

ご飯が美味い!金谷駅に「お米の郷」って書いてあったもんね。

食後に回した笹巻きのお菓子は、全体が卵形で黄色っぽく、周りが葛で、中に卵のクリームのような柔らかく甘く滑らかな物が入っていて、とても美味しかった。

お茶も、茎茶で美味しい。

夜、筋肉痛が出てきました。今日の歩きの筋肉痛というよりは、前日にロックソーランの、かなり足腰を使う練習をしたので…。明日、大丈夫かなあ?

今夜の宿賃は、一泊夕食付き、サッポロ大瓶も入れて7,508円でした。

本日の歩数は39,439歩、距離は28kmでした。

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2008.11.05. テーマは茶畑と石畳〜命なりけり「小夜の中山」

2008.11.05.

東海道五十三次歩き十三日目 金谷〜小夜の中山〜日坂

今日のハイライトは、
1、箱根以外はここだけ、の金谷坂と菊川坂の石畳。
2、茶畑の中の道
3、箱根、鈴鹿に次ぐ難所、小夜の中山
4、東海道どまん中、袋井へ

朝は7時に起き、ぐうたらぐうたら支度していたら、結局出立は8時半を回ってしまいました。

百楽園は本日定休日のため、朝食はありません。支払いは夕べ済ませました。

支度して鍵をフロントに置いてカーテンの閉まっている玄関から出ました。

大衆演劇のポスターに見送られながら出発。百楽園は大井川娯楽センターと併設施設で、11月12月はポスターの劇団大川の出し物をやっています。座長の椿なにがしを始め、主な出演者3人のアップは、なかなかイケメンで、京本政樹に似ています。

夕べ真っ暗な中、上ってきた山道、朝見てもすごい道でした。

金谷駅前を通りすぎ、昨夕見た一里塚に戻り、駅横のガードを潜って線路の向こうに出ます。

ここでちょっと寄り道。長光寺の芭蕉句碑を見に行きました。

「道のべの木槿は馬に喰はれけり」

「野ざらし紀行」です。学生時代、旅の文学というゼミをとり、最初にこの「野ざらし」をやったので懐かしく、だからこそ、わざわざ寄り道して見に行きました。でも、大した寄り道ではありませんでした。

その先、常夜灯がありましたが、まさに松茸でした。

車道を横切ると、金谷坂の石畳。平成の道普請でよみがえった全長430メートルの石畳。

上り始めてすぐに、右に石畳茶屋。

朝御飯がまだだったので、ここで何か食べよう、と中に入りました。

茶屋はいつもは二人でやっているけれど、今朝は諸事情で一人しかいなくて、支度中でバタバタしていました。

磯部餅と煎茶セットを頼みました。磯部が250円、煎茶セットが二種類の羊羹が一切れのさらに半分ぐらいずつ付いて300円とはいい値段だと思ったら、ここら辺で採れる最高級のお茶を急須に入れてきて、お湯をポット一杯に入れてくれてあり、何杯でもどうぞ、5〜6杯は美味しく飲めます、と。

一煎目はお湯を60度ぐらいに冷ましてぬるめに入れると甘味が出る。二煎目以降は少し高めの温度でもいいようです。

やぶきた深蒸し茶で、確かに4煎目まで美味しかったので、買って帰りました。

湯呑み茶碗も地元の志戸呂焼きで、この風合いはどこかで…と思ったら、志戸呂焼きの前身は瀬戸からこの地に職人が移り住んで始まったそうです。

奥に資料室の展示もあり、興味深いものもたくさんありました。駕籠が前後で高さが違うと思ったら、この辺は急坂が多いので、この方が乗り心地がいいそうです。

話し好きの人で、わたしが夕べは百楽園に泊まった話をしたら、金谷にはいい旅館がなくて、島田に戻って泊まる人も多く、百楽園が一番いいし、急でも断らないそうです。他に二軒ありますが、一軒は商人宿で長逗留の人が多くてフリの客は断られ、もう一軒はおばあちゃんが一人でやっていて、泊まれた状態ではないそうで…

わたしが石畳茶屋を発つ時、「是非またいらしてください。五十三次を完歩した暁にでも」と見送ってくれた時は、鼻の奥がツウンとしてしまいました。また来たくなるよね。

金谷坂の石畳は歩きやすい。滑らない。箱根では雨と雨降りの翌日でツルツルだったからなあ。滑らないから、土踏まずを刺激して気持ちいい。

途中にすべらない地蔵がありました。金谷坂の石畳は滑らないので、受験などの合格祈願によいとか。

急坂を上りきると、地元の方達が(シルバーボランティアと見た)石畳やその上の道の草刈り、草抜きをしていました。

ご苦労様、というのは上から見下した言い方だそうだから、年上の方々には使えないし、いきなり「ありがとうございます」も変なので、「こんにちは」と挨拶しました。

この先、菊川坂石畳でも草取りをしてくださっていて、私たちが東海道を歩けるのも、たくさんの方のおかげなんだな、と改めて思いました。また、快く送り出し、頑張れと言ってくれる子どもたちのおかげでもあります。

さて、金谷坂石畳を上りきり、進行方向は右側ですが、少し左に戻ると、芭蕉句碑があります。「馬に寝て残夢月とおし茶の烟」

進行方向は南東。茶畑の中の道を進みます。

諏訪原城跡に寄り道しました。自然を巧妙に利用した、これだけきちんとした形で大規模に残っている山城の跡は珍しいそうで、国指定史跡となっています。

三日月堀が珍しいそうです。

ちょっと見るつもりが、三の丸、馬場、二の丸、本丸、井戸などなど、結局全部見て回ってしまい、かなりの時間を食った上、写真も撮りまくったため、あとで携帯のバッテリー不足で苦労する羽目になります。

諏訪原城跡を出て、菊川坂石畳に向かう途中、東海道を歩いていると思われる、中年男性とすれ違い、挨拶を交わし合いました。

菊川坂石畳に入る前に、トイレに行きたくて…実は諏訪原城跡を回っているときから行きたかったのですが…

ちょうど「木もれび」というログハウスの珈琲店があり、さっきの石畳茶屋で煎茶を何杯も飲んでお腹タポタポで、コーヒーを飲みたい訳ではなかったのですが、もうたまらず、店に入って「こもれびブレンド」(400円)を注文して、すぐにトイレへ。

木の肌を生かした綺麗なトイレで、ポプリの香りがしました。

コーヒー、飲めないかも、と思ってましたが、美味しくいただきました。ここら辺りの店や工房が書いてある地図のチラシもいただきました。

店を出てからも、暫くはポプリの香りがしていました。

菊川坂石畳は下りのため、歩きづらかったけれど、何か歌いながらリズムをつけて歩きました。

間の宿菊川に入るとすぐに、藤原宗行の詩碑があるという道標を見ましたが、やや遠い。石畳茶屋や諏訪原城跡でのんびりしすぎたからなあ。もう11時を回っていたので、この寄り道は諦めました。

このときのテーマソングは「♪もう恋なんてしないなんて〜言わないよぜったい〜」

菊川の町にも、あの劇団大川のポスターが貼ってありました。

これから道は小夜の中山に向けて上りになります。こわめし坂真っ青の急坂を上り、丘陵の尾根道に出ると、坂は上ってはいるものの、茶畑の中の最高に気持ちいい道。風と日差しを胸一杯に受けて、ちょっと両手を広げてタイタニック風に深呼吸して…

一人旅は気楽。ペースも好きでいい。やたら速く歩くときもあれば、のんびりのびのび、の時もある。

幸せだ。

今日を無駄にしたら、もっと生きたかった人に申し訳ないもの。滝から落ちて命を落としたSちゃんや、既に同級生も何人か亡くなっている。

そう言えば、今日は心配していた筋肉痛、平気みたい。夕べが一番辛かったかな。

とはいえ、歩きには影響はないけど、トイレは洋式が嬉しいです。

さて、いよいよ小夜の中山。西行が「年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」と歌った難所はいかばかり。

まずは久延寺。掛川城主、山内一豊が、関ヶ原の合戦に向かう家康を接待した茶室跡。家康手植えの五葉松。そして夜泣き石。昔、妊婦が山賊に殺されたが、お腹の子は助かり、久延寺の住職が水飴で育てたそうですが、殺された母の霊が石にこもって毎夜泣くので、読経して慰めたそうです。

寺の前にコミュニティセンターがあり、「命なりけり学舎」と書いてあるのが面白いと思いました。

その斜め前に扇屋。江戸時代創業の茶屋で、子育て飴を売っていますが、今日はお休みでした。

その向かいの小夜の中山公園に、西行の歌碑があります。すごく大きい切り株に見立てた歌碑で、大きいので回りをぐるぐる回らないと読めません。

また暫く行くと、小夜の中山一里塚がありました。

この道沿いには、小夜の中山に関する歌碑があちらにもこちらにもあって、いちいち写真を撮っていたので、かなりの数になったし、携帯のバッテリー残量にも影響が…

小夜の中山は、かなり時間がかかりました。

気持ちよく坂を下っているとき、初老の東海道五十三次歩きの人とすれ違い、挨拶しました。「今日はどこからおいでました?」と聞かれ、金谷から、と答えると、それはすごい、というような反応。「今日はよい天気だで、よかったですね」と言われ、「はい」とにこやかに答えました。あちらは上りだったので、話している間、休憩体勢でしたが、私はちょうど、少しピッチを上げかけていたので、足は止めずに挨拶しました。一旦足を止めると、戻すのが大変なんで、ゆっくりであっても足は止めない。

暫く行くと、プッシュー、シャーッと大きな音。何かと思ったら、茶畑にスプリンクラーで水が撒かれていました。

涼みの松、妊婦の墓、夜泣き石跡などを過ぎ、いよいよ七曲がりに突入。こわめし坂級で、さらに急カーブで。

坂を降りきる頃、国道1号線を見下ろし、どんどん下って、今度は潜り、日坂宿へ。

昔の面影を残した町並みで、屋号を書いた木の札が掛かっています。

本陣跡は幼稚園になっていました。

脇本陣の黒田屋、元旅籠の萬屋、明治になって日本初の郵便局のひとつになったかえで屋などがあり、かえで屋の裏にはトイレや蔵、それに芭蕉が生えていました。

土日祝日には公開されている、元旅籠の川坂屋は、今日はしっかり閉じられていました。

携帯のバッテリーがあと1になったので、小まめに電源を切るようにしました。

町外れの高札所跡は圧巻でした。

国道に出て、歩道橋で反対側に渡ると事任(ことのまま)八幡宮。かなり立派な神社で、巨大なクスノキと大杉がありました。

坂上田村麻呂が興したと伝えられ、願いが「ことのままにかなう」と評判がたって、賑わったそうです。

本殿前に記帳ノートがあったので、旅の記念に書いたら、何を願ったかも書く欄があり…

前のみんなの記入を見たら、大願成就、最善最良、家内安全、世界平和、中には以前願ったことがかなったらしく、ありがとうございました、と書いている人もいました。

わたしは…やはり前に書いている人がいたので、旅の安全、と書きました。

後半へ続く

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2008.11.05. そして、「どまん中」へ

2008.11.05.

東海道五十三次十三日目 後半 (日坂)〜掛川〜袋井

暫くは国道1号を歩き、バイパスをくぐり、自然に旧道に入り、歩いていたら、右側に伊達方一里塚。

ここで挨拶した地元のおじいちゃんが、「連れがいないじゃないか」と聞くので、「大丈夫です」とにこやかに返事しました。

また国道1号線と合流。少し行くと、また自然と旧道に入り、次に国道と合流してからは、当分国道歩き。

お腹がすいた〜。たこ焼き、ハンバーガーショップがあったけれど、座る場所がない。トラックの運転手などが買って車の中で食べていました。

私はやはり座って食べて休憩したい。

その先にとんかつの店があったので、そこに入ることにしました。

ランチタイム2時まで、と書いてあったので、時計を見たら、14時10分。残念。

豚カツよりもチキンカツの方がさっぱりしているかな、と思って、チキンカツ定食を頼みました。

チキンカツが大きくて、ウドンがちょっと付いていて嬉しかったのですが…

油も問題だし、口に合いませんでした。

失敗した。

歩く途中でソイジョイをいつか食べて、パサパサで閉口して、歩くときにはなめらかな物を、と反省したことがありましたが、今回は、こんな油っこいものを途中で食べるべきではない、と反省。この後、胸焼けというより、胃もたれして、歩いていて気分が悪くなりました。

さて、道はその先、成滝で国道と別れてやや静かな道へ。

葛川一里塚を左に見て、その先、新町七曲がりを探したのですが、どこで曲がるのか分からないまま進んでしまいました。

ちょうど分岐ごとに下校の中学生が渡ってきては左に入っていくので、たぶんそれで、見逃したんだな。

これ、絶対来過ぎた、もうこの辺、掛川駅じゃないか、と思う辺りで曲がってみたら、ピッタリ掛川駅に着きました。

この時、15時10分頃。

さあ、ここが運命の分かれ道。今日は掛川までとして、戻って七曲がりをやり直したり、掛川城を見たりするか…

いやいや、足を伸ばして、東海道どまん中、袋井を目指すために、七曲がりは諦めるか…

いっくら旧東海道にこだわっても、今となっては昔の道は歩けなくてずれているところもあります。

それならば、細かいところ、あそこを歩かなかったのだから、いくら京都まで行っても、制覇とは言わない、なんてことは誰も言えませんよね。だって、みんな橋を渡るでしょ。昔は自力で徒(かち)渡りか、人足に渡してもらうかだったし、今の橋と当時の渡し場はズレている。

宇津ノ谷峠は地滑りで昔の道は歩けないから、今の山道は少しズレている。

歩きたくても工事中で立ち入り禁止の所もあった。

と言うわけで、本日は新町七曲がりは無視して、袋井を目指すことにしました。

連雀沢野屋本陣跡、円満寺の門、常夜灯を見て…残念だったのは、平将門十九首塚を見落としたこと。歩くピッチに拍車をかけて、ターボスイッチ入ってたからなあ。

今日は、昼食前までは、小夜の中山越えで速度が遅かったから、いつもだと時速4.8kmぐらいなのに、今日は時速4.4kmぐらいで、「おそっ」と思っていたのに、掛川から袋井まで頑張って飛ばしたため、袋井に着いてから見た、今日の平均時速は5.05kmで、その前が遅かったことを考えると、かなり速く歩いたことになります。

掛川からの道、逆川を渡り、その先の二瀬川で国道にぶつかり、しばらく国道を歩き、倉真川を大池橋で渡ってすぐ、国道と別れて左へ。

天竜浜名湖鉄道のガードをくぐり(左上に西掛川駅が見えます)、暫く行くと、左に大池一里塚跡。

その先、歩道がなくなり、結構交通量が多くて、注意が必要。

国道1号をくぐると、T字路になってしまい、本の地図は直進になっているので困ったけれど、右はあり得ないので左に曲がって少し歩くと右に入れる道があり、なるほど、この程度なら地図上ではまっすぐ、にかかれちゃうんだな。

その先、今度は東名高速道路をくぐり、ちょっと先に善光寺があり、東海道の真ん中にあることから、仲道寺と呼ばれています。

また、その先、原川の松並木を見ながら突き進みます。

間の宿原川の看板を見て、その先、同心橋を渡る時は、手前の四つ角で向こうに渡りますが、地下道を通って渡るか、道の手前から渡るなら、二回信号を渡ります。

太陽がもうすぐ沈む。昨日も川を渡ったのはこんな時刻でした。

同心橋を渡り、左へ行くと、道がぐるっと回りながら下っていき、すぐ下に、花茣蓙公園があって、トイレがあり、東海道どまん中袋井まで4.2km、と書いてあり、まだまだ遠い。

さらにぐんぐん歩いていき、松並木のあたり、土塁の下の歩道をグイグイ。

ここだと自転車も来ないから、飛ばせました。

17時のチャイムが鳴りました。曲は「家路」。

昨日の金谷の17時のチャイムは「峠の我が家」だったなあ。

暫く行くと、左に妙日寺、その先、東袋井小学校に一里塚。

東袋井小学校の門に、「東海道五十三次 どまんなか東小学校」とあったのを写真に撮ろうとしたら、電源を消したりつけたり、だましだまし使ってきた携帯のバッテリーがいよいよ切れてしまい、まず携帯を電池式の緊急充電器で復活させ、9月13日の東海道五十三次始めの一歩の日に撮って以来リュックにしまいっぱなしだった、使い捨てカメラを取り出してどまんなか東小学校の看板の写真を撮りました。

暫く行くと、国道1号線に出ました。

ここで再び国道と別れて左斜めに入っていくのですが、暗いせいで道が分からなくなりました。

うろうろ迷って、交差点名が「和橋北」だったので、地図を見たら、かなり南に来すぎていたので、北上してうろうろしている内に、どまん中茶屋にたどり着きました。

どまん中茶屋の前を箒で掃いているおじいさんがいて、私が使い捨てカメラでどまん中茶屋の写真を撮っていたら、「撮ってあげましょう」と、私がどまん中茶屋の入り口にいる写真を撮ってくれました。

中に入ってリュックをおろして座ったら、おじいさんがお茶を入れてくれました。

私はてっきり、どまん中茶屋って、団子などを有料で食べる店だと思っていましたが、どこにもメニューがなく、おじいさんは梅干しや漬け物やおつまみ煎餅などをずらりと並べてくれたので、梅干しをいただきました。

おじいさんが、袋井の案内チラシと、東海道400年記念に作られた、袋井今昔の巻物をくれたので、チラシに載っているどまん中茶屋のところを見て、ここは無料休憩所で、地元の方がお茶を出してくださることが分かりました。

テレビで、あの天才作曲家TKが逮捕されて車に乗せられているニュースをやっていました。

おじいさんが小夜の中山は怖くなかったか聞いてきたので、昼間の明るい時間だったから、と答えたら、おじいさんが言うには、金谷から来ると明るい内に小夜の中山を越えられるからいいが、こちらから行くと、小夜の中山で暗くなる。みんな箱根や鈴鹿は難所であることを調べて行くが、小夜の中山が箱根や鈴鹿に匹敵する難所であることを知らないで怖い目に会うのだそうです。

私も小夜の中山は西行が「命なりけり」と歌ったことを知っていただけですが…

そう言えば、私は気持ちよく風と日差しと茶畑を堪能して楽しく歩いたけれど、茶畑の中の道、街灯が一本もなかった。人家も扇茶屋以外何もなかった。暗くなったらさぞかし遠くて怖いだろうなあ。

鈴鹿越え、一人で大丈夫かなあ。

mixiの東海道コミュニティで、女性一人旅は、峠越えは避けて隣接する国道を通る。ブログやmixiに詳しい日程は前もって発表しない方がいい、と書いてありました。

私はいつも急に東海道行きを決めるから、たまたま書いていなかったけど、これからも気を付けよう。鈴鹿はなんとか長女を口説き落として、もう一度二人旅したいなあ。

どまん中茶屋のおじいさんは、私が今日は帰る、と言ったら、「じゃあ、次に来るときは、また袋井に来るのでしょう。木造の常夜灯は是非見てください」と教えてくれました。

記念の記帳をして、おじいさんに駅への行き方を教えてもらって、どまん中茶屋をあとにしました。

旧東海道を進んで本陣前を通って、宿場公園のある信号の所を左に曲がってまっすぐ行けば、15〜16分で袋井駅。

18時29分発の沼津行きに乗り、混んでいたので立っていましたが、掛川で座れたので、簡易充電器で復活した携帯で今日撮った写真の整理をし、日記の下書きを始めました。

静岡で東京行きに乗り換えました。来たときと同じ、特急車両なので気持ちいい。

地元駅に着いたら22時少し過ぎ。

夕飯を食べていなかったので、モスへ行ってずっと日記の下書きを書いていました。

途中までしか書けなかったけれど、23時半に家に帰りました。

本日の総歩数、47,679歩、歩いた距離は34.3km。お疲れ〜♪

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2008.11.10. 雉も鳴かずば撃たれまい〜コイキングレベル100!

2008.11.10.

東海道番外編  補遺の小さな旅Ⅰ 神奈川台の坂〜保土ヶ谷&戸塚益田家〜戸塚駅

今週は休みが多いのですが、毎晩用事が入っていて、東海道五十三次歩きの続きで袋井までは行けないので、今までの東海道ウォーキングで、道を間違えたり、写真を撮らなかったり、心残りだった辺りを再訪する、小さな旅を企てました。

今日行ってきたのは、神奈川駅から保土ヶ谷までと、戸塚の益田家(巨大もちの木がある屋敷)から戸塚駅まで。

曇って11月末〜12月初旬の気温という寒い日でした。

午前中は銀行へ行ったり、やることもいろいろあり、昼をすませて電車に乗り、京急神奈川駅に降り立ったのは12:28。

トイレで身支度(コンタクトレンズを入れたり)を済ませ、歩き始めたのは12:36。

まず青木橋で線路を渡り、少し左へ行ってから、国道1号線及び県道83号線と分かれ、右に曲がって旧東海道を進みます。

この辺りは☆紗的東海道五十三次ウォーキング二日目、9月16日の夕方に歩いています。

すぐに上り坂。広重の絵にも描かれた台の坂。広重の絵だと、坂のすぐ左が海になっていて、当時は京急や東海道線の線路も県道も国道も、海の底だったことが分かります。また、その広重の絵には、台の茶屋と呼ばれる茶屋が建ち並んでいます。当時の面影は薄れ、界隈マンションが建ち並んでいますが、滝川と田中家の二軒が今も料亭として営業しており、滝川の壁には広重の絵のレリーフが埋め込まれ、田中家の前にも説明の看板があります。

前回、滝川の写真は撮ったのですが、田中家は撮らなかったのが心残りだったので、今日はしっかり撮りました。

田中家は広重が描いた当時は「さくらや」という名前でした。建ち並ぶ茶屋の中で、なぜさくらやだけ名前が書かれているかは、由比の広重美術館に行った私には分かります。浮世絵は、広告も兼ねていたのです。つまり、さくらやは広重に広告料を支払って、それで広重は東海道五十三次の絵の茶屋の中で、さくらやだけ名前を書いている、という訳なんです。

田中家の歴史でもうひとつ特筆すべきことがあります。坂本竜馬の妻だったおりょうさんが中居として働いていたのが、この田中家だったそうです。おりょうは客あしらいもうまく(泥酔した客をうまく帰したり)、勉強家で英語にも堪能で、外国人の客にも喜ばれていたそうです。

しかし、おりょうは母も弟も亡くし、天涯孤独の身で、次第に酒に溺れて茶屋の女将も困っていたそうで、そんな折り、横須賀の商人西村なにがしと意気投合し、当時37歳だったおりょうは横須賀へと嫁いでいきました。おりょうが辞めた後も、馴染み客が「今日はおりょうはいないの?」と度々聞くので、中居たちが「なによ!」と嫉妬した、という逸話も残っているそうです。

看板にはおりょうの話しか出ていませんでしたが、田中家は権八茶屋とも呼ばれているそうで、歌舞伎などの鈴ヶ森で有名な白井権八(本名は平井権八)がとろろ汁で飯を十杯も食べたという逸話もあるそうです。

東海道五十三次歩きの初日に通った鈴ヶ森。雲助に絡まれ、正当防衛とはいえ、雲助殺しをした白井権八を髭題目の碑の前で、「お若えの、お待ちなせえ」と呼び止めた江戸の剣客、幡随院長兵衛。白井権八の「雉も鳴かずばうたれまいに」も合わせて名台詞の一場面。実際には、幡随院長兵衛は平井権八が生まれた頃には既に殺されているので、二人が出会った事実はないようです。

道はこの先、暫く前回の通りで「あ、ここは見覚えある」と楽しく見ながら歩きました。

坂は、前回来た時、きつく感じたのに、東海道を半分まで歩いた今日(こんにち)、幾多の難所を越えてきて、台の坂など屁のカッパ。

実は、東海道の最初の難所が権太坂と聞いた時、台の坂は?と思ったのですが、歩き慣れていた江戸時代の人にとって、台の坂はなんでもない坂だったのでしょう。

道はこの前間違えた立体交差の壁に突き当たります。私は「ここが間違えるポイント」として写真にまで撮ったのですが…

さらにまた危うく間違えかけてしまうという因縁の立体交差!と思ったのですが…

実はその先、浅間神社下で東海道案内地図を見たとき、そもそも、その前から私が間違っていたため、二重三重に間違いを重ねただけで、ちゃんと旧東海道を歩いてくれば、間違えずに来れたはずであるという事実を知り、かなりショックでした。

正しい旧東海道ルートは、台の坂からまっすぐ歩いて来ると、やがて左前方に高速道路の高架が見えてきて、道はやや左前方に向かって県道83号線に合流。県道83号線を暫し歩き、浅間下の交差点を渡った右角に交番があり、その辺りから県道の一本右側の道に入る、というのが正道で

、そこを進めば浅間神社の下の旧東海道案内板に出ることが出来るのです。

私は左前方に高速道路の高架が見えてきた時、敢えて県道を避けて公園沿いの静かな道こそ旧東海道だと思って、一本北側の道を進んだ結果、立体交差の壁に突き当たったのです。

でもきっと、私と同じ間違いをする人は結構多い、と私は思うので、その場合の対処法を書きます。

立体交差に突き当たったら、左側から道を渡ります。

目の前にロウソンがあり、ロウソンの右側の道に入ってはダメ。ロウソンを見ながら左に進み、浅間下交差点の交番があるので、交番の裏手、県道の一本右(北側)の道に入れば正式ルートです。

転んでもただ起きない。私は道を間違えて得したこと、たくさんあります。道を間違えたおかげで食べるところがあったり、トイレがあったり、面白いものを見たり。

浅間神社の階段を上りかけた時、ツツツ、と案内板に寄ってきて写真を撮っている、リュックを背負った若者を見掛けました。東海道ウォーカーに違いない。

番外編を歩いている私は、今日は東海道ウォーカーとは話したくない気分。というより、初日の日本橋や品川辺りでは、東海道ウォーカーと関わり合いたくなかったのを思い出しました。大磯あたりからやっと旅人気分になれたけれど、自分の生活圏だと、ふらりと散歩してます、と言いたかったのかも。京都まではあまりに遠すぎて、東海道を歩いています、とは恥ずかしくて言えなかったのかな。

でも、今日は既にどまん中、袋井まで行っているのだから、いいじゃない。いやいや、袋井まで行った人が、なぜ神奈川にいるのか話すのも面倒くさいし、今、この辺りにいる人、ビギナーに対して先輩風吹かすほど、達人にはなっていない。しょっちゅう道を間違えるし。

浅間神社の境内には幼稚園があって、幼稚園の先生に「こんにちは」と挨拶されたので、私もこんにちは、と返しました。不思議なのは、園庭や境内で遊んでいる子どもたちがほとんどみんなフエルトの園帽を被っていること。夏は日除けとして被ったと思いますが、うちの子達が幼稚園に通っていた頃は、フエルトの冬帽は通園用で、園に着くと脱いで鞄と一緒にロッカーか帽子掛けかに納め、園庭で遊ぶときには被らなかった。庭での泥遊びの激しい幼稚園だったから、フエルト帽を汚さない配慮かな。

でも、ここの幼稚園では、外に出るときは帽子を被りましょう、と指導しているんだね、きっと。

浅間神社を過ぎると、洪福寺松原商店街はすぐでした。

前回道を間違えてすごく遠回りして山越えして来たのに、正しい道ならこんなに近い。

商店街は活気に溢れていました。道までせり出して野菜を売る店に、人だかりがしていました。

この前は夜通った商店街を昼間通ると、また違った印象です。

帷子橋(現在)を渡るとき、川の鯉に餌付けしているおじいさんがいて、ひょいと見ると、全長1メートルはあろうかと思われる巨大な鯉がいてびっくり。怖いぐらいの巨大鯉です。(コイキングレベル100か?)

天王町駅を通り抜け、昔の帷子橋が公園にあるのを見て、この前は暗い道をビシバシ歩いた道をのんびり歩いて保土ヶ谷へ。

今日は万歩計も忘れてきたし、靴もスニーカーに履き替えるのを忘れて普段の靴を履いてきてしまったので、足に負担がかからないようにあまり速くは歩けませんでした。

保土ヶ谷に着いたのは14時11分。電車で戸塚に移動したのですが、戸塚から保土ヶ谷行きのバスに乗ったので、逆に保土ヶ谷から戸塚行きのバスに乗ればよかったな。

戸塚駅ではバス待ち時間が長く、寒かった。

ポーラ前で降りたのは15時頃。道を渡って左側を歩きました。

この前、(9月18日)ソイジョイを買ったコンビニ。そのすぐ横が、広い土地の真ん中にポツンと蔵だけある不思議なところ。

もう暫く進むと巨大なもちの木がある益田家のお屋敷。

その先を左に曲がって国道1号線と分かれて旧東海道を歩きます。

右側に斎藤家の赤レンガの蔵。隣が斎藤家の土蔵と家、その隣が斎藤肉店で、その隣がミートショップさいとう。

少し進むと、前回道を間違えた橋に出ます。

今回は道を間違えないぞ、と橋の手前で右に曲がって国道1号線に戻りましたが、歩道が狭くて歩きづらかったので、橋を渡ってから川沿いの道を右に進んで国道と合流した方がよかったと思いました。

道を渡って右側を歩きました。右にはブリジストン横浜工場。その先に、ダイエーがあり、その隣のステーキファミレス、フォルクス前に江戸方見附跡がありました。

道を渡って左を進み、寄り道になりますが、妙秀寺へ。

妙秀寺の境内に、広重が戸塚宿の絵に描いた「左りかまくら道」の碑が保存されているとのことで、見に行きました。

写真にも撮りましたが、石の上半分が欠けていて、「くらみち」が読めます。

広重の戸塚の版画では、右にかかる橋は吉田橋。そのたもとに「左りかまくら道」の碑。絵では「かまくら道」残っている碑は「くらみち」…本当にこれなのかなあ?それとも広重が絵の中の構図の問題で「みち」を「道」と脚色したのかなあ。

東海道に戻り、少し先に戸塚一里塚跡。

その先、今の吉田橋を渡ると、橋の途中、三ヶ所橋の壁がくの字に窪んでいて、真ん中を除く二ヶ所に戸塚に関係する絵が描かれていました。道の反対側はまた違う絵なのかどうかは確認しませんでした。

また暫く歩くと、戸塚駅方面へ曲がる角の一軒隣の矢部の湯…前回、夕暮れに明かりが浮かび、東海道歩きの最後に銭湯に入りたい、と思いながら、あの日はその後ダンスレッスンで時間の制限があったために断念しましたが、今日こそ入ろうと思っていたのに、今日は定休日なのか、鉄扉で閉ざされていました。残念。

曲がると戸塚駅ですが、そうだ、前回の三日目で戸塚駅まで歩き、四日目で戸塚駅から歩き始めたけれど、実は矢部の湯付近から戸塚駅北の大踏切までは歩いていないことを思いだし、せっかくの補遺の旅なんだから、大踏切を渡ることにしました。

大踏切は開かずの踏切?かなり待たされました。

そして、この前も思ったけれど、再開発中の戸塚駅周辺は訳が分からない。買い物をしたかったので、駅ビルをうろうろしてから、家路へとつきました。

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2008.11.17. 「二人旅は楽しいよ」熱烈アピールキャンペーン

2008.11.17.

今日は東海道番外編補遺の小さな旅の二回目。

長女も誘って、箱根板橋から箱根湯本までを歩きました。

私が小田原から箱根湯本まで歩いた日は雨だった上、もう夕方で真っ暗。

旧東海道の入り口も分からず、ひたすら国道を歩きました。

そこで今日は、あの日は歩かなかった旧東海道をたどり、また、暗くて何も見えなかったところを、いろいろ見てきました。

さらに、せっかく箱根へ行くのだから、オプションとして強羅まで足を伸ばして紅葉を見て、日帰り温泉に入ってきました。これは長女を誘うための、プラスのお楽しみです。

実は、長女は10月の6〜8日、2泊3日、一緒に東海道を歩いたのですが、もうこりごり、と今後の同行を断られてしまったのです。

でも、箱根越えは二人だからよかったけれど、宇津ノ谷峠は怖かったし、小夜の中山は明るい時間に通ったからよかったけれど、夕方は怖いそうで、この先、鈴鹿峠に一人で行くのは怖くて、なんとか長女に同行してもらおうと思い、今日は晴れた日にゆっくり歩くと楽しいよ、ということをアピールし、さらにお楽しみの時間も作って、なんとか鈴鹿峠に一緒に行ってもらうための心の準備会をやってみたわけです。

長女も、「鈴鹿峠は一人では怖いから、一緒に来てほしい」と話すと、必要とされたことに悪い気はしないらしく、やや行く方向に傾きつつあります。

そんなわけで…今朝は、7時35分頃家を出ました。

曇りと思っていましたが、晴れて気温も結構上がってきました。

大船からは普通電車ですが、踊り子号の車両に乗れるてラッキー。

小田原に着いて、駅構内のカフェで朝食。

それから箱根湯本行きの電車に乗って、ひとつめの箱根板橋で降りました。

コンタクトレンズを入れたり、身支度を整えて歩き始めたのは9時半過ぎ。

箱根板橋辺りの旧東海道はこの前も歩いたのですが、暗くてほとんど見えていなかったので、素敵な蔵や、宿場町らしい格子の家などを見ることができました。

板橋地蔵尊は、この前は暗い中、ここに板橋地蔵尊があるな、と認識しただけに終わってしまいましたが、今日は境内に上がって、まだ黄葉していない銀杏を見てきました。

一旦国道と合流して…

この後、前回は真っ暗だったので、私はずっと国道を歩いていったのですが、今日は板橋から国道と合流して暫くは国道を歩き、小田原厚木道路をくぐったらすぐに踏み切りを右に渡ると旧東海道。

踏み切りを渡ってすぐの右角に、日蓮上人の史蹟がありました。

旧東海道を歩いている内に、右側に長興山紹太寺の入り口。昔は巨大な伽藍と寺域を誇る大寺院だったそうです。春日局(三代将軍家光の乳母)所縁の寺、と書いてありました。また、稲葉氏歴代藩主の墓や樹齢300年の垂れ桜などがあるそうです。

長女がトイレに行きたいと言うので、入生田駅に寄って、駅構内にしかトイレがないので、駅員さんにお願いして長女だけトイレに行かせてもらいました。

待っている間、待合室に飾ってある、箱根登山鉄道の四季折々の絵を眺めていました。

また、強羅公園の割引券があったのでもらってきました。

入生田駅の少し先で線路を渡り、国道に出ます。歩道が階段を上がって車道を見下ろす高台にあり、面白いなあと思いました。

その先、ENEOSの裏を通りますが、ここはこの前、雨の中、暗い国道を歩いてきたら、ついに歩道がなくなり、このガソリンスタンドで道を聞いて、ガソリンスタンドの裏に旧東海道があるのを教えてもらった、あの場所でした。

あの日は街灯もほとんどない真っ暗な道で怖かったのですが、そして、すごく長く感じた裏道でしたが、今日はすぐに再び国道に出ました。

国道に出たところの草むらの中に、山崎古戦場の碑がありました。

この前は、そのまま国道の右端…元は車道だったのを、工事中で暫定的に歩道になっているところを歩きましたが、今日は山道の入り口みたいな歩道の入り口から坂を上り、またもや車道を見下ろす歩道を歩きました。

この歩道、長女と一緒だったからよかったものの、一人だったらかなり怖かったかも。

以前はこれが正規の歩道だったと思われますが、今は車道の一部を歩道として開放してあるため、この夏、上の歩道を通る人がいなかったせいで、薄やら、何やら草ぼうぼう。

この先どうなってしまうのか心細くなってしまう歩道でした。

長女と二人だから楽しかったけれど。

このエキストラ歩道の終点は左側に渡る歩道橋にも繋がっていて、もう暫く右側を歩いていってもいいけれど、結局は三枚橋の先で右側には歩道がなくなるのを知っていたので、歩道橋を渡って左側に行き、石畳を意識した歩道を歩いていきました。

やがて左に早川が見えてきて、この前渡った三枚橋を通りすぎて箱根湯本に向かいました。

前回暗くてよくみえなかった「箱根町へようこそ」の寄せ木細工のモニュメントがきれいでした。

この後、ちょうど紅葉が見頃の強羅公園へ足を伸ばし、温泉にも入ってきました。

長女は、鈴鹿峠越え、一緒に来てくれるかなあ?

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2008.12.01. ど真ん中を過ぎ、遠州路へ。ふれ合いもあった一日。

2008.12.01.

東海道五十三次十四日目 前半 袋井〜見付〜

朝5:35に家を出て、11月5日に歩き終えた場所、袋井へと向かいます。

普通電車を乗り継いで行きますが、熱海だ、沼津だ、と何回も乗り換えなければならない時間帯は避け、なるべく乗り換えが少ない時間帯で、最初に乗った東海道線が静岡行き、を選んで行きました。

普通電車ですが、特急車両を使っていて、富士山が見える側の窓際に座れました。

おかげで、三島〜富士〜富士川の富士山が最高でした。昨日から、富士山はずいぶん白くなりました。

9:49袋井着。駅前公衆トイレの壁には、袋井のマスコット鳥のフーフー君がいました。

袋井の駅前では、クリスマスイルミネーションの配線をするために、何人かが集まって作業準備をしていました。

私はまず「あるく助け」という足袋型サポートソックスを履き、コンビニでお赤飯おにぎりと温かいお茶を買って、二度目の朝御飯。朝5時過ぎにパン1個食べたきりじゃ、もたないからね。

身支度を整え、歩き始めたのは10:05。

駅前に、レトロな銀行がありました。

和橋を渡って、この前見つからなかった斜めの道を探しにいきました。

この前、どまん中茶屋のおじさんに勧められた木製の常夜灯をまず見ました。

常夜灯の写真を撮った後は、今来た道をさらに進んで、国道からどう分岐したのかを確かめました。迷った分岐に出たのが10:28。これは明るいときでなければ分からないし、暗いと危険かも、この道は。

どまん中茶屋再訪は10:34。

この前はおじさんが一人しかいませんでしたが、今日は3人いて、さらに後から二人来ました。後からの一人は、この前のおじさんでした。

お茶と、袋井のパンフレットをいただき、エビセンを食べていたら、「紅葉を見に身延へ行ってきた」というおばさんが来て、みのぶ饅頭をいただきました。

記念記帳をしていたら、「今朝は夕べ袋井に泊まったという女性3人が来た」とのことで、私の前の書き込みを見たら、我が家とは比較的近くの市の方達なので、会ってみたかったなあ、と思いました。

お茶をもう一杯飲みたかったけれど、出そうもないので出発しました。

前回は暗くて見えなかったけれど、どまん中茶屋は「日本一小さな歩く道の駅」という看板が出ていました。

少し行くと、東海道からはほんのちょっと外れる白髭神社の看板を見付け、見に行きました。

東海道に戻り、この前、真っ暗な中で見た袋井東本陣跡を改めてじっくり見ました。その先、この前はライトアップされていた白壁を道からしか見なかった袋井宿場公園にも行きました。トイレに「東司」と書いてありました。

どまん中茶屋も袋井宿場公園も、前回真っ暗な中に灯りが灯ってとても素敵な所に見え、次回は明るい時にじっくり見ようと思っていたら、今日はこの前ほど「いとをかし」に感じられなくて、ちょっと残念。夜目は何でも美しく見える?灯りに惹き付けられるマジックだったのかな。

袋井の町には、所々に案内板が設置され、広重だけでなく、なんとか版、といういろいろな袋井の版画が展示されていました。

暫く行くと丸凧工房がありましたが、今日は閉館日。月曜はあちこち閉館だらけでした。

さっき見た、某版の袋井の絵に、袋井の丸凧が上がっている絵がありました。

御幸橋の公園には、高札と西見附の杭がありました。ここのトイレには、雪隠と書いてありました。私は雪隠に入りましたが、タバコ臭い。外で吸ってほしい。

左側にレトロな洋館があり、映画「たみおのしあわせ」のロケ地、と書かれていました。「たみおのしあわせ」って映画、知らなかったんだけど、オダギリジョー主演らしい。まだどこかでやっているかなあ。

寺澤屋長屋門という、立派な門を見て、その先、木原一里塚は、土が盛られた塚に木が一本。

矢印が右方向に「木原古戦場」となっているので、右側に探しに行ったのですが、400mのはずが、かなり行ったのにない。

本を取り出して調べたら、木原古戦場は東海道沿いにあり、こんなに外れたところにはないので戻りました。大分無駄をした、と思いましたが、おかげで刈り入れ後の広々した田んぼを見ることが出来ました。遠州は空が広い。

東海道に戻り、もう少し先に進んだ所にある許禰(こね)神社に、「木原畷」(きはらなわて=古戦場)の札がありました。

磐田市に入ったのは11:50。

今日は、飛ばし気味です。どまん中茶屋で聞いた3人の女性に追い付きたい、と思って。時間差はかなりあるみたいだけれど、3人だから、きっとゆっくり、あちこち見て歩いているのでは?と思えるんですよね。

旅は道連れ、とまではいかなくても、挨拶だけでもしたい…やっぱり、一人旅は寂しいのかなあ。

飛ばし気味のせいか、やや左膝が痛い。なにもそんなに急がなくても…でも、追い付きたい。

太田川を渡った先で、道は静かな左の道へと別れます。

三ヶ野の松並木を過ぎると、大正の道と明治の道に分かれます。

私は明治の道、緑のトンネルを選びました。

この道が、昼なお鬱蒼と暗く、小夜の中山なんて目じゃなく怖い、と思いました。

やっと明治の道を抜けて、人家の多いところまで来ると、左手に車井戸の碑。ちょうどここで、三人の女性と邂逅。私は「袋井からいらっしゃいましたか?どまん中茶屋に寄りましたか?」と聞きました。

思った通り、今朝、どまん中茶屋のおじさんに教えてもらった三人の方でした。

「あちこち寄り道してるから、進まなくて」と言っていました。

明治の道も出ている優れ物の地図を持った方たち。

その地図欲しい…どうやって手に入れたんだろう。

三人は「では」と、行ってしまいました。

私は自分なりに道に当たりをつけたら、三人が行った方向。ついついガムシャラに歩いて三人を追い越し、さらに差をつけて…

どまん中茶屋で三人の女性と聞いた時、私はもう少し若い方を想像していました。でも、会ってみたら、60代前半ってところかな。

あちこち迷いながらの珍道中みたいなので、同行したら大変そう、私はもう少し速めに歩きたいし…という訳で、必要以上には絡まないことに決めました。

道は松並木の上り坂になり、かなり三人を引き離しました。

国道と合流したところで紅葉の写真を撮っていたら、手押し車(掴まりタイプのカート)を押しながらやって来たおばあさんに、「雨が降りだしそうね」と声をかけられました。「そうですね」と、どこかで聞いた返事をしました。

今日は晴れのはずなのに、思っていたより雲が多く、それも、グレーの重そうな、雨が落ちてきそうな雲。

国道を歩道橋で渡って、右側を少し行くと、小高いところに「遠州鈴ヶ森」の看板。本に「急な階段を上る」とあったけれど、実際その急傾斜、半端じゃない。段の幅が狭くて足が乗りにくい上、手摺に掴まらないと危険。

急な階段を上ると、歌舞伎でお馴染みの大盗賊、日本駄右衛門の墓がありました。

道は国道を離れて右へ。

三本松の常夜灯の写真を撮っていたら、近所の人に「頑張るねえ」と声をかけられました。

「坂を下ると階段を上った上に一里塚と常夜灯がある」と教えてくれました。

坂を下ると、右に遠州見付木戸跡の看板。

左側には急な階段があり、最初のひとかたまりの段を上ると右に常夜灯。

さらに次のひとかたまりの段を上ると、愛宕神社の本殿の改築工事をしていて、その工事のせいか、一里塚はどれか分かりませんでした。

境内から見付宿の町並みがよく見えました。

遠州を歩いてきて、ここで初めて富士山が見えるので、見付という名がついたそうです。

階段の下で、先ほどの三人の女性とまた会いました。お互いの無事の挨拶を交わして別れました。その後は、その三人にはもう会うことはありませんでした。

問屋場跡、朱印屋敷冷酒清兵衛邸などを見て歩きました。

随分晴れてきて、青空も広がってきたし、上着が暑い。

見付学校は松本の開智学校を彷彿とさせる、白い洋館。今日は休館日で、外からしか見られませんでした。

見付学校を意識した、白いきれいなトイレに入りました。

脇本陣三河屋門、木戸型モニュメントを見て、遠江国分寺跡へ。

国分寺自体は、もう跡地や礎石しか残っていませんが、焔魔堂がありました。その横の浄水石は、当時のままのものが残っているそうです。

国分寺跡はだだっ広い起伏のある、きれいに刈られた草地で、礎石や階段が残っています。

国分寺跡の斜向かいに府八幡宮があり、立派な鳥居と社域が道のこちら側からよく見えましたが、道を渡らず、こちら側から見るに留めました。

お腹がすいて、昼食にありつきたかったので。

磐田駅まで行けば、何か店があるだろうと思っていたら、そこまでは行かずに蕎麦屋を見つけ、天ぷらせいろ蕎麦を食べました。13時半頃でした。

食後はジャケットを脱いで、リュックに着せて歩きました。

駅までの歩道には、ジュビロ磐田のマスコットキャラクターが立っていたり、ジュビロ磐田の選手の足形のタイルがいくつも貼ってありました。手形の人もいました。

さて、磐田駅の北側、3本ぐらい北側の道を右折し、いかにも旧東海道らしい道を歩いて暫く行くと(途中でタイムスリップしたかのような駄菓子屋がありました)やがて国道とぶつかり、広い道の歩道を歩き…

貼付右下の恐竜に出くわしました。もうびっくりです。私の調査によると、この恐竜はジュラ紀のブラキオサウルスだと思うのですが、恐竜に詳しい方、ご意見を。

後半に続く

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2008.12.01. 敵ながら…天晴れ武士の心意気〜今日も夕日の橋を渡る

2008.12.01.

東海道五十三次 十四日目 後半 一言〜熊野の里〜天龍川〜浜松

その先で、小さな建物に一言〇〇荘と書いてあり、〇〇というのは私の旧姓なのでびっくり。小さいから一言なのかなあ、と思っていたら、バス停の名称からして、この辺りは一言という地名らしい。

一言主神と関係あるのかな、と思っていたら、一言坂古戦場が近くにありました。

一言坂の戦いは、徳川家康と武田信玄の三方ヶ原の戦いの前哨戦で、袋井の三箇野川の戦いで破れた家康軍は、浜松に向けて敗走していましたが、磐田郡にある一言坂で追い付かれ、再び戦いとなったのが、一言坂の戦いです。

この時、徳川軍を救ったのが、家康の重臣、本多平八郎忠勝。本多は徳川軍を逃がすため、とんぼぎりと呼ばれる槍を振り回して孤軍奮闘し、枯れ草に火をつけて敵軍を蹴散らしました。

しかし、本多が無事に逃げおおせたのは、敵ながらアッパレ、と感じ入った、武田側の小杉左近のはからいだったとも伝えられているそうです。

本多が逃げた後、こんな落書きが散らばっていた、或いは立て札が立てられた、と言われています。

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(兜)に本多平八」

宮之一色一里塚を見て、また木製の常夜灯を見て…

その先には松並木。

長森立場では、当時は長森かうやく(膏薬)を売っていたそうです。あかぎれや擦り傷によく効くので、土産物として旅人によく売れたそうです。

いよいよ天龍川が近づいてきました。

昔は船で渡し、明治時代には木の橋が作られましたが、天龍川橋が出来てから、天龍橋と池田橋は廃止されました。

天龍橋跡、天龍川渡船場跡、池田橋跡、と訪ねて行きました。池田橋跡近くには資料館もありましたが、月曜で休館でした。天龍川橋付近から池田橋跡方面に川沿いに北上する道は、堤防の車道と平行していたり、堤防から離れたりもします。新天龍川橋へ上っていく車道の下を潜っていくのですが、地図では直進なのに直進の道がなく、簡単なようでわかりづらいので、ちょっと迷いましたが、常に堤防を視野に入れていたおかげでなんとか着けました。

また、池田橋跡の近くの資料館の前の道を川とは反対に歩いていくと、行興寺があります。能の「熊野」(ゆや)ゆかりの寺で、この辺りを走るバス「ゆや号」には、お姫さまと藤の花が描かれています。行興寺は房が長い藤で有名だそうで、花が咲いていない今頃行ってもつまらないだろう、と思ったのですが、周りが紅葉していたり、赤い橋があってきれいでした。

天龍川橋へと戻る道で、下校時の中学生に「こんにちは」と挨拶されました。嬉しいものです。そういえば、木原古戦場を探してうろうろしている時にも、車イスのおばあちゃんに一生懸命話しかけているヘルパーさんの女性に挨拶されました。挨拶はやっぱり気持ちいいよね。

私は新天龍川橋は歩行者は渡れないものと思い込んでいたので、古い方の天龍川橋を渡るのだと思っていました。しかし、天龍川橋には歩道がなく、危険。

行ってみたら、新天龍川橋には立派な歩道がありました。

今日も夕日を見ながら橋を渡ります。ザ、マジックアワー。橋を渡るのに、15分かかりました。

橋を渡ったところで、マフラーを巻いてジャケットを着ました。

ちょうど日没の真っ赤な夕日が上半分になっていました。

本には、橋を渡ったらすぐに左に行くように書いてありましたが、堤防は危険だし、橋の下の住宅地に降りていく付近が工事中で迂回を強いられ、矢印に振り回されているうちに、土地勘のない者は方向を見失いそうですが、日没の残照と、天龍川方向は分かるので、とりあえず川に戻りました。六所神社の前で行く道を考えていたら、車を運転しているおばさんが最徐行しながら「どこから来たの?」と声をかけてくれて、浜松へは目の前に見えている道を(西へ)まっすぐ、と教えてくれました。

薄暗くなった道を歩きながら、薬屋と電気屋またはコンビニを探しました。左膝にサポーターを買いたい。懐中電灯は持ってきたけれど、家に常備しているもので電池が古くてかなり薄ぼんやりした明かりなので、電池を買いたい。

歩く分には、まだ懐中電灯は要りませんが、例えば、何か案内らしき物がある、と立ち止まってみたら、「かやんば高札場跡」と書いてあり、懐中電灯で照らすと写真が撮れる。

もう暫く行くと、右側に立派な家があり、すごい、と思っていたら、本にも乗っていた金原明善の生家でした。金原明善は、明治大正の植林と治水に功績のあった人だそうです。

先日、川崎の池上新田開拓のお芝居を見ましたが、村の名主が人々を説得し、私財をなげうち、お上の許可を取り付け、やっと工事に漕ぎ着けるのです。つまり、名主であり、資産家でなければ、名を残す大事業はできなかったのです。だから、金原明善の生家が立派なわけです。

明るかったら、写真をバチバチ撮りたい素晴らしい門構えと塀ですが、時刻は17時。歩くにはまだ懐中電灯は必要ないけれど、黄昏時はすれ違う人の顔も識別しづらい。黒い塀は写真には撮れません。

リュックから使い捨てカメラを出せばいいんだけど、今日はやめておきます。

暫く行くと、セブンイレブンがあったので、電池を買って取り換えました。

懐中電灯を手に持っては歩きましたが、結局つけませんでした。今まで、興津や金谷など、暗くて懐中電灯を持ってくるべきだった、とよく思ったものですが、郊外とはいえ、さすが浜松市。街頭や店の明かりで懐中電灯いらずでした。

空に、三日月よりはやや細いかな?上弦の月と、その左上に一等星。まるで月星シューズのマークだな、と見ていたら、もっと暗くなると、一番星の右上に二等星が現れ、さらに目を凝らすと、一番星の右下に三等星。三つの星と月で菱形が出来ています。

今日は午前中は雲量が多かったけれど、遅くなるにつれ晴れ間が広がって、冬の透明度の高い空だから、月の側に三等星が見えるという幸運に出会えたんだな。

それも三日月より細い月だから、眩しさもそこそこだから、三等星まで見えたんだな。

しかし、道が国道と合流してしまうと明るくなってしまい、三等星は見えなくなりました。

馬込一里塚を探しながら歩きましたが、とうとう見つかりませんでした。

バス停の地名や、店々をウォッチングしながら歩きました。

馬込川を渡ったので、馬込一里塚は通りすぎてしまったことが分かりました。

暗くなると、疲れも手伝っているのでしょうが、道が遠く感じます。全然進まない。随分歩いたはずなのに。

でも、歩いた時間は実はたいしたことがない。歩いた時間から考えると、実はかなり距離を稼いでいるのに、進まない、遠いと感じる。

道に迷った人が暗くなって彷徨する心理状態って、分かりますねえ。人間の体や脳が、暗くなったら休むようにできているんだね。きっと。

大きなビルが見えてきたので、浜松駅は近いはず。

バス停を見て、あと停留所5個分、4個分、3個分…と楽しみにして歩きました。

左に浜松楽器博物館がある、という看板。そうか、浜松は楽器の町だった。なので、アクトシティという、ホールが沢山ある巨大な建物が近づいてきました。

浜松駅は、東海道線、新幹線、遠州鉄道があるので、複雑な作りで、うろうろ。

電気で色が変わる巨大ツリーの写真を撮り、さて、どうしたものか。

浜松駅周辺は、街角のあちこちに周辺地図が設置されていて助かりました。

今日の宿、ホテルルモンドにたどり着いたのは、18時50分。

私の部屋は803号室。

左膝も痛いし疲れているので、ホテル内のレストランで食べたかったのですが、今日は休み。

仕方なく、駅方面へ、食べるところを求めて戻りました。

焼き鳥屋に入り、美味しかったので、バクバク食べて、生ビール→大吟醸→にごり酒。

締めは大学芋とソフトクリーム。

帰ったらすぐにも寝たかったけど、寝る前に風呂に入らないと、足の疲れが癒されない。

風呂に入って、出てからは熱いお茶を飲みながら、日記の下書きをしました。

撮った写真を見ながらメモるのですが、安いビジネスホテルにはメモ用紙がない。今度からは旅の必需品に雑記帳を加えよう。

靴磨き用の不織布?にメモをとりました。

今日は番外編を覗いて東海道五十三次14日目。長男は14日で京都三条大橋に着きましたが、私はまだやっと半分を過ぎたところ。

そういえば、箱根を過ぎて静岡県に入ってからずっとお世話になっていた、「夢舞台 東海道」の道しるべ、磐田市中泉を最後に見なくなりました。静岡文化圏と浜松文化圏の差というものでしょうね、きっと。あの道しるべで、五十三次以外の間の宿の名前も分かったんだけど、間の宿の名が分からないと、高札場などで推理するしかありません。

今日の宿を予約するとき、シングルとセミダブルの選択ができたのだけれど、安い方がよいと思い、シングルにしましたが、部屋があまりにも狭い。風呂は静岡のビジネスホテルよりはましだったけど。次回、もしそういう選択が出来て、差額が500円ぐらいなら、セミダブルの部屋にしよう。

本日の総歩数は48,578歩。歩いた距離は34.9km。今日は多少のアップダウンはあったものの、ほぼ平地だったため、速かったみたいで、時速5.04km。今までは平均4.3km〜4.8kmぐらいだったので、かなり速かったようです。

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2008.12.02. 風の遠州路〜現存レア物が多い日

2008.12.02.

東海道五十三次 十五日目 前半 浜松〜舞阪

7時起床。7時半に、昨日チェックインの時に予約した朝食を食べに行きました。鮭、卵焼き、ひじき、納豆、ご飯、味噌汁。うーん、これだったら、隣の軽食コーナーで無料セルフのパン、コーヒー、ジュースにして、浮いた500円でセミダブルの部屋にすればよかったな。

出発前に足のストレッチ。

8:25にホテルを出発。

浜松は駅前通りの歩道脇に彫刻が点在しています。

東海道に戻り、右側の歩道を行くと、バイオリンを弾く女性像がありました。楽器の町浜松らしいなあ。

連尺交差点で、東海道は左折しますが、私は浜松城を見るために、右へ行きました。

浜松は地下に潜る横断歩道が多く、歩く旅の者は辛いし、ここで生活しているお年寄り、妊娠中の方、心臓などの病気のある方や足腰を痛めている方、足の不自由な方、また元気であっても荷物が重かったり、疲れていたり急いでいたり…人間に優しくない構造で、せっかく文化水準が高い?と思いかけていたのに撤回ですね。日々の人々の生活や訪問者に優しくない町は、文化的町ではない、と私は思います。

連尺交差点を地下から渡って、出て右折してすぐに、大手門跡。

市役所前を通り矢印に従って左折すると緩い上り坂、大きなプランターにパンジーが植えられ、水やり後で、歩道に水の流れた後が残っていました。爽やかな朝の風景です。

日差しは強く、ジャケットが暑いのですが、日陰はとても寒いので、着たままでいました。

坂道は石垣にぶつかり、浜松城へは左から回り込んでいきます。

急な階段を上り、公園を抜けて、さらに上がっていくと、天守閣が見えました。公園入り口から天守閣を見上げるまでに5分かかりました。

昔の石積みがあちこち残っていて、よくある石垣とは違うな、と思っていたら、野面(のづら)積みという積み方で、自然石を生かして積んであり、あちこち空いていて崩れそうに思うのですが、きちんと組まれていて、奥の方には小石が詰め込まれて堅牢にしてあり、水捌けもよかったそうです。

野面積みの間の階段を上っていくと少し広くなっていて(曲輪というらしい)銀明水という井戸がありました。

天守閣は復元されたもので、三層になっています。一階は黒い壁、二、三階は白壁です。

浜松城は徳川家康が青年期に住んでいた城で、家康が駿府城に入ってからは、徳川家ゆかりの大名などが次々と居城とし、水野忠邦をはじめ、出世した人が多く、出世城と呼ばれたそうです。

シルバーボランティアさんがたくさんいて、清掃や受付をしていました。

天守閣内は入館料が150円。鎧、鉄砲、馬具、歴代城主の紋所などが展示されていました。

地下の井戸は木の床や井戸も木で縁取られ、風呂場みたいできれいでした。

家康の散歩道(周辺の歴史的見所)、正妻や嫡男の悲話なども展示されていました。

三階展望台からは、紅葉の森、浜松の町がよく見え、浜名湖も遠望できました。私が想像していたより、浜名湖と浜松市市街地は遠いんですね。天守閣から見える足元の紅葉の森も、昔は城の建物がいろいろあった跡のようです。

天守閣を下りて、家康青年像を見に行きました。周りを紅葉に囲まれていました。右手に持っている金の楕円の物…上が切れている。あれは何かな?布団を干すときの布団挟みに似た形。家康の兜印の羊歯(しだ)印なんだそうです。

公園を出て、鎧掛の松を見に行きました。家康は三方ヶ原の戦いの敗走の後、この松に鎧を掛けて休んだのだそうです。今の松は三代目。

家康は三方ヶ原からの敗走で傷つきひどい形相になっていた顔を敢えて画家に描かせ、生涯自分への戒めとして、その顔の絵を折りあらば見ていたそうです。

そういう家康が好き、という人と、嫌い、という人に分かれそうなエピソードですね。

浜松城見学は、公園が広いせいもあって、30分を費やしました。

地下横断歩道を通って、連尺交差点から東海道に戻りました。

暑いのでジャケットは脱ぎ、マフラーは巻いておきました。風が強いので、マフラーはいい対策グッズとなりました。

すぐに高札場跡。暫く歩くと川口本陣跡。

伝馬町、旅籠町と、昔の宿場の中心地を歩きました。

成子交差点の少し手前に、名物浜納豆を売る店がありました。

成子交差点で右折し、雄踏(ゆうとう)街道を西へ。

少し行くと左にファミレスがあり、そのすぐ脇に子育て地蔵がありました。

子育て地蔵を目印に、左斜めに入っていくのが旧東海道ですが、第二の寄り道のために直進。直進した道は入野街道というそうです。

随分遠く感じたけれど、実際には7分で賀茂神社着。

賀茂真淵の出生地です。

私は学生時代、「古事記」で論文二本を書いていて、直接ではなくとも、回り回ってお世話になっているので、挨拶に行きました。

ここへ来て、初めて気付きました。神社の生まれだから、たくさんの文献に触れることもできたし、他所の文献を見せてもらうことも可能だったのでしょう。だから、国学者になった。

金原明善や、池上幸豊が名主だからこそ、地域のための開発や工事が出来たように、昔の人々は生まれ育った環境以外のことはなかなか出来なかったに違いない。

現代は、出自に関係なく、様々な学問に触れることもできる。様々な職業に就くことも出来る。そのありがたさを、旅に出て、改めて知りました。

賀茂真淵記念館はパスしました。記念館は縣居(あがたい)神社の側にありますが、この辺りの地名を県居というんだな。

子育て地蔵まで戻り、斜めに入る旧東海道へ進みました。

暫くは静かな道を進みますが、東海道線の高架が見えてきて、斜め左に少し折れるようにして、東海道線を潜ると、国道257線に会い、合流して右の歩道を進みました。

すぐに新幹線も潜りました。

雲ひとつない快晴。遠州は風が強い。

紳士服の大型郊外店が二軒並んでいたり、この辺りは駐車場の広い大型店舗が多い。

暫く行くと、右に巨大な店舗が見え、MEGAドンキホーテでした。

でかいなあ、と思っていたら、長崎屋とサンドラッグが併設されていたので、寄ることにしました。

この店の手前には可美小学校があったので、可美という地名だと思ったのですが、店名は長崎屋浜松可美店なのに、住所は浜松市東若林でした。

入ってびっくり!閉店セール?と思うぐらいフロアがガランとしていて、あちこち布で覆われていて…

しかし、そうではなくて、大幅改装中で、12月12日に新装オープンするそうで、その前の二日間は全館休むそうです。

サンドラッグで膝用サポーターLを1枚買い、トイレで左膝に着けました。大分楽になりました。保温効果が一番かな。Lだと少し大きめでしたが、Mだと多分きついので、やはりLでよかったと思います。

店内のロッテリアでバニラシェイキを飲んで休憩。

これで多少昼食が遅くても大丈夫。

長崎屋を出たのが10時50分頃。

若林一里塚跡を探して歩きましたが、一里塚は見つかりませんでした。

その先、R257が少し右へ曲がり気味なところの角の手前に、二つ御堂の片割れと、高札場跡と馬頭観音が並んでいました。二つ御堂は道のこちら側と反対側に相対して二堂建っています。藤原秀衡とその愛妾を弔うためのものだそうです。

この辺りで11時過ぎ。ここからが長い旅でした。国道を延々まっすぐ歩くのは遠く感じます。青い空、強い風。

途中コンビニでドリンク剤を飲み、出たところで信号待ちしていたら、すれ違った自転車を押しているおばさんが、「この辺、鉄粉臭くて嫌あねえ」と声をかけてきたので、「何か変な臭いがしますね」と答えました。鉄粉臭いというよりは…焦げたゴムの臭い、だと私は思いました。

諏訪神社、常夜灯、と写真を撮りながら歩き、11時半頃に通った熊の神社は、境内に大ダコの滑り台があり、神社前には高札場跡がありました。

その先に堀江領界石。

そのすぐ先、右奥に、高塚駅があったようですが、知らない間に通りすぎてしまいました。

また暫く行くと神明宮。その先、篠原一里塚跡を通ったのは12時10分。また5分ほど先に高札場跡。

12時21分、愛宕神社。こんなにちょくちょく神社の写真を撮ったのは、それだけまっすぐな道で、何か目標物がないと飽きてしまうから。

小夜の中山みたいな丘陵の尾根筋の緩いアップダウンと茶畑の中の道は気持ちよくて、歩くの大好き!と、ひとりタイタニックしたり、歌ったりしてましたが、国道沿いまっすぐは惰性で足を動かしている感じです。

でも、実は昨日も今日も、歩きながら探しているものがあります。昨日、袋井で、茶色に枯れた風船カズラを見たので、秋の終わりに弾けて綿が出てくるという風船唐綿が今、どうなっているか見たい!と探していました。でも、二日間、とうとう風船唐綿にはお目にかかれませんでした。

12時55分。春日神社。大きな神社で、本来は水が張られていると思われる丸い大きな穴があったり、狛犬の代わりに鹿がいてびっくりしたり。向かって右側が牡鹿。左側が牝鹿。

春日神社はいろいろ見学していて、6分滞在しました。

13:05に舞阪の松並木に入りました。約700メートルに亘る、立派な松並木です。西へ向かう人は、左側歩道がお勧めです。日本橋から京都三条大橋までの五十三次の銅版画が並んでいて、今まで歩いてきた道のりを思い浮かべて、涙が出ました。反対側歩道には、十二支の石像があるらしいです。

松並木ももうすぐ終わりそうな辺りに、舞阪橋跡がありました。

松並木を抜けた所に小公園があり、大きな浪小僧の像がありました。漁師の網に引っ掛かってきた気味の悪い真っ黒な小僧が、命を助けてもらったお礼に、嵐や高波の前に、海の底から太鼓を叩いて知らせてくれたので、村の漁師は難から逃れることが出来たそうです。案内板を眺めてトイレを借りてから、国道を渡って舞坂宿に入りました。駅名は舞阪、宿場名は舞坂と書くようです。

史蹟見附石垣まで来たのが13時半。町中の海苔屋さんは、ほとんどが堀江商店。堀内商店もありましたが。そこで、多分屋号で呼び合っているんでしょうね。堀江商店の前に、丸半、丸吉など、〇の中に一文字漢字を入れて店の看板に書いてありました。

常夜灯、一里塚跡など見て歩き、本陣跡の斜め向かいに脇本陣茗荷屋。ここは書院などが残っていたため、史蹟として指定され、昔の柱などを何パーセントか残すことによって文化財指定を受けて、残りの部分は復元されました。

中は無料で公開され、説明もしてくれました。名古屋からオートバイで来たという青年と一緒に話を聞きました。

脇本陣は本来、平屋建てなのですが、茗荷屋は旅籠も兼ねていたので、二階がありました。脇本陣を廃業してからは、役場に使われ、その後は医院として使われていたこともあったようです。

間口はあまり広くなく、鰻の寝床のように縦長な構造です。

ここの風呂は五右衛門風呂ではなく、桶式の風呂です。奥の方に殿様用の塗りの風呂桶がありましたが、塗りの桶は見本で、実際には殿様は自分用の風呂桶を持ってきたそうです。他人が入ったものを嫌ったり、毒をもられないように、ということもあったし、当時の大名行列は、家財道具一揃え持ち歩いていたそうです。

当時は東海道五十三次を十二泊十三日で旅し、一日40km歩いたそうで、大きな宿場、浜松から近い舞坂の宿に泊まる人は少なかったそうですが、高波などで渡し船が出ないと、舞坂に泊まったそうです。

明応7(1498)年、大地震で浜名湖と海とを隔てていた陸地が切れてしまって出来た渡しなので、最近出来た渡しという意味で、今切れの渡しと呼ばれました。

今切れの渡しを渡った先の新居には新居関所があり、入り鉄砲に出女の詮議が厳しく、女性はまず通してもらえないため、女性は見付の分岐から御油まで姫街道を通る場合が多かったそうです。

また、今切れのせいで新居と舞坂の交流がなくなり、新居と舞坂は近いのに、文化や言葉が違うそうです。

14時頃脇本陣を出て、西町常夜灯を見てから…ショックなことがありました…

後半に続く

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2008.12.01. 浜名湖の鰻と新居関所

2008.12.02.

東海道五十三次 十五日目 後半 舞阪〜新居

14時頃脇本陣を出て、西町常夜灯を見てから、今日の昼食場所と決めていた魚あらに行ったところ、車はたくさん停まっているのに、準備中の札が出ていて、「えっ!」…慌てて時計を見ると、14:04…しまった!

脇本陣に入る前に、まず魚あらに来るべきだった。多分、14時までに入ればOKだったんだろうな。もしかしたら、舞坂に入る前に電話しておけば、入れてもらえたかもしれない。すごいショック!

本によるとこの先の弁天島に行けば、うなぎ、海鮮物、冬には牡蠣も食べられるとのこと。それを楽しみに、先に進むしかありません。

気を取り直して、北雁木を見に行きました。

雁木(がんげ)は渡し場で、斜面部分が石畳になっています。

北雁木から見る浜名湖は、家の近くの港に似ていました。白い小さな漁船がたくさん停まっていて、カモメが群れ飛んでいて。

大きく違うのは、左奥にアーチ型の浜名大橋が見え、右の沖には、弁天島の鳥居が見えること。

赤い弁天橋を渡り、弁天島へ。

昼食場所を探しましたが、閉まっているか、さっきまで開いていたらしいのに、本日は終了しました、の札が出ていたり。

日帰り湯に入れば何か食べられるでしょうが、風呂に入ったら、もう歩けないだろうから入りたくないし。

国道側を歩いて弁天島海浜公園の出口まで来て、今度は公園側を戻ってみましたが、店は開いていませんでした。白いホテルにヤシの木の景色は、家の近くのマリーナに似ていました。

ここは、春の潮干狩りや夏の海水浴の期間は賑わうようですが、今はシーンとしていました。冬でも店がたくさん開いている湘南から来た私にとって、弁天島の寂しさはびっくりでした。

車はたくさん停まっていましたが、温泉客と釣り船客の車でしょう。

宴会の幟旗を出しているホテルに聞きに入ってみましたが、昼食だけの利用はやっていませんでした。

なんだか泣きたい気持ちでトボトボ歩き、コンビニでお握りを2個買いました。

すぐに食べるつもりでしたが、お握りが手に入ると安心して、もう少し食べられる場所を探してみよう、と思いました。

コンビニの先の橋は左側には歩道がないので、右側を歩きます。新居まで、その先にももう一本大きな橋がありますが、そこも右側にしか歩道がありません。

ここの判断を誤ると大変です。また、歩行者用信号のためにスイッチを押しても、なかなか信号が変わりません。

実際には時間を計ってはいませんが、5分ぐらい待たされた気がしました。

とにかく右に渡り、長い橋の歩道を歩き、新弁天島辺りで営業中のお食事処を発見!やった!お握りは夜食べればいいや。とにかくこの店に入ろう。

「はませい」という店で、かなり広いフロアが個室お座敷風に分かれていて、私は一番奥の浜名湖側の、四卓ある部屋に通されました。隣の部屋に先客のカップルがいました。部屋と部屋の境の襖は開いているので、隣のカップルの女性の後ろ姿が見えました。

私の席は日が当たって眩しいので、障子を閉めに行きました。私の部屋には幸い他の客はいなかったので。障子の向こうには、青い浜名湖が広がってきれいでしたが、眩しいのは嫌だし、さんざん浜名湖を見ながら歩いてきたので、障子を締めました。

牡蠣は鍋しかないので、うなぎを食べることにしました。

うなぎ定食とうな重が同じ値段なので、多分うな重はうなぎが沢山入っているのでしょう。実は静岡に住んでいた頃に、浜松の方にお勧めの店に連れていっていただいたのですが、美味しくなかった、のです。

だから、いくら名物でも、鰻ばかりいっぱい食べて美味しくなかったら嫌なので、店ご自慢のお造りが付いているうなぎ定食にしました。

「今日は浜名湖の天然の鰻が入っていますがいかがなさいますか?」と聞かれましたが、天然物は6,300円だそうです。

車でわざわざ浜名湖にうなぎを食べに来た人なら、是非天然物を食べるべきですが、私は歩く旅の者ですから、昼食に6,300円は払えません。夕べのホテル代と同じ値段だ…

上ではなくヒラの定食と言っても、3,675円、昼食代としては高いお値段です。

だから、普通なら、私は豪華な昼食を食べているのに、隣の部屋のカップルが天然物を頼んで、横長い木製器からはみ出て蓋ができない、凄い!と言っているのを聞いてしまうと、ちょっぴり…いえ、後悔はしてません。やはり6,300円は高すぎる!でも…たまたますぐ隣に天然物を頼んだカップルがいたのは運が悪かった。はみ出た鰻の話が羨ましかった。けれど、3,675円は十分高い、贅沢昼食です。

それに、私が食べたうなぎは、浜名湖産の養殖うなぎで、天然物が入らなかった日なら、この店は、養殖でも、我が店のうなぎは美味しいですよ、と自信をもって勧めるはず。

惑わされるな。自分の舌を信じろ!

刺身、美味しい。もずく酢、合格。茶碗蒸し、美味しい。ご飯&やたら大きな歯応えある大根の漬け物、美味しい。肝吸い、幸せ。そして…うなぎ…美味しい!浜名湖のうなぎは美味くない、と、この20年間思ってきた、私の中の常識は覆されました。店と値段にもよると思いますが、少なくとも、今日食べた浜名湖養殖うなぎの「はませい」のうなぎ定食は美味しかった!

さて…新弁天島辺りは、江戸時代は今切れの渡しを通っていた訳で、今、私が歩いている国道は歩いていなかったはずなのですが、何故か松並木がありました。

そして、目を転じると、少し先には弁天島の名残のヤシの林もあります。

新居(広重の絵には荒井とあり、両方使うそうです)が近づいてきて、浜名橋を渡ると橋に六枚の荒井を題材とした版画が展示されていました。六枚の共通項は、必ず海と帆船が描かれていること。

浜名橋を渡り終えたのが16:20。

東海道線の線路の向こうに、ベイブリッジみたいな、今風吊り橋が見えて、きれいだなあ、と思いましたが、たぶんあの橋は、浜名湖競艇場の橋でしょう。

新居町駅を過ぎ、新居関所前まで来たのが16:27。入り口に、入場受け付け16:30まで、とあったので、ヤバい、あと3分だ、と急いで入場券300円を買いました。

係の方たちも早く帰りたいだろうなあ、と思い、さささっと見学しました。

どこまでが現存でどこまでが復元か分かりませんが、箱根関所は埋もれていたのを発掘して全面的に復元したのに対し、新居関所は唯一現存する関所ということで、感動しました。

今日は、現存するものに幾つか出会えたこと、遠州は風が強いことが印象的でした。

面番所の役人の人形を眺め、離れた部屋のあらため女の人形を見ました。箱根では、人見女と呼んでいたなあ。本当は、面番所と繋がった部屋ではなく、別棟の女改長屋があったようですが、それは今後復元するようです。版画によると、あらため女が調べている女性は、少年のようななりをしていました。

時代劇で女性の旅人は女性らしい格好をしていますが、実際には少年風の格好をしていたのかなあ。

資料館はそそくさと飛ばして見て、関所を出ました。入り口近くにある、池のようなお堀のようなものは、渡船場の復元だそうです。渡船場から直に関所に入るということは、それは女性は姫街道を行きたいだろうなあ。版画によると、あらため女の前で、女性の旅人は、着物をまくしあげて、下まで見せていましたからねえ。それはつらいです。

関所を出て、この先、旅籠跡や本陣跡など、見所がたくさんありますが、もうすぐ17時で暗くなってきたので、今日の見学はここまで。

帰るか泊まるか、両方の線で調べてみて、泊まれたら泊まりたい(家からの往復距離がかなり遠くなったので、来ている内に少しでも距離を稼ぎたい)と思って…まず、新居で安く泊まれるところを調べたら、歩くとかなり遠い。駅前にタクシーがいるかどうかを確認。タクシーがいたので、宿に電話してみました。17時をちょうど回ったところで、宿は夕飯の支度で忙しい時間だったのでしょうね。11回コールしたけれど出なかったので、これは今日は無理ということだな、と諦めて帰ることに決め、切符を買いました。切符を買っているときに、マナーモードにしてある携帯がビリビリ鳴りましたが、きっとメールだと思っていました。

改札を入り、跨線橋を渡って上りホームに立った時、もうかなり暗くなったけれど、地平線近くの赤がきれいだったので写真を撮ろうと携帯を出したら、着信あり、で、伝言が入っていました。

私が電話した宿からで、「お電話いただいたようですが、切れてしまったので、かけてみました」…なんていい人なんだろう…でも、今夜泊まれるかどうか分からないし、もう切符も買って、改札も入ってしまったし。

このタイミングの悪さは、今夜は帰るべきである、という天の意思だろう、と思い、そのまま帰ることにしました。

17:11分発の掛川行きに乗り、掛川で熱海行きに乗り換え、熱海で東京行きに乗り、ボックス席に座れたので、コンビニで買ったお握りを食べ、21:40頃、地元駅に帰りつきました。

楽しかった。自分で自分に、お疲れさま!

本日の総歩数41,924歩、歩いた距離30.07km、平均時速は4.88kmでした。

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2008.12.30. 非日常の旅人と、草鞋とおばあちゃん

2008.12.30. 快晴 風強し

東海道五十三次 十六日目 午前の部 新居〜白須賀

今日は青春18きっぷ5回分の内、第1回目を使って、2008年東海道五十三次歩き納めの旅に出ました。

12月中旬、ウィルス性胃腸炎で体調を崩し、治ってからもいまだに体力的不安が残り、東海道五十三次ウォーキングにまた出られるかどうか、とても不安でした。

なので、今日はリハビリのつもりで、距離を20キロぐらいに押さえて歩く予定です。

朝、5時半にパンを1個食べて、5:47発の電車に乗りました。

東海道線静岡行きに乗ったら、大きな荷物を持った人ばかりで席が埋め尽くされていて、さらに立っている人もいる。いつもの通勤客なら、乗り降りの入れ換えが激しいけれど、客層からして、遠くまで行く人ばかり。まずい。ずっと座れないかも。

しかし、運よく、茅ヶ崎で座れました。

冬至は過ぎたとは言え、前回の12月初頭の旅の時より、明るくなるのが遅いみたい。

国府津あたりでやっとやや明るくなり始めました。

今日は快晴。沼津から富士川を渡るまでの車窓の富士山が最高でした。特に富士駅近辺からの富士山が素晴らしい。

静岡で浜松行きに乗り換え、これも混んでいましたが、藤枝で座れました。

浜松から乗った豊橋行きでは、とうとう立ちっぱなしでした。

東海道をずっと歩いてきたので、駅名を聞くといろいろ思い出され、4時間半強の旅も思ったほど退屈ではありませんでした。

新居町に降り立ったのは10時25分。新居町で降りたほとんどの人は、競艇場口に向かって歩いていきました。

お腹がペコペコなので、キオスクであんまん115円を買って食べました。

身支度をしたとき、いつもなら「歩くたすけ」(サポートソックス)を履くのですが、今日は敢えてガンガン歩かず、のんびり楽しく歩くように、普通の靴下で歩くことにしました。

出発したのは10時37分。

駅前に琵琶湖の絵地図がありましたが、私が前回歩いた舞阪〜弁天島〜新居は琵琶湖のほんの南端に過ぎないんだな、と思いました。

駅前公園のような細長いところに、山頭火の句碑がありました。
「水のまんなかの道がまっすぐ 山頭火」

新居関所は12月2日に既に見学してあるので、表の塀の外からしか見ませんでしたが、年末だから、もうたぶん中には入れないんじゃないかな。

今日は年末だから、休館しているところが多く…新居の旅籠紀伊国屋、おんやど白須賀(無料休憩所)、二川宿本陣資料館など…残念でしたが、今だからこそ松飾りをしてあるのを見られたので、それはそれで貴重な体験です。松飾りは地方によっていろいろあるので、結構おもしろいです。

新居関所の少し先、左側に、旅籠紀伊国屋がありました。休館中で、立派な門松一対が立っていました。東京などでは、竹は太いものを使いますが、ここは下に松の茂み、後ろ側にひょいっと細長い葉が付いた竹が差し込まれていました。

道の突き当たりに飯田武兵衛本陣跡、そこを道は左に折れて、少し先の右側に、もう見られないのかと思っていた、「夢舞台 東海道」の道標がありました。箱根越えで静岡県に入ってからというもの、しょっちゅう見掛けていた道標でしたが、12月1〜2日の遠州路の旅の時、見付宿の先、磐田市中泉を最後に見なくなり、静岡文化圏と浜松文化圏の差かな、と思っていたのですが、今日また「夢舞台 東海道」に再会して、旧知の友に会ったように嬉しく思いました。

すぐ先右に、疋田八郎兵衛本陣跡。

その先に寄馬(よりうま)跡。

その先右に秋葉常夜灯。

さらにその先、左側に一里塚跡。

一里塚の先で右に曲がると、棒鼻跡。説明板によると…ここが新居宿の西境で、棒鼻は一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て桝形をなしていました。棒鼻とは、駕籠の棒先の意味ですが、大名行列が宿場に入るとき、この場所で先頭(棒鼻)を整えたので、棒鼻と呼ばれるようになったとも言われているそうです。

棒鼻跡の説明板が立っているすぐ脇にある民家の方が、一生懸命玄関回りの掃除をしていらっしゃいました。今日の私は、日常から一日だけワープしてきて、夜になれば家に帰る旅人で、旅を住み処としている訳ではないけれど…日常を自ら捨てて旅を人生としていた芭蕉が、行事の日に限っては悲哀を感じていた、というエピソードがあります。私もふと、明日は大晦日なのに旅の空の下にいることに、寂しいとか悲哀ではなく、日常に対してアウトサイダーである自分の存在と、地元に根を下ろしている人々との、見えない壁や溝を感じる瞬間とでもいいましょうか…

それは言い訳かも…大掃除など、やるべきことをすべてやり終えてからここに来たわけではなく、ある意味、エスケープしてきたようなもんだから…

棒鼻のところで左に曲がり、少しまっすぐ行くと、国道1号線に出るので、国道1号を右へ。

少し行くと、「夢舞台 東海道」の道標に「加宿 橋本」がありました。

国道の左側に風炉(ふうろ)の井。源頼朝が茶湯として使ったと言われているそうです。

風炉の井の、道を挟んで向かい側に教恩寺。楼門が立派でした。

教恩寺の角から、国道と別れて、右側に旧街道があります。こういう分かれ道の入り口に来ると、旧東海道らしい家々との出会いの予感に、いつもワクワクします。

宿場町らしい町並みのどこかから、ペッタンペッタンと餅つきの音が…すぐ右の家の土間で、昔ながらに餅つきをしていました。古き良き日本の伝統がまだ残っているのに出会うと、とても嬉しいです。

その先に、松並木。

右奥に紅葉寺跡。石段の上らしい。石段の左下の家では、ご夫婦で玄関マットなどを洗っていて、「こんにちは」と挨拶を交わしました。石段の手すりに布団が干してありました。

石段を上っていくと、昔の紅葉寺の名残の紅葉が散り残っていました。室町時代の将軍、足利義教が紅葉狩りをした場所だそうです。残っているお地蔵の回りに、大分変色してチリチリに丸まっている散り紅葉のカーペットが敷き詰められていました。

境内から、家々の屋根が「甍の波」状に見下ろせました。

その先、松並木が左側だけ、結構長く続いていました。

松並木の中に、石碑があり、歩道側だと石碑の裏側なので、前に回ってみたら、前大納言為家「風わたる濱名の松の夕しほにさされてのぼるあまの釣舟」、阿仏尼「わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の浪はやすまで」、二首の歌が書いてありました。

その少し先、左に立場跡。立場は、旅人、人足、駕籠かきが休憩する施設。ちょうどここは、新居宿と白須賀宿の間にあったようです。

新居から白須賀へと向かっていると、元町という地区があり、そこは昔の白須賀宿(元白須賀)があったところ。元白須賀は高波で壊滅してしまい、今の高台へ移ったのだそうです。

元町には、火鎮(ほづみ)神社があり、山の麓にはキャベツや白菜畑が広がり、山の向こうにある風力発電の風車の白い羽根が回っているのが見えました。

また暫く行くと、右側に一里塚跡と高札場跡がありました。

元白須賀と後の白須賀宿を分ける坂を潮見坂といい、元白須賀は潮見坂下ですが、潮見坂下にある蔵法寺の汐見観音のお告げにより、高波の難を逃れたというエピソードもあるそうです。

元白須賀辺りを歩いているとき、若い男性二人組の東海道ウォーカーとすれ違い、挨拶を交わし、その少し後に、かなり大きなアタックザックを背負った女性一人旅の人ともすれ違い、挨拶を交わしました。何だか元気づけられます。

白須賀 潮見坂下の「夢舞台 東海道」道標の写真を撮っていたら、「旅の人、旅の人」と呼び止められました。手に食べかけの林檎を持ったおばあさんが、「いい物あげるから」と…。まさかこんなおばあさんが人拐いな訳がないので、付いていってみると…

おばあさんが載った新聞記事(中日新聞地方版「Happy Days」)や、元サッカー日本代表の岩本輝雄さんがNHK衛星放送の企画番組で東海道五十三次を歩いた時に岩本さんとおばあちゃんが一緒に撮った写真とか、全国たくさんの人からおばあちゃんへ届いたお礼状(6000通!)を見せてくれました。

おばあちゃんは端切れと縄で作った小さな草鞋一組をくださいました。「リュックの見えるところに付けて歩くと、魔除けになるから」と。宇津ノ谷峠の鬼除け団子を思い出しました。あれは本当に効き目があった!

おばあちゃんは、小林末子さん、93歳。テレビや新聞に何回も出ているから、実名出しても問題ないよね。おばあちゃんの宝物は、全国から寄せられた6000通のお礼状。これがおばあちゃんの元気の源。

とってもおとなしい飼い犬君は、「ポチたま」の旅犬だいすけ君が来た時など、既に4回もテレビに出た犬です。

小さな草鞋一足をリュックにぶら下げ、おばあちゃんに見送られて、Happyな気分で潮見坂へ。なんだか嬉しくて嬉しくて、きつい坂も楽しく上れました。

午後の部に続く

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2008.12.30. Happy Day, Happy Road, Happy おばあちゃん

2008.12.30.

東海道五十三次 十六日目 午後の部 白須賀〜二川

道が何回かカーブし、道路際に「潮見坂」の看板があるところで振り返ったら、遠州灘がキラキラ見えました。逆光で写真には撮れませんでしたが。

潮見坂上左には「おんやど白須賀」という無料休憩所があり、おばあちゃんが「この草鞋を見せると、『おばあにもらってきたか』って言ってお茶を入れてくれるよ」と言ってましたが、残念ながら、12月19日から1月4日まで休館だという貼り紙がありました。

潮見坂公園跡には、石碑群があり、逆光で遠州灘が光っていました。

白須賀は昔ながらの町並みが残っています。

宿場町独特の、道が鍵型に折れている曲尺手(かねんて)がありました。

本陣跡を見たのは13時過ぎ。急にお腹がすいてきました。年末とあって、大掃除する人々が目につきましたが、煮しめや栗きんとんを作っていると思われるいい匂いがあちこちからしてくるんです…うう、たまらんっ…

白須賀は線路が近くを通らない山の中の集落で、コンビニも食堂もない。名物勝和(かちわ)もちを売っている、と本にありましたが、年末で店じまいしているのか、菓子舗も見当たらない。

湖西農協白須賀支店交差点の角に、「夏目甕麿(みかまろ)邸跡、加納諸平(もろひら)生誕の地」の碑が立っていました。

夏目甕麿は、白須賀の酒造の家に生まれ、国学を学び、「萩園」と称し、甕麿の子諸平は加納家に養子に行きましたが、諸平も国学を学び、「柿園」と称したそうです。

その先、格子戸の素敵な家がたくさん、ありました。

暫く行くと、大きな車がたくさん通る道に出ました。

本には、「暫く行くと、国道1号線に出る」とあったので、今、出た道がR1かと思っていたら、またもや大きな道と合流。今度こそR1で、今まで歩いてきた道は、県道173号線でした。

国道1号に出る手前300メートルぐらい前に、静岡県と愛知県の県境がありました。県境通過は13時31分。

10月7日に、長女との二人旅の箱根越えで「ようこそ静岡県へ」という看板を見てから今日まで、静岡県は大きく、延々静岡県でした。遂に、愛知県、三河の国の東端に足跡をつけました。

今日は、静かな旧道を歩くことが多く、東海道五十三次ウォーカーとしては、いい旅ができたのですが…国道に出た時、思いました。

国道歩きは殺風景だから、今日みたいな静かな旧街道歩きは楽しいけれど、コンビニに出会えない。国道歩きも悪くないな、と。

理想を言わせてもらえば、2時間ほど静かな趣きある道を歩いたら、1時間、コンビニや食堂のある国道を歩き、また静かな道を2時間…そんな都合のいいようには、道は通ってはいないのですよ。

いつも、非常食にカロリーメイトは入れてはあるんですけどね。

少し行くと、国道の左側にコンビニが見えたので、横断歩道を探したら、さっきの173号との合流点に戻った方が早いので、一旦戻りました。

コンビニでボロネーズハンバーガーを食べ、元気を取り戻し、また国道歩きに精を出します。

道の右側に一里山(細谷)一里塚跡があるはずなので、右側に戻りたかったのですが、なかなか横断歩道がない。天下の国道1号線は道幅が広く、上り車線と下り車線の間には中央分離帯もあるので、横断歩道がないところでは渡れません。

これじゃあ、一里塚はとっくに過ぎちゃっただろうなあ。

やっと信号が見えたので、よかった、と思ったら、まだ信号までたどり着かない内に、信号が変わってしまいました。国道優先の地方の道は、一度チャンスを逃すと大変なのは体験済みなので、絶対渡らなくちゃ、と走りました。「渡りたい、渡りたい、渡 哲也!」と呪文を唱えたおかげで、無事、渡れました。

結局、一里塚跡を見逃してしまいました…

その先に、右側にもコンビニが出現しましたが、白須賀宿でお腹ペコペコだったのだから、ここまではもたなかったなあ。

それから、2時間ほどひたすら国道歩き。

太陽は暖かいのですが、風が強くて、コンタクトレンズの目が痛い。

退屈な国道歩きですが、おばあちゃんに草鞋をもらって嬉しいので、「Oh Happy Day」を歌いながら歩きました。途中の難しいところはごまかしつつ、回りには車はビュンビュン通っているけれど、歩行者は私以外誰もいないので、結構大声で歌いながら歩きました。

最後の「Oh Happy Day」を繰り返すところは、手を胸より高い位置でクラッシュさせながら、ノリノリで何十回も繰り返し、さすがに飽きてきて、フィニッシュの「Oh Happy Day」を歌いきり、ああ、歌い終わった、という充実感。

サンプラザ中野が猿岩石のために作った「旅人よ〜The Longest Jurny」の♪強い風に今立ち向かって行く…というところだけ、今日の強風にピッタリなので、何回か歌い、また「Oh Happy Day」を歌い…

信号でオートバイが止まった時は、さすがに歌うのをやめました。手拍子しながら歩いているだけでも、かなり怪しい人だよね。

遠州は本当に風の国、と思ったら、境川を渡って三河の国に入っても風が強く、風力発電所がありました。

風力発電所の辺りで新幹線の線路がすぐ横の高いところを走っていて、頭の上をのぞみ号が飛んでいきました。

この近辺を歩いていた短い間に、上り下り合わせて、随分たくさん新幹線が通りました。

右折して新幹線の線路をくぐると、さっきから右の遠くに見えていた岩山が印象的に見えました。

小さな川を渡り、東海道線の踏切を渡り、すぐに左に曲がります。

三河の国に入って最初の宿場、二川(ふたがわ)宿は、昔ながらの道幅、格子戸の家々、素敵な宿場町。

往時の名残を留める、二ヶ所の桝形(曲尺手と同じ、道が折れ曲がったところ)、間口が狭く、奥行きが深い宅地割りの家々。

「二川宿」の文字が藍地に白く抜かれた暖簾をかけてある家がたくさんありましたが、その暖簾を売っている店がありました。あの暖簾は1100円らしい。

妙泉寺という寺があり、境内に紫陽花塚がありました。「芭蕉翁 あちさゐや葭を小池の別坐敷」

商家駒屋の遺構は立派な格子戸の家でした。

中原屋という菓子舗で、「半月」という半生のどら焼と、「宿場の月」という、仙台の「萩の月」に似た菓子をお土産に買いました。

立派な本陣が休館日で見られなかったけれど、この地方は松飾りに背の高い細長い竹を使うことが分かりました。

二川駅前着が15時半頃。次の吉田までは6.1kmです。

いつもなら吉田まで頑張っちゃうんですが、今日はリハビリ、リハビリ。20キロで打ち止めにしておきましょう。

しかし、二川駅で考えた…今日はせっかくの旅なのに、食いしん坊バンザイ!の私としては、かなり悲しい食生活…

朝5時半にパン1個

10時半にあんまん1個

13時半にボロネーズハンバーガー1個。

これで今から5時間かけて帰るのか?

よし、青春18きっぷの強みだ。食べに行くぞ!静岡時代に、浜松の鰻はイマイチだった、と言ったら、ある人が、「吉田の鰻が美味しい」と言っていたので私はズーッと憧れていたんです。遂に夢がかなう!

豊橋まで足を伸ばして、吉田のうなぎを食べに行きました。

吉田宿本陣跡の碑がある老舗、「丸よ」でうな丼を食べました。

丼の蓋を開けてびっくり!鰻が裏返しに載っている。

関西方式で蒸して作るからかなあ?関東の鰻みたいに表側がタレでテカテカしていないので、敢えて焦げ目を上に、ということで、腹側が上なのかな。

吉田の鰻だけ?それとも三河の鰻はみんな裏返しなの?西日本全体が鰻は裏返しなの?

食後は豊橋駅まで市電に乗りました。市電は一両で、ワンマンなので前から乗り、市内均一料金らしく、乗った時に150円支払いました。

帰りは、まず浜松行きに乗り、浜松で静岡行きに乗り換え、熱海行きに乗り換え、熱海で東京行きに乗り換え…約5時間の旅で、立っていた時もありますが、ほとんど座れました。

今日の日記の下書きを始めたのですが、携帯の電池が切れてしまったので、持参した漫画を読んでいる内に、漫画が面白かったので、退屈せずに帰れました。

今日の総歩数31393歩。歩いた距離22.5km、時速は4.92km/時。

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2009.01.07. 新年初歩き〜双六、七草、そして東海道ウォーカーにオススメランチ!

2009.01.07.

東海道五十三次 十七日目 新年初歩き 前半 二川〜飯村

朝5時半に家を出て、青春18きっぷで出掛けました。

年末、12月30日と同じ、静岡行き、静岡乗り換え浜松行き、浜松乗り換え豊橋行き、と進みました。

年末よりすいていました。学校も新学期が始まったらしく、高校生もたくさん見掛けました。

朝の内は、雲は多いけれど晴れていて、富士駅からは、雪肌の陰影が濃くて、周りの雲のせいか、ずいぶん近くに富士山が見えて、美しいというより、鳥肌がたつような怖さがありました。神の山、といった印象でした。

二川駅着は10時35分。トイレ、身支度を整え、いつものように家でパン1個を食べてきましたが、車内ですでにおなかがペコペコで、二川駅のキオスクで栗あんの大きなあんパンを買って、パクつきました。

歩き始めたのは10時55分。

この前歩いてきた道を10分ほど戻り、前回は年末で休館していた、豊橋市二川本陣資料館に行きました。

入館料は大人400円。

まず、東海道資料室を見ました。

一里塚、見付、高札場など、東海道に関する豆知識はすでに知っているし、旅の持ち物は岡部宿の大旅籠柏屋でも見たし、大名行列は箱根関所で見たし、由比のおもしろ館や、新居関所でも展示は見たし、飛ばして見てました。ワークシートがNo.1〜No.8まであちこちに置いてあり、後でゆっくり読もうと思ってもらってきました。

由比の広重美術館にもあった、版画の体験グッズも置いてありました。

企画展の、双六の展示が面白かった。たいてい何らかの付録らしいのですが、ほとんどがMO氏という方のコレクションみたいです。

新聞を広げたぐらいの大きさのものが多く、東海道の旅、日本早めぐりなど、旅ものが多いけれど、湘南めぐりや、ご近所買い物めぐり、なんていうのもありました。

古いものが多かったけれど、エビスビールが出した、2000年、いよいよ21世紀、という双六や、2005年のエコの取り組み関連の双六もありました。

双六って夢があるなあ。

入り口入ってすぐに、今日だけの特別展示なのか、暫くは展示されているのかは分かりませんが、「1月7日は人日(じんじつ)の節句。また、七草粥を食べる日である」と書かれていて、春の七草をそれぞれ別々の植木鉢に入れたものを展示してありました。

今まで、七草がひとつの籠に詰め込まれているのしか見たことがなかったから、どれがどれやらわからなかったのですが。それにしても、「ごぎょう」と「ほとけのざ」が分からない。何なんだろう。

「ほとけのざ」は、紫の花が咲いていて、観音様が合掌しているように見えるありがたい草ですが、食べられるの?これ。毒っぽいんですけど。

気になって、後で「ごぎょう」と「ほとけのざ」を調べてみたら、「ごぎょう」は黄色い小さい花が沢山咲く母子草で、昔は草餅の材料にしたそうです。今は草餅は蓬を使いますが。

「ほとけのざ」は調べてよかった。私が見た「ほとけのざ」は食べられません。食べられる「ほとけのざ」は、田平子(たびらこ)という名の黄色い花が咲く草で、丸い葉が仏様が座る円座に見えることから「ほとけのざ」と呼ぶそうです。しかし、一般的には、私が見た紫の花のものを「ほとけのざ」と呼ぶそうで、別名三界草(さんがいそう)。

田平子はキク科。三界草はシソ科。食べられる「ほとけのざ」は田平子です。間違って紫の花を食べないでくださいね。

旅籠清明館と本陣の内部も公開されていました。本陣では、たくさん部屋があるのを利用して、盆栽展をやっていました。

靴を脱いで自由に見学していいのですが、本陣には、シルバーボランティアさんのおじいさんが二人、文机の前で待っていて、「記帳をお願いします」と言われました。筆ペンしかなかったけれど、なかなかきれいに書けました。

奥の方に、記念記帳ノートが別に置いてあったので、書いてきました。

「1月7日 人日の節句 七草粥

朝5時半に家を出て、神奈川県〇〇市からやって来ました。

東海道を少しずつ歩いています。

白須賀でおばあちゃんから草鞋をもらいました。

いつになるか分からないけれど、京都を目指しています。

 東海道歩きびと ☆紗」

今まで何回か記念記帳してきましたが、ずっと本名を書いていました。

東海道ブログを立ち上げたからかな。自然と、「東海道歩きびと ☆紗」と署名していました。

本陣見学は興味は尽きないのですが、足から冷えてきたので、切り上げて、出発したのが正午少し前。

歩いていたら、美容院のチャイム時計が正午を告げて、「乙女の祈り」を奏でていました。

昔ながらの格子戸の民家の前を、ピンクのジャケットの小学生の女の子が歩いているな、と思ったら、女の子は「ただいま」と格子戸の家に入っていきました。誰かが住んでいるのは分かっていますが、学校帰りの小学生が普通に「ただいま」と入っていったのは、ちょっと驚きました。立派な神社やお寺のお子さんと同じような、畏敬の念を感じました。

今日は始業式だけだったのかな。小学生たちがどんどん帰ってきました。

二川宿の旧町には、これといった飲食店はなく、この前、和菓子を買った中原と、揚げ物の匂いが漂ってくる食料品店ぐらいしか見掛けませんでしたが、町外れになると、新しい家も増えて、飲食店も結構見掛けました。鰻屋、寿司屋、そば屋など。

この時点では、さっき食べた大きなあんパンが効いていて、お昼は吉田に着いてからでいいや、と思っていました。

二川宿から続く道が右にカーブし、大きな車道を横切ると、火打坂の上りが始まります。

400メートル先、右にコンビニがある、という看板を見付け、そこで非常食のパンと、虫抑えのお菓子(饅頭とかマドレーヌなどを何かひとつ)でも買おう、と思ったら、そのコンビニは1月22日オープンだそうで、まだやっていませんでした。がっかり。

左前方に岩屋観音の山が見えてきました。

旧東海道は、岩屋観音の山を回り込むように左に曲がります。交差点名もついていませんでしたが、目印としては、「ガーデンガーデン」という園芸店に沿って左に回ると、裏に「ガーデンガーデン」の駐車場があるし、暫く行くと、右側に「東海道」の道標があるので確認できます。

もう暫く行くと岩屋観音の入り口なのか、公園のようになっていて、上っていく山道風の階段が見え、下にはトイレもありました。

この辺りでは、近くに小学校があるらしく、下校の小学生が列をなして歩いていました。

東海道の松並木保存会が昔の松の切り株を記念に残し、新しい若い松も育てています。

久しぶりに風船唐綿に会いましたが、秋の終わりに弾けて中から綿と種が出てくるはずなのに、今日見た風船唐綿はまだ花も咲いていたり、実も小さいものもありました。

暫く歩くと、大きな道に合流。国道1号線と並行する道です。

少し前からトイレに行きたくなり、コンビニか公園か何かないかと探していましたが、なかなかない。

右側に小さな食堂が見えてきて…こういう小さい食堂は当たり外れがあり、以前、豚カツ屋で油が悪くて気分が悪くなったことがあったので…あまり、こういう店は…と敬遠したかったのですが、もうそんなことは言ってられない、と思い、入ることにしました。しかし、店前に貼り出されているランチメニューがかわいくて、案外期待できるかも、とちょっと思いました。

入るとき、食べ終わって帰るファミリーとすれ違いました。子どもたちの笑顔を見て、やはり期待できるかも、と思い始めました。

大きなテーブルばかりなので、どうしても相席になってしまうのですが、この店は相席は普通のことみたいで、でも、後から来た人が「失礼します、すみません」とちょっと挨拶することによってちょっとしたコミュニケーションがあって、均衡が保たれていくというか…

ランチはたくさん書いてあるので、オムライスかラーメンを選ぶのかと思って聞いてみたら、全部セットだそうで、そりゃもう、ランチを選ぶしかない!

安くて美味しくてボリュームたっぷり。

東京だったら、行列ができちゃうだろうなあ。

後半に続く

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2009.01.07. オススメランチと歴史探訪の日

2009.01.07.

東海道五十三次 十七日目  新年初歩き 後半 飯村〜吉田〜菟足神社(小坂井)

ふわふわオムレツ、みそごまポタージュラーメン、サラダ、小鉢(シェル型パスタのサラダ)、香の物、ご飯、デザート(みかんひとかけら、小さなパンケーキにバタークリームと小倉あん)…これだけあって、700円!

トイレにも駆け込めたし、安くて美味しかったし、大満足。

帰るとき、会計しながら「美味しかったです」と言ったら、「暖まりましたか?」と聞かれました。

「はい、暖まりました」と答えましたが…私は寒かったわけではなく、トイレに行きたかったんです。でも、お店の方には、顔色も悪く、寒そうで、冷えてトイレに駆け込んだように見えたんでしょうね。

とはいえ、暖まったのは本当です。

この店、やまに食堂は飯村付近。東海道五十三次ウォーカーの皆さんにお勧めしたいので、名前を出します。

その先、ファミレスが何軒かあったので、もしあのとき、トイレに行きたくなかったら、小さな店は通りすぎていたことでしょう。

やまに食堂は飯村にありましたが、その先は二軒茶屋。

殿田橋の先で国道1号と合流します。

合流してすぐに、右側に飯村一里塚跡がありました。

今日使っている本のおかげで現在地がわかりやすい。国土地理院二万五千分の一地図を用いているので。講談社「歴史街道ガイド 東海道五十三次を歩く」全五巻の第四巻「白須賀〜桑名」

旧東海道が通る町は伝馬町、瓦町、など昔ながらの町名。昔を偲ばせる建物などはない、と本にあったけれど、昔風の家はたまにありました。

瓦町にりっぱな寺がありました。壽泉禪寺という寺で、三重の塔がありました。

西新町の交差点の先に分岐の標識。旧東海道は東八丁交差点を左折するのですが、すぐ右折するので、東八丁の交差点は歩道橋で向こう側に渡っておくとよいです。

歩道橋から下りたところに東惣門跡がありました。

すぐに右折ですが、「東海道」の道標が指し示してくれています。

小さな道も数に入れて、二つ目の十字路を左折。不安になるけれど、行く手右側に造立稲荷が見えるので道が正しいことを確認できました。二万五千分の一地図はすごい。

造立稲荷の先を右折して暫く行くと、「東海道」の道標があったので、ホッと安心。

二つ目の十字路は大きな道を信号で渡りますが、その大きな道の真ん中の中央分離帯のような公園のようなところに曲尺手(かねんて)門史跡の碑がありました。

その先、最初の角、そば屋のところを左折。すぐ先を右折して広い通りに出ますが、そこにも「東海道」の道標がありました。

豊橋の町を歩いていて思ったことは、書道の文房具(筆、硯、紙など)を売っている店が多いこと。書の盛んな町なのかな。

その先は大手町。

豊橋市電(路面電車)が通る国道259号線を渡る時、すぐ左に市電の札木駅が見えます。

道を渡った先の右に、先日鰻丼を食べた「丸よ」。水曜が定休日らしく、シャッターが下りていて、店の前にある本陣跡の写真、前回とは違うものが撮れました。

その辺りからまたトイレに行きたくなり、左に渡って脇本陣跡の写真を撮ってからは、とにかくトイレを探して右往左往。

花園という商店街があったので、マックかドトールでもないかと行ってみたら、全店水曜が定休日なのか、まだ新年で営業していないのか、シャッター街で、その一列の通りは全滅。ゴーストタウンみたいで怖かった。豊橋は水曜定休の店が多いみたい。

こうなったら、駅の近くの丸栄(たぶんデパート)にでも行こうかと歩いていたら、市電の通る道の中央分離帯にトイレがあるのを発見。しかし、信号が全然変わらない。数分のことと思いますが、何時間にも感じられました。

やっと無事に用をすませ、ありがたい恩のあるこの場所の名を見たら、神明公園でした。

落ち着いたので、チクワの山サ本店にちくわを1本だけ買いに行きました。特選ちくわ1本252円を1本だけ買いました。太くて食べでがありそうです。

12月30日に来た時は、お節の買い物客でごった返して車も列を作っていましたが、今日は客は私一人でした。あの日は紅白の幕も張ってあり、今日とはずいぶんイメージが違いました。

暫く行くと左に菜飯田楽の「きく宗」があり、この店も水曜定休ですが、貼り紙によると、丸栄店は営業しているそうです。

きく宗の日本先、松葉公園交差点を右折すると、二つ目の十字路が国道23号線。渡った右側に西惣門がありました。

さらに進んで二つ目の十字路を左折して少し行くと、右側に神明社。天照大御神を祀る神社で、境内の池の中の築島神社に芭蕉句碑がありました。「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」という句で、「旅寝塚」と呼ばれているそうです。

道に戻って右折すると豊橋(とよばし)が見えてきます。

今、豊橋と呼ばれている町は、鎌倉時代、この豊川に今橋がかけられ、町の名も今橋となりましたが、戦国時代には今橋は「忌まわしい」を連想させ、演技が悪いということで、縁起のいい「吉」に因んで「吉田」と改名。明治になってから、豊川にかかる豊橋の名をとって、三度改名したのだそうです。

さて、豊橋を渡ると、すぐに左折。暫くは川沿いを歩きます。

右に郵便局があり、その先に幼稚園を併設した大きなお寺があり、聖眼寺という寺で、ここにも芭蕉句碑がありました。

「こを焼て手拭あぶる寒さかな」

「松葉塚」と呼ばれていますが、注意書がしてありました。「昭和二十年戦災にあい、句碑がいたんだので、拓本をとることを禁じます」

歴史的な価値のあるものから拓本をとったりする人がいたんでしょうか。

そこから暫く歩くと、横須賀という町名になりました。先日、藤枝駅前でも横須賀行きのバスがあったので、横須賀という地名は多いのかな。下北半島に横浜があったけど。

その先、旧東海道からは120メートル離れますが、右奥に瓜郷遺跡がありました。弥生式竪穴式住居が復元されていました。公園の隅に、高床式倉庫のミニチュアのようなものがあると思ったら、その中に瓜郷遺跡の説明書が入っていました。

その先、鹿菅橋を渡り、さらに進むと道が上っていき、橋に至るのですが、上り始めるところから歩道がなくなり、その坂と豊川放水路にかかる高橋を渡るのがとても怖かった。暫くの間は、高橋さんという人に会ったらトラウマかも。

高橋を渡る手前に小坂井(こざかい)町の境がありました。

その先右に、「子だが橋」跡の碑と説明がありました。人身御供の慣わしがあった頃、人身御供に奉仕していた世話役が人身御供に決まった女性が我が娘であったのを見て戸惑うけれど、慣わしには逆らえず、「子だが仕方ない」と言ったことからついた名だそうです。

現在の菟足(うたり)神社の祭りでは、十二羽の雀を生け贄として、執り行われているそうです。

国道151号線を渡った先の右側に菟足神社がありますが、大きな神社でした。神社やその辺り一帯が貝塚だったそうで、貝はほとんどアサリかシジミだったそうです。

菟足神社は、仕掛け花火発祥の地だそうで、4月の風まつりには、手筒花火、打ち上げ花火(二尺玉)、建物花火(仕掛け花火)などをやりますが、手筒花火が日本一なんだそうです。

また、菟足神社の宝物館には、国の重要文化財の大般若経585巻が保存されています。

菟足神社のすぐ左先にJR飯田線、小坂井駅があり、16時34分発豊橋行きに乗りました。一両編成で、駅が無人なので、車掌さんが降りる人から切符を集札したり、切符を持っていない人のために車内を巡回していました。私は青春18きっぷなので気楽です。

豊橋で掛川行きに乗り、浜松で熱海行きに乗り換え、今宵の宿泊地、清水に着いたのは19時5分頃。駅前のイルミネーションがきれいでした。

ホテルクエスト清水に泊まるのは二回目。前回は長女と一緒でしたが。あの時は長女と清水駅前に繰り出しましたが、今夜はホテルのレストランで、蝦夷麦酒「ひぐま濃い麦酒」という真っ黒だけど美味いビールで美味いものを食べました。

本日の総歩数は29626歩、歩いた距離は21.2km、時速4.93km。

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2009.01.08. 人生観が変わる橋

2009.01.08.

東海道番外編Ⅲ 興津再探訪と島田の蓬莱橋

♪チャラチャッチャチャッチャ、チャーン

ホテルクエストでの目覚め。朝の7時20分頃。

熱いお茶で、昨日買った豊橋の山サ本店の特選ちくわを食べました。

身支度をしながら、コーヒーも飲みたいと思い、また湯を沸かしてコーヒーを飲んでから出発。チェックアウトをして、駅前のマック辺りで朝食を、と思っていたのですが、ちくわとお茶とコーヒーでもうおなかがいっぱいなので、マックには入らず、コンビニでおむすびを2個買いました。

清水9:03の電車で隣駅、興津へ。

興津には昨年10月28日にも来ているのですが、もう暗い時間に通ったため何も見えなかったので、今日はもう一度きちんと興津を見るために、やって来ました。

興津駅に降り立ったのは9:09。

興津駅から出て、東海道を左(由比方面)へ少し戻って、一里塚を見ました。

再び駅の方へ戻り、駅前を通過して江尻方向へ進み、少し行くと、左に立派な米屋がありました。高山仙吉商店…この店、この前通った時、素敵だと思って写真を撮った店だ。夜の明かりも素敵だったけど、昼間見ても立派な店。今日は逆光なので撮りませんでした。

その少し先、右に東本陣跡。今日は暖かいなあ。

道を左側に渡り、水口屋(みなくちや)前の、脇本陣跡の写真を撮っていたら、「おはようございます」と声をかけられました。

水口屋は、旅館業を昭和60年に廃業し、今は企業の研修センターになっていますが、平成11年に敷地内にオープンした「水口屋ギャラリー」に水口屋の資料が展示されています。

水口屋ギャラリーの受付の女性が声をかけてくれて、「10時オープンなんですけど、よかったらどうぞ」…まだ9:25分なのに招き入れてくれました。掃除の最中でした。水口屋ギャラリーは入場無料。靴を脱いで上がり、入り口で記帳して、応接間のソファーに荷物を置かせていただき、資料もいただきました。

昔の、興津に別荘が沢山あった頃の写真が並んでいて、私はここの展示の中でも、古い写真に一番興味をもちました。

私がちょうど眺めていた写真の場所は、今はマックスバリューになっている、と、教えてもらいました。また、西園寺公望の別荘、坐漁荘(ざぎょそう)は、明治村に移転、保存されていますが、二代目坐漁荘が忠実に復元され、公開されているそうです。

旅館だった頃、泊まった有名人の名が連ねられていました。夏目漱石、志賀直哉、伊藤左千夫、有島生馬…一番最後に、昭和天皇皇后両陛下が書かれていました。

展示物の中にも、両陛下が使われた青磁の食器、出された料理の写真もありました。

15分ほど滞在し、お礼を言って出ようとしたら、受付の方が、すぐ二、三軒戻ったところに売っている宮様まんじゅうと揚げまんじゅうが美味しい、朝早くから店を開けていますよ、と教えてくれて、また、少し先に坐漁荘があり、そこは9時半から開いている、と教えてくれました。

水口屋を出て少し先右側に西本陣跡があり、暫く行くと、右の小高い所に清見寺。これは帰りに見ることにして、先に坐漁荘に行きました。

昨年10月28日に通った時は、閉まっていたけれど、門が明かりに照らし出されているのがきれいでした。

受付には誰もいませんでしたが、声をかけたら出てきてくれて、パンフレットをもらいました。ここも入場無料です。

靴を脱いで上がり、受付の方が奥に声をかけてくれて、奥にいるボランティアガイドさんが説明してくれるとのことでした。

最初に記帳をして、説明を聞きましたが、ガイドさんは新人なのか、あまりよく知らないので、ご自由にどうぞ、と言われ、えっ、と思いましたが、少しだけ、説明してくれました。

縁側から見える庭の先、数段低い場所にグラウンドがありますが、昔はグラウンドの所まで海だったそうです。今はグラウンドのさらに先に道路が通り、その向こうに海が見えましたが、埋め立てられてしまったのだそうです。

すぐそこまで海だった頃は、さぞかしこの庭が美しかっただろうなあ。

庭の向こうは防波堤の石垣になっていて、庭に座って長い釣竿で魚釣りができたことから坐漁荘という名がついたそうです。

二階からの景色がよいこと、一階の縁側の先にサンルームがあること、隣の部屋の棚に並べられている資料は好きなものを自由に取っていいこと、それだけ説明されました。写真は撮っていいそうです。入り口に館内飲食禁止と書いてあったので、本当は持参のおにぎりを食べたかったけれど、我慢しました。

サンルームの隣は洋風応接間。

そういえば、さっきの水口屋で、西園寺公望はしょっちゅう興津に来ては水口屋に泊まっていて、やがて自らの別荘を建てて、興津の人になった、と書いてありました。

逆にここで聞いた話から、海が埋め立てられて景観が悪くなったことが、水口屋が旅館を廃業するに至った原因のひとつではないかと推察されます。

風呂場は、床も壁も湯船も白木で出来ていて、すごい贅沢、と思いました。

二階に行くと、上がった所の廊下が鶯張りになっていました。それぐらい説明しておいてほしかった。キイキイ言うからドギマギしちゃいました。

鶯張りは、防犯のために用いられたようで、廊下の床が二重構造で、下側の木材が厚め、上が薄めになっていて、上下の木材をつなぐくさびに遊びをもたせることによってきしむそうです。

二階からは確かに景色はよいけれど、海側の景観は道路に遮られているから、庭が見える一階からの眺めの方が、私は好きです。

外壁に檜皮を使ったり、一見質素に見えますが、贅沢な建物だと思いました。

庭も見学して、坐漁荘を出ました。20分ほど見学していました。

道を渡り、興津駅方面へ少しだけ戻ると、高山樗牛の仮寓跡の碑があり、その後ろに高札がありました。

そのすぐ隣に清見寺。まず山門があり、山門と境内は東海道線で分断されているので、右側の興津案内板の方から回って、東海道の踏切を渡って上りました。

下から見えた立派な鐘楼がまず見えます。境内からの海の眺め、道路ができる前、さらに埋め立てられる前はどんなに美しかったでしょう。

「見学ご希望の方は受付を入って鐘を鳴らしてください」と書いてありましたが、境内を見るだけなら自由に見ていいんだろう、と、見ていました。

家康手植えの臥龍梅(がりゅうばい)、芭蕉句碑、与謝野晶子歌碑もありました。

また、山下清の「清見寺スケッチの思い出」よりという文章が立て札になっていて、これが面白い。

山下清「清見寺という名だな この寺は 古っぽしいけど上等に見えるな お寺の前庭のところに汽車の東海道線が走ってるのはどうゆうわけなんだろう お寺より汽車のほうが大事なので お寺の人はそんしたな お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいだと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

お寺の境内の古ぼけたベンチに座って、今朝清水のコンビニで買ってきたおにぎりを食べました。

この寺、好きだな、と思いながら階段を降りましたが、この寺を好きな理由は、山下清の文章のおかげかも。

帰りがけに、水口屋の受付さんに勧められた宮様まんじゅうを買いました。

水口屋から駅側数軒先にある潮屋という店で、宮様まんじゅうはとっても小さくて(1〜2口でパクリッのサイズ)、20個入り525円、宮様まんじゅうを揚げた揚げまんじゅうが9個入りで200いくら、両方で、千円でおつりが来ました。

興津発10時56分の島田行きに乗り、終点の島田で降りました。

島田に来た目的は、東海道からは外れた寄り道になるのですが、蓬莱橋という「世界一の木造歩道橋」としてギネスに認定された橋、全長897.4メートル、通行幅2.7メートル、大井川にかかる橋で、島田駅の南東、徒歩15分ぐらいのところにある橋にどうしても行ってみたくて。

島田駅の南口はロータリー工事をしていて、舗装前の整地をしているところで、立ち入り禁止。どうやって町まで出るのか、うろうろしちゃいました。

結局裏の方から線路沿いの細い道をたどって行きました。

後から知ったのですが、3月に静岡空港が出来るので、それに向けて整備していたみたい。

私が蓬莱橋のたもとに着いたのは正午頃。大人は100円の往復渡り賃を払います。

長い、木の温もりもある橋。

すれ違った女性二人が、かなり込み入った話をしていました。私ももし友人と来ていたら、一生話さないつもりでいた秘密などを、この橋の上でなら話せてしまうかも。人生観が変わってしまいそうな…そんな橋でした。

片道、10分ぐらい、かかりました。

残念だったのは、晴れてはいたけれど遠くが霞んでいて、いつもなら見える伊豆半島も見えないし、富士山が「あそこにありますよ」と言われないと分からないほどボーッと空に溶け込んで、ほとんど見えなかったこと。

富士山を目を凝らして見てみると、かなり大きく見えるし、橋の上からの富士山は、遮るものがなく、くっきり見える日なら、最高の富士山ヴューポイントになるなあ、と思いました。

また来たいな。できれば3月に、この山の上に空港が出来てしまう前に。

駅まで戻るのに、さっき来た島田駅南口からの道ではなく、どうせなら橋からまっすぐ北上して旧東海道にぶつかったら、そこから(既に一度通った道ではあるけれど)旧東海道をたどって島田駅まで行こう、と思い立ちました。

蓬莱橋からまっすぐ北上すると、その辺りの町は、宝来町ということが分かりました。同音で違う字を書く、どちらも「ほうらい」。そもそも、蓬莱橋は、時の藩主(1870年、徳川亀千代、後の家達いえさと)が牧之原開拓をしている幕臣を激励し、「ここは宝の山だ」と言ったことが名のいわれと伝えられているそうで、町の名が宝来、橋が蓬莱橋と分かれたらしい。

まっすぐ進んで東海道線の踏切を渡ってその先で旧東海道と出会った左角に、見覚えある店…あっ、疲れて休みたかった時に、ショーウィンドゥを覗いていたら、自動扉が開いてしまい、結局島田名物、酒小饅頭のバラ売りをしてもらえるか聞いたところ、3個で105円で、お茶も出してくれて、休憩できた、あの中村屋。でも、ガイド本で紹介されていた清水屋ではなかったので、今日せっかく島田を再訪したのだから、清水屋の酒小饅頭を食べてみよう、と入ったのですが…なんだか、想像していたのと違う…商売慣れしていないようなおじさんとおばさん、酒小饅頭は1個単位でいくつでも買える、というので、前回の例に倣って3個買いました。95円でした。すぐ食べたい、と言ったのに、白い小さな紙袋に入れてくれて…でも、緋毛氈を敷いた長椅子に座らせてもらってすぐに食べました。お茶のサービスはなかった。

なので、食べ終わって店を出てから、持参のペットボトルのお茶を飲みました。

この店の酒小饅頭は、どうやらなんだか、ガイド本お勧めのものとは違うと思い、ガイド本を開けて確かめたら、清水屋違いだったみたいで、本で紹介されていたのは元祖清水屋。本通り2丁目、駅のそば、というので、探しながら行きました。

この前は道の左側を歩きましたが、今日は右を歩いたら、二ヶ所に本陣後がありました。

駅前へと曲がる角に、芭蕉句碑がありました。

曲がってすぐに元祖清水屋があり、ここでもバラ売りができるとのことで、3個で126円。ここもお茶は出ませんでした。元祖清水屋の酒小饅頭はいかにも酒まんらしい風味で美味しかったのですが、歩く旅人としては、お茶を出してくれた、中村屋がよかったかなあ。

島田駅に着いたら、熱海行きが出るまで時間があったので、売店でおにぎりと温かいお茶を買い、椅子に座ってお握りと元祖清水屋の酒小饅頭を食べました。

実はもう一ヶ所今日行きたい場所があったのですが、夜、ダンスレッスンがあるので、もう一ヶ所は諦めて、明るい内に帰りました。

本日の旅の(夕方、自宅に帰るまでの)総歩数17074歩。歩いた距離は12.26km。時速は4.94km。

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